第5話 神殿騎士
蹄の音は、最初は遠雷みたいだった。
乾いた土を規則正しく打つ音が、風に削られながら近づいてくる。村を出たばかりの道の上で、レオンはしばらく動けなかった。背中の布袋がやけに軽い。手首には、ついさっきまで食い込んでいた縄の感触がまだ残っている。その頼りない軽さと、耳の奥に残る不気味な響きと、遠くから迫ってくる蹄の音。そのどれもが現実なのに、まだうまく噛み合わなかった。
――移送解除。
――追跡権限移行。
意味の分からない言葉が、また頭の奥に引っかかっている。
だが、蹄の音の意味だけは分かった。
追手だ。
村のための護衛ではない。
村の外まで出したあとで来るなら、最初から別の役目を負った連中だ。
レオンはようやく息を吸い、振り返った。
村へ戻る道の先、緩やかな坂の向こうから、二騎の馬影が現れた。陽を受けた金具が光る。遠目にも分かる。村の自警団ではない。あんな装備を持てるはずがない。白を基調にした外套、胸の上で鈍く光る紋章、馬上でも崩れない姿勢。神殿所属の騎兵だ。
片方が前に出る。
もう一方は半歩後ろ。
先頭の騎手は、若かった。
二十代の半ばか、もう少し上か。灰色がかった黒髪を短く整え、無駄のない面立ちをしている。派手さはない。だが、その分だけ隙もなかった。近づいてくるにつれて分かる。強い、というより、訓練されすぎている。立ち方も、手綱の捌き方も、腰の剣の角度まで、全部がきちんと収まっていた。
あれは、人を追うのに慣れている。
馬が十歩ほど手前で止まる。
土埃がわずかに舞った。
「レオン・アルヴェイン」
男が名を呼んだ。
よく通る声だった。大きくはないのに、曖昧なところが何もない。命令に慣れた声だ、とレオンは思った。
「神殿執行部所属、ヴァルト・ガーディスだ」
名乗り方まで簡潔だった。
「お前に確認したいことがある。抵抗せず、こちらに同行しろ」
確認。
ずいぶん穏やかな言い方だ。
村の神官たちは“処理”と言った。こっちは“同行”と言う。言葉だけなら、むしろ丁寧ですらある。
だが、その穏やかさが逆に怖かった。
丁寧に言えるのは、相手がどうしようと結果を変えられないと思っている者だけだ。
レオンは答えなかった。
視線だけが、ヴァルトの後ろへ流れる。副騎手は若い男で、こちらをじっと見ていた。手はすでに腰の短杖に添えられている。術士らしい。
逃げるなら、まずあちらだ。
そう考えた自分に、レオンは少し驚いた。つい十分前まで、自分は村を出されたばかりの少年だったはずなのに、もうそんなことを考えている。
「聞こえなかったか」
ヴァルトがもう一度言う。
「抵抗しなければ、無用な傷は負わせない」
「断ったら」
ようやく出たレオンの声は、思ったより掠れていなかった。
ヴァルトは少しだけ目を細めた。
「その場合は、拘束の上で連行する」
「罪人扱いですね」
「お前が罪人かどうかは、私が決めることではない」
「でも、連れて行くんでしょう」
「そうだ」
迷いがない。
この男は、自分の役割を疑っていない。
少なくとも今この場では。
「どうして村の中じゃなくて、外で待ってた」
レオンは聞いた。
ヴァルトは一瞬だけ沈黙した。
その沈黙の短さが、逆に本当のことを言うつもりだと示していた。
「村の中で騒ぎを大きくしたくなかった」
「優しいんだ」
「違う」
即答だった。
「村は秩序の単位だ。余計な混乱を増やさない方がいい。それだけだ」
なるほど、とレオンは思った。
優しさではない。
だが残酷でもない。
この男はたぶん、自分なりの正しさで動いている。
だから厄介だ。
「質問は終わりか」とヴァルトが言う。
「まだ一つ」
「言え」
レオンはまっすぐにヴァルトを見た。
「……傲慢って、何なんですか」
副騎手が眉を動かした。
ヴァルトの表情は変わらない。だが、その沈黙は今度だけ少し長かった。
「知らされていないのか」
「村の神官は、“神を拒む印”だって」
「概ね間違っていない」
「概ね」
「お前が知る必要のあることは、今はそこまでだ」
今は。
つまり、この男はもっと知っている。
しかも、言うか言わないかを自分で決められる立場にいる。
「行く気はないな」
ヴァルトが静かに言った。
レオンは答えない。
答えないことが、答えになっていた。
風が吹いた。
街道脇の若い草が揺れる。
村の木柵はもう少し先に小さく見えるだけだ。戻ろうと思えば、まだ戻れる距離だった。けれど戻ったところで、村は守ってくれない。追手から自分を庇うどころか、むしろ早く引き渡したいだろう。
もう本当に、外に出てしまったのだ。
ヴァルトが馬上で小さく息を吐いた。
「なら、こちらも手順を変える」
その言葉と同時に、副騎手が短杖を抜く。
反射的にレオンは一歩下がった。
杖の先端に白い光が灯る。聖石の白とは違う。もっと整った、管理された光だ。祈祷術。村の祭壇で見た儀礼用のものとは質が違う。実戦用だと直感できた。
「最後に言う」とヴァルトが告げる。「抵抗するな」
レオンはその一瞬、従う可能性を考えた。
連れて行かれて、神殿で何かを調べられて、それで終わるのなら。
少なくとも、無駄に痛い思いはしないかもしれない。
村の外で行き倒れるより、そっちの方がましなのかもしれない。
だが、そう考えた途端に、神官の顔と、村長の声が脳裏をよぎった。
処理。
外部干渉の拒絶。
日暮れまでに出ろ。
そして、聖石の奥から聞こえたあの響き。
――適合。
分からないことばかりだ。
けれど一つだけ、妙にはっきりしていることがある。
今ここで黙って手を差し出したら、自分は二度と“自分で選ぶ側”へ戻れない気がした。
「嫌です」
レオンは言った。
副騎手の杖先が強く光る。
「拘束」
短い詠唱とともに、白い紋が空中に走った。次の瞬間、レオンの足元から細い光の鎖が跳ね上がる。蛇みたいにうねりながら、脚へ、腰へ、腕へと絡みつこうとした。
速い。
考えるより先に、レオンは身をひねった。だが完全には避けきれない。左足首に一つ巻きつく。冷たい。凍った鉄線みたいな感触だった。
副騎手が眉を上げる。
村の子どもに対しては、過剰なくらいの術だったのだろう。普通なら、これで終わるはずだった。
レオンはとっさに、その光を見た。
見た瞬間、またあの妙な感覚が走る。
自分に向かってくるものを見ているのに、どこかで知っている。
知らないはずなのに、受け入れてはいけないものだとだけ分かる。
嫌だ、とレオンは思った。
それだけだった。
だが次の瞬間、足首に絡みついた白い鎖が、乾いた音を立てて弾けた。
ぱきり、と。
氷の薄膜が割れるような、ひどく軽い音だった。
副騎手が目を見開く。
「何――」
言い終わる前に、残りの拘束紋も空中で揺らぎ、形を失った。光の線がほどけ、塵みたいに散る。
レオン自身が一番驚いていた。
今、自分が何をしたのか分からない。術を打ち消したのか。壊したのか。そもそも、そんなことができるはずがない。
ヴァルトだけが、すぐには動かなかった。
馬上で、じっとレオンを見ている。
その視線の重さが、さっきまでとは変わっていた。
「……なるほど」
低く呟く。
「記録通りか」
副騎手が振り向く。
「ヴァルト様!」
「下がれ」
「しかし――」
「下がれ」
今度の声は命令だった。副騎手は悔しそうに歯を食いしばり、しかし従った。
ヴァルトがゆっくりと馬を下りる。
革靴が土を踏む音がした。
剣の柄に手はかけない。だが、かけていないだけで、いつでも抜ける距離だ。
「レオン・アルヴェイン」
もう一度、名を呼ばれる。
「お前は、自分が何をしたか分かっているか」
「……分かりません」
「そうだろうな」
ヴァルトはそれを責める口調では言わなかった。
数歩分の距離を置いて立ち止まる。近すぎず、遠すぎず。逃がさず、しかし威圧で潰しきらない距離だ。
「今のは神殿拘束術だ。正式な訓練を受けた祈祷士の術を、加護も持たぬ村人が弾けるはずがない」
「弾いたつもりはないです」
「だが結果はそうなった」
事実だけを言う。
その冷静さが、かえって怖かった。
「お前は危険だ」とヴァルトは言う。
「でも、危険にしたいわけじゃない」
その言い方に、レオンは少しだけ目を瞬いた。
奇妙な言葉だった。危険だから拘束する、ではない。危険だが、危険にしたいわけではない。そこに、職務と個人の考えのずれが見えた。
「同行しろ」とヴァルトは再び言う。
「今ならまだ、選べる」
その言葉は、さっきより少しだけ重かった。
脅しではなく、本当に最後の確認なのだろう。
レオンは喉の奥で浅く息を吸った。
選べる。
その言葉に、一瞬だけ心が揺れる。
けれど、それでも駄目だった。
村の中で何も選べなかった。
追放も、隔離も、処理も、全部向こうが決めた。
ここでまで、黙って差し出されるのは嫌だった。
「……嫌です」
今度は少しだけ、はっきりと言えた。
ヴァルトの目が細くなる。
失望ではない。確認した、という顔だった。
「なら、ここから先は執行になる」
副騎手が再び杖を構える。
レオンは半歩ずつ後ろへ下がった。街道脇の斜面、その先には林がある。地理は分からない。けれど、道の上にいるよりましだ。立ち止まれば終わる。
「走れ」と頭のどこかが言った気がした。
誰の声でもない。
ただ、生き物としての反応だったのかもしれない。
次の瞬間、レオンは踵を返していた。
土を蹴る。斜面を滑るように駆け下りる。背後で副騎手が何か叫び、杖が風を裂く音がした。白い光が肩口を掠め、木の幹に当たって弾ける。
林の中へ飛び込む。
枝が頬を打ち、乾いた葉が足元で砕ける。布袋が背中で跳ねた。息がすぐに苦しくなる。けれど止まれない。止まった瞬間に終わる。
背後からは、もう副騎手の声は聞こえなかった。
代わりに、一定の速さで距離を詰めてくる足音が一つだけある。
ヴァルトだ。
あの男だけが、無駄なく追ってきている。
林の奥へ走りながら、レオンは初めて理解した。
村を出たから終わりではなかった。
むしろ、ここからが本当の始まりだ。
耳の奥で、またあの乾いた音が鳴る。
――逃走行動を確認。
――執行段階、移行。
意味なんて知りたくなかった。
それでも、その響きが自分の中に染み込んでいくのを、もう無視できなかった。




