第2話 神に嫌われた子
広場のざわめきは、なかなか消えなかった。
祭りの熱の残りではない。冷えた鍋の底で、何かがまだ小さく泡立っているような、落ち着きの悪い音だった。人々は神官に従って少しずつ下がったが、誰もすぐには帰ろうとしなかった。遠巻きに祭壇を見ている。見ているくせに、レオンと目が合いそうになると、慌てて逸らす。
レオンは祭壇の上に立たされたままだった。
聖石から手は離れている。護衛たちもまだ掴みに来ていない。なのに、降りていい空気ではなかった。足元の石が、妙に遠い。自分だけ別の高さに置かれてしまったような感覚が続いている。
「下がれと言ったはずだ!」
年長の神官が怒鳴る。
村人たちは肩を揺らし、ようやく本格的に後ろへ退き始めた。子どもを連れた女たちが足早に広場を離れる。男たちはまだ迷いながらも、家族を庇うように移動した。年寄りの何人かは胸元で祈りの印を切り、レオンを見ないようにしながら、口の中で何事かを唱えていた。
レオンはその光景を、ひどく静かな気分で見ていた。
怖くないわけではない。喉は乾いているし、手のひらには嫌な汗がにじんでいる。ただ、怖さが大きすぎると、人は逆に静かになるのかもしれなかった。怒鳴ることも、泣くことも、今はうまくできそうにない。
「レオン!」
声がして、視線だけを向ける。
カインだった。
村の若者二人に両腕を掴まれている。振りほどこうとしているが、相手も本気だった。止めている方も顔色が悪い。ただ、カインを押さえているというより、罪印の出た相手へ近づかせたくないのだろう。
「離せって言ってるだろ!」
「お、お前、落ち着け……!」
「落ち着いてる場合かよ!」
カインの声だけが、今の広場に馴染んでいなかった。だから余計に、それだけが現実みたいに聞こえる。
祭壇の下では、神官たちが低い声で何か話し合っていた。年長の神官は青ざめたまま、何度も聖石とレオンの顔を見比べている。若い神官は祈祷書を開き、指を震わせながら頁をめくっていた。
「……確認が必要です」 「確認だと?」 「記録では、傲慢の罪印は――」 「口にするな」
年長の神官が若い神官を鋭く遮った。
その声に、怒りより先に、怯えがあった。
レオンはそこに引っかかった。
罪印が怖いのだとしても、それだけでは足りない反応に見えた。分からないものを前にした顔ではない。少しだけ知っていて、だからこそ怯えている顔だ。
昨日までなら、その違和感を気のせいにしただろう。
けれど今のレオンには、もう一つ思い当たるものがあった。
――適合。
聖石の奥から聞こえた、あの意味不明の響きだ。
自分の空耳かもしれない。
けれど、神官の顔を見ていると、それを空耳で片づける気にはなれなかった。
「レオン・アルヴェイン」
呼ばれて、視線を戻す。
年長の神官が祭壇の下からこちらを見上げている。目は鋭いが、その奥にあるのは怒りではない。もっと古くて、もっと嫌な種類の警戒だった。
「祭壇から下りろ」
命じられて、レオンは一拍遅れて頷いた。
石段を下りる。護衛がすぐ両脇へ付いた。まだ触れてはこない。だが逃がす気もないという距離だ。まるで野犬でも扱うみたいだな、とレオンは思った。その考えが妙に可笑しくて、少しだけ笑いそうになる。もちろん、笑えるはずもなかった。
広場の中央には、村長が立っていた。
額に汗を浮かべ、口元だけが落ち着きなく動いている。村長は普段、どちらかといえば人のいい男だった。祭りの日には酒を振る舞い、冬には困った家へ薪を回す。そういう人間だ。だからこそ、今の顔は見ていて少しつらかった。善人が善人のまま、誰かを切り捨てようとしている顔だった。
「……レオン」
村長は名前を呼んで、それきり言葉を失った。
何を言えばいいのか分からないのだろう。
大丈夫だとも言えず、間違いだとも言えず、ただ昔から知っている子どもの名前だけが口をついて出た。
レオンは、そのことに少しだけ救われて、同時に余計につらくなった。
代わりに年長の神官が前へ出る。
「この者の処遇は、儀ののち、村長と協議する」
広場の端で、誰かが安堵の息を吐いた。
今ここで斬り捨てるわけではない。
それだけで安心できるらしい。
レオンはそれを聞いて、胸の奥が妙に冷えた。
人は最悪でなければ優しいと思える。
その程度の差でしかないのか、と。
「それまで隔離する」と神官は続けた。「誰とも接触させるな。家族にもだ」
母の顔が、群衆の向こうにあった。
蒼白だった。
叫びもしない。駆け寄りもしない。ただ、その場に立ったまま、どうしていいか分からない顔をしていた。レオンは目を逸らした。あの顔を正面から見たら、たぶん立っていられない。
「待ってください!」
カインが、とうとう若者たちの拘束を振りほどいた。
広場の空気が跳ねる。
護衛がすぐに身構えたが、カインは武器も持たず、両手を見える位置で上げたまま神官へ歩み寄った。
「隔離って何ですか。レオンは何もしてない。印が出ただけだろ」
「だから危険なのだ」
「危険かどうかも分かってないだろ!」
正論だった。
だが、この場では正論は弱い。人は分からないものを怖がる。怖がってしまったあとでは、理屈はいつも一歩遅い。
神官の眉が険しく寄る。
「カイン・ベルナード。お前は先ほど、英雄候補の加護を授かった身だ。軽々しく異端を庇うな」
その言葉は、脅しとしてよくできていた。
カインの顔が強張る。自分のためではなく、レオンのために出た言葉が、今度は自分の将来に結びつけられる。その汚さに、レオンは胃の奥が冷えるのを感じた。
「……庇うとか、そういう話じゃない」
「では何の話だ」
「昔から知ってる。あいつが何をしたって言うんだ」
年長の神官は答えなかった。
代わりに、ゆっくりとレオンへ視線を向けた。
「何をするか分からぬ者だからこそ、恐ろしいのだ」
その言い方に、レオンの中で何かがきしんだ。
違う。
この神官は、分からないから怖がっているのではない。
少しだけ知っているから、余計に怖がっている。
その確信めいた感覚が、レオンをますます気味悪くさせた。
「カイン」
自分でも驚くほど、声は平らだった。
カインが振り向く。
「やめろ」
「でも――」
「やめろ」
今度は少し強く言った。
カインの口が閉じる。納得したわけではない顔だった。何も飲み込めていない。けれど、レオンの顔を見て、それ以上は言えなくなったらしい。
ここでカインが食い下がっても、良くならない。
せいぜい二人まとめて“危険な側”へ押しやられるだけだ。
それだけは避けたかった。
神官が護衛へ合図する。
「連れて行け」
その一言で、ようやく現実が足元まで降りてきた。
護衛の一人がレオンの肩へ手を伸ばす。
その瞬間、レオンは反射的に身を引きかけた。触れられるのが嫌だった。嫌だと思っただけだ。
なのに護衛は、びくりと手を止めた。
一瞬だけ、護衛の手甲に白い火花のようなものが散った気がした。
護衛本人も気づいたらしい。目を見開き、急いで手を引っ込める。
「どうした」と神官が問う。
「い、いえ……」
護衛は言い淀み、結局何も言えなかった。
レオン自身も、今のが何だったのか分からない。気のせいかもしれない。けれど、さっきから自分の周りで起きる違和感は、全部が気のせいで片づくには少し多すぎた。
神官はますます顔をこわばらせた。
「……縄を使え」
その瞬間、広場のざわめきがもう一段、深く冷えた。
縄。
その言葉の重みを、誰もが知っていた。村の若者を隔離するのに、そこまでする必要は本来ない。つまり神官は最初から、レオンを村人として扱っていないのだ。
村長の顔がわずかに歪んだ。
止めるかと思った。
けれど、止めなかった。
その一瞬が、レオンにはいちばん痛かった。
善人が善人のまま黙るとき、人は本当にひとりになる。
カインが半歩踏み出す。
レオンはそれを見ずに、先に言った。
「来るな」
今度は命令ではなかった。懇願に近い声だったかもしれない。
カインは歯を食いしばったまま止まった。
拳が震えているのが、遠目にも分かった。
護衛が後ろで手を回す。粗い縄の感触が手首に触れる。きつくはない。だが、それだけで十分だった。今日がもう、神授の日ではなくなったと知るには。
罪印が出た瞬間ではなく、
この縄が触れた瞬間、
自分は村の内側から切り離されたのだと、レオンははっきり理解した。
村長がようやく口を開く。
「昼までには……結論を出す」
その“結論”が何を意味するのか、誰も言わない。
言わないまま、みんな知っている顔をしていた。
レオンは一度だけ、家の方角を見た。母はもう見えなかった。帰ったのか、見ていられなかったのか、それとも群衆の向こうで泣いているのか、分からない。
分からないことばかりだった。
でも一つだけ確かなことがある。
今日、自分の人生は決まった。
望んだ形ではなく、最悪の形で。
護衛に促され、広場の端へ歩き出す。白布が風に鳴る。朝の陽射しはまだ優しかった。村の空は青く、どこまでも穏やかで、それがひどく腹立たしかった。
怒鳴りたかった。
ふざけるなと叫びたかった。
何もしていないのに、と。
ただ普通でよかっただけなのに、と。
けれどその怒りを、今ここで外へ出したら負ける気がした。
何に負けるのかは分からない。
ただ、向こうの思う通りの“危険なもの”になるのだけは、絶対に嫌だった。
だからレオンは黙って歩いた。
広場を出る直前、背後で年長の神官が誰かに低く命じる声が聞こえた。
「村長を呼べ。
日が落ちる前に、この件は処理する」
処理。
その言葉は、人に向けるにはあまりに冷たかった。
レオンは振り返らなかった。
振り返ったら、何かが本当に終わる気がしたからだ。
手首に食い込む縄の感触を、ただ黙って受け入れる。
そのときまた、耳の奥で、石を擦るような微かな音がした。
――監視開始。
レオンは足を止めかけた。
意味は分からない。
でも今度は、聞き間違いではないと分かった。
自分の知らない何かが、もうこちらを見ている。




