第9話 見つからないための歩き方
小祠の中で息を潜めているあいだ、外の気配はそれ以上近づいてこなかった。
それなのに、レオンの喉の奥はずっと固いままだった。
草を撫でる風の音がする。遠くで鳥が一度鳴き、どこかで枝が擦れ、乾いた葉が地を転がる。森としては何ひとつ不自然ではない。けれど、その当たり前の音の並びが、かえって嫌だった。何も起きていないのではなく、まだ起きていないだけ――そんなふうに聞こえる。
セレナは入口の脇にしゃがみ込んだまま、外を見ていた。旅装の裾が石床に触れ、吹き込む風が後れ毛を頬へ運ぶ。彼女はそれを指先で払う。その仕草だけが妙に静かだった。
「もう少し待つか」
小声で聞くと、セレナは首を横に振った。
「待ちすぎると暗くなる」
「暗い方が隠れやすいだろ」
「隠れやすいけど、逃げやすくはない」
短く返されて、レオンは口を閉じた。
今の自分は足首を痛めている。夜道になれば、不利になるのは追う側より自分の方だ。
セレナは外へ半歩だけ出て、木々のあいだを見回したあと、すぐ戻ってきた。
「北に少し行くと、沢沿いの細い道がある。街道から見えにくい」
「そんな道まで知ってるのか」
「前に通ったことがあるから」
「旅慣れてるな」
「慣れたくて慣れたわけじゃないけどね」
その言い方に、胸のどこかが小さく引っかかった。言葉そのものより、言い終えたあとの目が気になった。遠くを見る目だった。見ているのが森なのか、別の何かなのか、レオンには分からない。
けれど今、そこへ踏み込むべきではない。それくらいは分かる。
レオンは壁に手をついて立ち上がった。足首が鈍く痛む。歩ける。だが、走るのはまだ無理だ。
「動ける?」
「動くしかない」
答えると、セレナがわずかに目を細めた。
「正直だね」
「無理なものを平気だって言っても、足は治らない」
セレナがかすかに笑う。
その笑いで、小祠の空気がほんの少しだけ人のものへ戻った。
レオンは布袋を肩に掛け直した。家を出る朝、母が持たせてくれた最低限の荷しか入っていない。なのに、妙に重かった。肩へ食い込む感触が、家を離れたことを何度でも思い出させる。
ほんの半日前まで、自分はあの家へ帰るはずだった。
夕方になれば、母が鍋の蓋を開ける音がして、父が遅いだの早いだの言って、いつもと同じ夜になるはずだった。そんなものは壊れようがないと思っていた。壊れるのは、もっと遠くの誰かの暮らしだけだと思っていた。
外へ耳を澄ます。
何も聞こえない。
それでも、どこかでこちらを待っているものがある気配だけは消えなかった。ヴァルトなのか、それとも耳の奥で鳴るあれに連なる別の何かなのか、まだ見極められない。
「行こう」
セレナが言った。
レオンは頷き、小祠の影から外へ出た。
◇
沢沿いの道は、道と呼ぶにはあまりに頼りなかった。
草と石のあいだに、かろうじて人の通った跡が残っている程度だ。少し踏み外せば湿った土に足を取られ、気を抜けば簡単に体勢を崩しそうになる。だがそのぶん、街道から見つけられる心配は薄い。
セレナが前を歩き、レオンが後ろにつく。
それだけのことが、妙に落ち着かなかった。
村にいた頃、道は知っている場所へ繋がっていた。家か、畑か、広場か。どこへ向かっているのか分からないまま歩くことなんてなかった。
今は違う。
自分の進む先を、自分で決められていない。
それが、足の痛みより少し嫌だった。
「無理してない?」
前を向いたまま、セレナが言う。
「してる」
「そこは隠さないんだ」
「隠しても遅くなるだけだろ」
「それはそう」
少し間を置いてから、セレナが続けた。
「でも、限界なら言って。こっちは合わせるから」
その言葉に、レオンはすぐ返せなかった。
祭壇で罪印が出てから、何もかもが切り離される方へ動いていた。目線も、声も、距離も。そんな中で、合わせる、と当然みたいに言われると、どう受け取ればいいのか分からなくなる。
「……何でそこまで気にするんだ」
ようやくそう言うと、セレナは歩幅を変えないまま答えた。
「今のあなた、放っておくと無茶する顔してるから」
「そんな顔してるか」
「してる」
即答だった。
少しだけ、笑いそうになる。ひどい言い方なのに、妙に救われる。
沢の水が石に当たる音が、ずっと右手で鳴っていた。細い流れなのに、その音は思った以上に耳へ残る。ときどき森の奥で鳥が飛び立ち、そのたびにレオンの肩が強張った。
そのたび、セレナは振り向かない。振り向かないまま、歩幅だけを少し緩める。後ろの気配を確かめる癖が身についている人間の歩き方だ、とレオンは思った。
「まだ後ろが気になる?」
「気になる」
「音は?」
「しない」
「なら、少なくとも近くにはいない」
大丈夫、と軽くは言わない言い方だった。安心させるための嘘をつかない。そのくせ、不安に沈ませる話し方もしない。セレナはそういうふうに言葉を選ぶ。
しばらく進むと、沢が少し開けた。水際に平たい石が並び、その先に崩れた木橋の残骸が見えた。昔は人が渡っていたのだろうが、今は半ば沈んでいる。
セレナが足を止める。
「ここで少し休もう」
「お前もきついんだろ」
「見抜かれた」
肩をすくめるように言うので、レオンは黙って水辺の石へ腰を下ろした。
沢の水は透き通っていて、底の小石まで見えた。顔を洗えば気分も変わるかと思ったが、動くより座っていたい気持ちの方が勝っていた。
「ねえ」
セレナが水面を見たまま言った。
「さっきの話、本当?」
「何が」
「自分は悪くないと思ってる。でも言い切れない、ってやつ」
レオンは答える前に少し黙った。
「あの印が出るまでは、考えたこともなかった」
「うん」
「俺の中では、何もしてない。少なくとも、人から追われるようなことは」
言いながら、朝の広場がよみがえる。花飾り、白布、村人の視線、神官の怯えた顔。半日前のことなのに、もうずっと遠い出来事みたいだった。
「でも、あれが出た瞬間、みんなの顔が変わった。俺を見てるのに、俺を見てなかった」
言ってから、自分でもその言い方に少し驚く。
けれど、たぶん本当にそうだった。あの瞬間、村人たちはレオンを見ていたのではない。レオンの上へ急に貼りついた、名前の分からない何かを見ていた。
「だから、俺の知らない何かがあるのかもしれないって思う」
セレナは黙って聞いていた。
「普通は逆じゃない?」
「逆って」
「そんな目に遭ったら、もっと怒って否定しそうなのに」
「怒ってるよ」
レオンは水面へ目を落とした。
「でも、怒ったところで印は消えない」
「……そっか」
そこでセレナは少しだけ考え込むように黙ったあと、静かに言った。
「じゃあ、答えが出るまで死なないことを先に決めた方がいい」
あまりにも当たり前みたいに言うので、レオンは思わず顔を上げた。
「すごいこと言ってるぞ」
「そう?」
「そうだろ」
「でも、今必要なのはそっちじゃない?」
その口調は妙に落ち着いていた。慰めるための言葉ではなかった。そう決めて生きてきた人間の声だった。
レオンは、そこで初めて思う。
この少女は、ただ旅慣れているのではない。見つからないための歩き方を知っている。
耳の奥は静かなままだった。
それが逆に気味が悪い。あの声が鳴らないのは、安全だからではない。別の理由だ。レオンはさっきから、その理由がセレナの存在に関わっている気がしていた。けれど、確かめるには材料が足りない。
セレナが水筒を取り出し、一口飲む。
そのとき、沢の上流で、水を踏むような音がした。
二人とも同時に顔を上げる。
音は一度きりだった。獣かもしれない。石が崩れただけかもしれない。だが、この状況でそれを自然の音として流せるほど、二人とも鈍くはなかった。
セレナが立ち上がる。
「移動する」
「何だと思う」
「分からない。でも、正体が見えないもののそばに長居はしたくない」
その返しに、レオンは少しだけ口元を緩めた。どうやら自分は、思ったより早く彼女の言い方に慣れてきているらしい。
立ち上がる。足首は痛む。だが、さっきより体は動いた。
歩き出しかけた、その瞬間だった。
耳の奥で、乾いた音がひとつ鳴る。
――補足対象、追加。
背筋が凍る。
今まで自分だけに向けられていたはずのものが、外へ広がった。
「どうしたの」
振り返ったセレナが問う。
レオンは迷った。黙っていた方がいいのか、それとも伝えるべきか。一瞬だけ考え――すぐ捨てた。
「急げ」
思ったより強い声が出た。
セレナの表情が変わる。問い返さない。理由を聞かず、すぐに頷く。
二人は沢沿いの道を進む。木立の影が濃くなり、足場が悪くなる。水音が近く、森の匂いが湿って重い。
その中で、レオンははっきりと理解した。
追手が近いのか、別の何かが動いているのか、それはまだ見えない。
けれど、もう一つだけは確かだった。
自分を追っていたはずのものが、今、セレナまで数え始めた。
もしここで追いつかれれば、巻き込まれるでは済まない。
自分が逃げ切れるかどうかじゃない。
セレナを、ここで捕まらせない。
そう思った瞬間、足の痛みより先に体が前へ出た。




