第4話 家を出る日
倉を出されたとき、太陽はまだ高かった。
昼を少し回ったくらいだろうか。空は晴れきっていて、雲の薄い影すらない。広場の白布はもう片づけられていた。花飾りだけが、祭りの名残みたいに家々の軒先に残っている。あれほど大きな出来事があったのに、村の見た目だけは朝とそう変わらない。そのことが、かえってレオンには腹立たしかった。
手首の縄は解かれていた。だが護衛は一人、無言で少し後ろをついてくる。逃がさないためというより、村の目に見える形で“監督下”に置いているのだろう。人を安心させるための護衛だ。レオンのためではなく、村のための。
倉を出てから家までの道のりは、普段よりずっと短く感じた。知っている石垣、知っている井戸、知っている家の壁。そのどれもがいつも通りなのに、自分だけがそこから少しずつ剥がれていく気がした。
道の途中で、顔見知りの老婆とすれ違った。
昔、風邪を引いたときに薬草粥を持ってきてくれた人だ。レオンが小さく頭を下げると、老婆は一瞬だけ立ち止まり、それから目を逸らして道の端へ寄った。何も言わない。ただ、胸元で祈りの印を切る。
その仕草が、妙に静かだった。
怒鳴られたわけではない。石を投げられたわけでもない。なのに、その無言の方がよほど堪えた。相手も苦しそうな顔をしているのが見えるからだ。怖いのだろう。怖いから避ける。避けることが正しいと、自分に言い聞かせているのだろう。
人はそうやって、昨日まで知っていた相手を切り離せる。
レオンはそれ以上見ないようにして、家の方へ歩いた。
◇
扉は少しだけ開いていた。
出ていくとき、きちんと閉めたはずなのにと思って、すぐに気づく。母が何度も外を見たのだろう。何度も開けて、何度も閉めて、そのたびに少しずつ隙間が残ったのだ。
敷居をまたぐと、土間の向こうで母が顔を上げた。
言葉はなかった。
泣き腫らした目をしていた。けれど、今はもう泣いていなかった。泣ききってしまったあとの顔だった。後ろの卓の上には、小さな布袋と水筒、それに包まれた干し肉と硬い黒パンが置かれている。旅支度のつもりなのだと分かる。
母は立ち上がり、二歩だけ近づいて、それから止まった。
「……本当に、出るの」
声はかすれていた。
「日暮れまでに」
レオンがそう言うと、母は俯いた。
その返事だけで、全部が確定してしまう。まだ少しは違うかもしれないと、心のどこかで思っていた希望まで、そこで終わるのだろう。
「お父さんは?」とレオンが聞いた。
「畑に行ったよ」
「こんな日に?」
「行かないと、壊れるから」
その言い方で、父が何をしているのか分かった。
畑を見ているのではない。土を触り、鍬を動かし、何か仕事の形をしていないと、自分を保てないのだ。
レオンは少しだけ唇を噛んだ。
怒って出てきてくれた方がよかったかもしれない。殴られてもよかった。何かしら分かりやすい形で拒まれた方が、まだ耐えやすい。誰も怒らず、誰も責めず、ただ壊れないように静かに距離を取っている。その方がずっときつかった。
「ごめん」
口をついて出た言葉に、母が顔を上げる。
「何であんたが謝るの」
「だって、俺のせいで――」
「違う」
母の声が、初めて少し強くなった。
「あんたのせいじゃない。そんなの、あんたのせいじゃないよ」
言いながら、母の目にまた涙が浮かぶ。泣きたくないのに、もう体が勝手にそうしてしまうようだった。
「ただ……どうしていいか、分からないだけで」
その“分からない”が、村中の顔にあった。
レオンは卓へ歩き、置かれた布袋に手を伸ばした。中には着替えが二枚と、銅貨が少し、父が使っていた小さな折り畳みナイフ、それに古い首巻きが入っていた。冬に母が編んでくれたものだ。もう季節には合わないのに、それでも入れてくれたらしい。
「……こんなの、いらないのに」
そう言いながら、喉の奥が詰まった。
「持っていきなさい」
「重いよ」
「それくらい、持ちなさい」
母は泣きながら、でもいつもの母親の顔で言った。
その声を聞いた瞬間、レオンは初めて、ここで泣くわけにはいかないと思った。母が崩れてしまう。少なくとも今は、自分が先に崩れるわけにはいかない。
「……分かった」
布袋を肩に掛ける。思ったより軽かった。その軽さが、ひどく心細い。
母は少し迷ってから、ようやくレオンに近づいた。両手で頬に触れる。子どもの頃に熱を測るときと同じ仕草だった。
「無茶しないで」 「うん」 「人をすぐ信じちゃ駄目」 「うん」 「でも、全部を疑っても駄目」 「……難しいな」
母は少しだけ笑った。泣き顔のままの、ひどく弱い笑いだった。
「生きて」
その一言だけは、母親ではなく、祈る人間の声だった。
レオンは答えられなかった。
うん、と軽く言ってしまうには、その言葉は重すぎた。だから小さく頷くだけにした。
母の手が離れる。
その瞬間、玄関の外で足音が止まった。
扉が叩かれる前に、誰が来たのか分かった。
「俺だ」
カインの声だった。
母が一瞬ためらい、それから扉を開ける。外にはカインが立っていた。朝の祭事服のままではなく、少し動きやすい上着に着替えている。村の若者の一人としてではなく、友達として来たのだと分かる格好だった。
だが、顔は朝よりずっと硬かった。
「少しだけ話させて」とカインが言う。
母はレオンを見た。
レオンが頷くと、母は無言で奥へ下がった。
家の前に出る。護衛は少し離れた場所にいるが、止めはしなかった。カインなら今さらどうこうしないと思っているのか、それとも英雄候補として扱いを変えているのか、そのどちらかだろう。
「村長のところへ行った」とカインが言った。
「そう」
「神官にも言った。でも駄目だった」
「そうだろうね」
カインが顔をしかめる。
「お前、そうやって納得したみたいな顔するなよ」
「納得してないよ」
「してないように見えない」
「じゃあ、どうしてればいいんだよ」
思ったより強い声が出た。
カインが黙る。
レオンは自分でも少し驚いた。怒鳴るつもりはなかった。ただ、ずっと喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形になって出ただけだ。
「村長を殴ればよかった?」 「そんなこと言ってない」 「神官の前で暴れれば変わった?」 「そうじゃなくて」 「じゃあ、どうしろって言うんだ」
カインはしばらく何も言えなかった。
風が二人の間を抜ける。軒先の花飾りがかすかに揺れた。朝には祝祭に見えたそれが、今は見送りのための紙細工みたいに見える。
「……一緒に行く」
やがてカインが言った。
レオンは眉を寄せた。
「何」
「村を出るなら、一緒に行く」
「馬鹿か」
「本気だ」
「本気で馬鹿だ」
即座に返すと、カインの顔が歪んだ。
怒ったのではない。傷ついた顔だった。だから、少しだけ胸が痛む。
「俺だけここに残って、何もなかったみたいに神殿へ行けって言うのか」
「行けよ」
「レオン」
「行けって言ってるんだ」
レオンは一歩、カインに近づいた。
「お前は今日、英雄候補になったんだろ。村の期待も、神殿の目も、全部ついた。ここで俺についてきたら、お前まで終わる」
「それでも――」
「それでもじゃない」
自分でも驚くほど、声が低かった。
カインは黙る。
たぶん今のレオンは、朝の祭壇に立っていたときより、よほど“近づきにくい顔”をしていた。
「俺はもう、ここの外へ出される」
レオンは言う。
その言葉を口にした瞬間、ようやく“追放”が現実の形を持った気がした。
「でもお前は、まだここに残れる。残れるなら残れよ。俺まで巻き込んで、全部駄目にしたくない」
「お前はどうなる」
「知らない」
「知らないで行くのか」
「知ってる奴なんかいないだろ」
その通りだった。
神官も、村長も、母も、カインも、そしてレオン自身も、これからどうなるかなんて分かっていない。ただ一つ分かるのは、ここに居続けることはできないということだけだ。
カインが拳を握る。
「……俺、絶対にお前を探すから」
その言葉は、約束というより、自分に言い聞かせる声に近かった。
レオンは少しだけ視線を逸らした。
「やめとけ」
「やめない」
「面倒だからやめろ」
「お前、そういうとこだけ昔から変わらないな」
少しだけ、二人の間にいつもの空気が戻った。
ほんの一瞬だけだったけれど。
それが戻ったせいで、かえって別れが現実になった。
護衛が離れた場所から声をかける。
「時間だ」
短い一言だった。
カインが何か言い返しかけるが、レオンは先に首を振った。これ以上引き延ばしても、楽にはならない。
「じゃあな」
それだけ言う。
カインはすぐに返事をしなかった。
最後に言う言葉を選んでいるようだった。けれど結局、彼が口にしたのは、ひどく単純な一言だった。
「死ぬなよ」
レオンは笑いかけて、うまく笑えなかった。
「お前も」
それで終わった。
家の戸が、背後で静かに閉まる。母は最後まで出てこなかった。出てきたら、本当に行けなくなると分かっていたのだろう。父の姿も見えないままだった。畑にいるのか、それとも戻ってきて家の奥で黙っているのか、結局分からなかった。
護衛が街道の方を示す。
レオンは一度だけ、家を振り返った。見慣れた壁、軒、戸口。何も変わっていない。変わったのは、自分がもうあそこへ戻れないということだけだ。
歩き出す。
村の出口はすぐだった。小さな村だ。外へ出るのに、たいした時間はかからない。なのに一歩ごとに、足が重くなる。石畳が土道に変わる。見慣れた家並みが途切れる。畑の匂いが濃くなる。その全部が、自分が切り離されていく手触りになっていく。
村境の木柵を越えたところで、護衛が足を止めた。
「ここまでだ」
それだけ言って、護衛は本当にそれ以上ついてこなかった。振り返りもせず、村へ戻っていく。あっさりしたものだった。送り出しではない。ただ、村の外へ出したという事実だけが必要だったのだ。
レオンは一人、道の上に立った。
風が吹く。
背中の布袋が小さく揺れる。
空は広い。
広すぎて、どこへ行けばいいのか分からない。
そのとき、耳の奥で、またあの乾いた音がした。
――移送解除。
――追跡権限移行。
レオンは息を止めた。
意味は分からない。
けれど今までで一番、嫌な響きだった。
次の瞬間、背後の村道の方から、かすかに土を打つ音が聞こえた。
規則的で、速い。
一つではない。
馬の蹄だ。
レオンは振り返る。
村を出るだけでは、終わらなかった。




