第1話 神に選ばれなかった日
人の一生は、十六の朝にだいたい決まる。
鐘が鳴る前から、村は祭りの顔をしていた。
窓を開ければ花飾りが見えた。石畳の広場には神殿から取り寄せた白布が張られ、朝の風にやわらかく揺れている。レオンは二階の窓枠に肘をついて、その景色をしばらく眺めた。眺めながら、自分が今日のために何も用意していないことに、今さら気づいた。
正確には、何も用意できなかった。
神授の儀は、十六を迎えた者が神の前に立ち、生涯の加護を授かる儀礼だ。どんな小さな村でも、この日だけは神殿から使節が来る。祈祷服を着た神官が祭壇に聖石を置き、若者が一人ずつ手を触れる。石が光れば加護の種類が定まる。それだけだ。それだけのことが、この村では一年で最も重い一日になる。
重くなければおかしい。加護がなければ、農家の息子は農家のままでいられない。神殿騎士にも、祈祷師にも、商会の認定術士にもなれない。神の許しなしに魔力を扱えば異端と見なされる。加護は生き方の許可証だった。
レオンは窓から離れ、簡素な外衣に袖を通した。母が昨夜のうちに洗って畳んでおいてくれたものだ。畳み目が几帳面に揃っていて、それを見た瞬間、胸の奥に説明しにくい感触が生まれた。
たぶん、期待だ。
あるいは、期待したくないという気持ちかもしれない。
階段を降りると、台所に母がいた。
「起きてたの」
「ずっと」
母は何も言わなかった。代わりに、湯気の立つ器を卓に置いた。麦と干し菜を煮たものだ。レオンは椅子に腰を下ろし、木匙を手に取った。食べながら、窓の外の声に耳を傾ける。もう広場に人が集まり始めているらしかった。
「カインが迎えに来るって言ってたよ」と母が言った。
「知ってる」
「早めに行った方がいい。並び順があるから」
「知ってる」
母はそれきり口をつぐんだ。励ます言葉も、心配の言葉も、今日はかえって薄くなると知っているようだった。
レオンは器を空にして立ち上がった。玄関で靴を履いていると、背中に「いってらっしゃい」という声が落ちてきた。
普通でいい、とレオンは思った。
扉を開けながら、もう一度だけ念じた。普通でいい。農家の加護でも、荷運びの加護でもいい。せめてこの村で、この場所で、続けて生きていける何かを。
◇
カインはもう表の道にいた。
日の出前から洗ったのか、髪が少し濡れている。祭事用の外衣は少し大きくて、首元がもたついていた。それでも立ち姿は妙に様になっていた。生まれつきそういう骨格をしているのだと、レオンは昔から思っている。
「遅い」とカインが言った。
「早い」とレオンは返した。
「村長のところの子たちはもう並んでる」
「お前が早すぎるんだ」
カインが笑った。緊張しているはずなのに笑える男だ、とレオンは思う。自分には無理だった。
二人は石畳を歩いた。家々の間を縫うように進むうちに、広場の白布が近づいてくる。すでに十数人が列を作っていた。神官たちは祭壇の前で最終の準備をしている。聖石はまだ布に包まれていて、形も光も見えない。
「緊張してる?」とカインが聞いた。
「してない」
「嘘だろ」
「してる」
カインがまた笑った。今度はレオンも少しだけ笑った。
列の後ろに並ぶ。前には顔見知りの顔がいくつかある。鍛冶師の娘、川向こうの農家の三兄弟、宿屋の主の一人息子。みんな今日のために着込んでいる。みんな固い顔をしている。
神殿の鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ。
音が空気を揺らして広場に落ちてきた。人々の声が静まる。神官の一人が祭壇に進み出て、定型の祈祷文を唱え始めた。聞き慣れた言葉だった。神の慈悲と、大地の恵みと、今日ここに立つ若者たちへの祝福を。
レオンは祈祷文を聞きながら、列の先頭を見た。
最初の少女が祭壇に近づいて、聖石に手を触れた。石が淡く黄色に光った。農耕の加護だと神官が読み上げる。少女の両親が歓声を上げた。大地の加護は安定した暮らしの証だ。
次の少年は青く光った。水の加護。それも十分な祝福だった。
列が少しずつ進む。
カインがレオンより先に呼ばれた。二人の生まれ月が違うから、順番としては正しい。カインが歩み出るとき、周囲から期待の視線が集まるのがレオンには分かった。この村の誰もが、カインに何かを期待している。カインもそれを知っている。それでも歩き方は変わらなかった。
聖石に手が触れた。
光は白かった。純白ではなく、芯に金を含んだような白だ。神官が息を呑む気配があった。村人の誰かが小さく叫んだ。
「英雄候補の加護」と神官が読み上げた。「稀なる武の資質と、守護の許しを示す。神は、この者を剣の道へと招いている」
広場が沸いた。
歓声は、ほとんど安堵に近かった。この村から英雄候補が出た。神に見捨てられていなかった。皆がそう思っているのが分かった。
カインは表情を大きく変えなかった。ただ祭壇から離れるとき、一度だけレオンの方を見た。何か言いたそうな顔だったが、人波に飲まれてすぐに見えなくなった。
レオンは前を向いた。
列はまだ続いている。自分の番まで、あと四人。
普通でいい、とまた思った。
農耕でも、水でも、荷運びでも。どんな加護でも受け取って、この村で続けて生きていける。それだけでいい。それだけを、今日だけは神に頼んでいいはずだった。
名前を呼ばれた。
レオン・アルヴェイン。
レオンは列を出て、祭壇へ歩いた。石畳の感触が靴底を通して伝わる。神官の目が向く。聖石の布が外される。石は不透明な灰色で、光のない状態では川底の石と大して変わらない。
手を伸ばした。
触れた瞬間、熱さではなく冷たさが走った。
思わず息を止める。
ただ冷たいだけではなかった。妙に手に馴染む。初めて触れたものなのに、どこかで知っている硬さみたいだった。その感覚が気持ち悪くて、レオンは反射的に眉をひそめた。
次の瞬間、聖石の光が歪んだ。
白だった。だが、先ほどカインに注いだ光とは違う。あちらが朝日のような白なら、こちらは刃を研ぎ澄ましたあとの鉄の白だった。温度がない。いや、温度を奪うような白だ。
石の内側で、何かが軋んだ。
ひびが入る音ではない。合わない歯車を無理やり噛み合わせたような、不快な音だった。
広場が静まり返る。
レオンには、自分の手がまだ石の上にあることが分かった。離せなかったわけではない。ただ、何が起きているのか分からなかった。
祭壇の表面に、見たことのない紋様が浮かぶ。
鋭く尖った円環の中心を、一本の縦線が貫いている。整っているのに、不穏だった。美しいのに、見ていると胸の奥がざわつく。まるで“跪かないもの”を、そのまま印にしたみたいだった。
神官が固まった。
最初に反応したのは、紋そのものにではなかった。レオンにはそう見えた。老人の目は、印を見て、それからレオンの顔を見た。まるでそれが今ここで、誰に出たのかまで含めて恐れているようだった。
「これは」と神官が呟いた。
呟いたまま、言葉が続かない。
別の神官が祭壇に近づいて、紋様を覗き込んだ。その顔から血の気が引いた。
老人の喉が鳴った。祈りを唱えるときの声ではない。昔話の中でしか聞かなかった災厄の名を、現実の光景として見てしまった人間の、乾いた音だった。
「……傲慢」
その小さな呟きは、広場全体を凍らせるには十分だった。
「そんな……」 「罪印だ……」 「まさか、本当に……」
ざわめきが広がる。さっきまでの祝祭めいた空気が、音を立てずに剥がれ落ちていく。
罪印。
その言葉は、子どもでも知っている。神に背く刻印。祝福ではなく、忌避される印。古い災厄譚や説教話の中でしか聞かない、現実にはほとんど現れないはずの異端。
神官が震える声で宣告した。
「これは加護ではない。罪印だ」
レオンはゆっくり手を離した。指先に残った冷たさだけが、生々しく現実だった。
何か言うべきだと思った。違う、と。間違いだ、と。だが自分でも分かってしまっていた。あの光は、他の誰とも違った。
それに――ほんの一瞬だけ、たしかに感じてしまった。
聖石が自分を拒んだのではなく、自分の方があれを知っている気がしたことを。
そんなはずはない。
なのに、その気持ち悪さだけが消えない。
振り返ると、村人たちの顔があった。
一秒前までそこにあった表情が、全部消えていた。
安堵も、期待も、親しみもない。残っているのは、恐れと、距離と、理解したくないものを見てしまった顔ばかりだ。
石段の下で、カインが一歩前に出る。
「待ってください」
その声だけが、妙にはっきり届いた。
「何かの間違いかもしれない。もう一度――」
「近づくな!」
神官の怒声が、カインの言葉を切り裂いた。
老人は祭壇の前へ出て、まるで獣を遠ざけるように掌を向ける。その目には、祈りも慈悲もなかった。ただ明確な恐れだけがあった。
「その者を祭壇から離すな。誰も近づくな。傲慢は神を拒む印……災いを招く異端だ」
異端。
その言葉が、自分に向けられている。
レオンは急に、自分の足元が祭壇の石ではなく、底のない穴に変わったような気がした。ついさっきまで、ここは人生の入口だったはずなのに。今は、自分だけ別の世界へ落とされる穴の縁に立たされている。
広場の最前列にいた老婆が、胸元で祈りの印を切った。子どもを抱いた女が一歩下がる。男たちは困惑と警戒の入り混じった顔でレオンを見る。誰も石を投げてはいない。怒鳴ってもいない。なのに、その沈黙の方がずっと残酷だった。
もう、同じ側には立てない。
そのことが、誰より自分に分かった。
カインがもう一度前へ出ようとする。だが今度は、村の若者たちが彼の腕を掴んだ。彼らも悪意で止めているわけではない。ただ、怖いのだ。理解できないものが。
「離せよ!」
カインが珍しく声を荒げる。
その響きに、レオンははっとした。
自分のせいで、カインまで“おかしな側”へ引きずられる。そんなことだけは、駄目だと思った。
「来るな、カイン」
思ったより冷静な声が出た。
カインが顔を上げる。ひどく驚いた目だった。
「レオン――」
「来るな」
繰り返した声は、自分でも驚くほど震えていなかった。ここで誰かに手を伸ばしたら、もう二度と自分の足で立てなくなる気がした。惨めでも、怖くても、それだけは嫌だった。
神官は祭壇の周囲へ神殿随行の護衛を呼び寄せていた。白布が風に鳴る。空はよく晴れていて、雲一つない。こんなにも綺麗な朝なのに、自分だけが間違った色に染まってしまったみたいだった。
村長が、青ざめた顔で神官に何か囁いている。老人は短く頷いたあと、レオンを見た。
「儀は中断する。村の者は下がれ」
その声音は、もう一人の少年に向けるものではなかった。
処置が決まるまで隔離されるのだろう。あるいは、もっと別の何かか。レオンには分からない。分かるのはただ一つ、ここから先は誰も自分を“レオン”として扱わないかもしれないということだけだった。
祭壇の上で、彼は初めて、自分の人生が壊れる音を聞いた。
そしてその直後、神官は護衛たちに、もっと低い声で次の言葉を命じた。
「その者を、朝まで誰にも触れさせるな」
その一言だけで、レオンは理解した。
これはただの判定結果ではない。
もう自分は、祝福を受け損ねた村の子どもですらない。
“何か”として扱われ始めている。
白い祭壇の上で、朝日だけが不自然なくらい明るかった。
そのときだった。
誰にも聞こえないほど小さく、
けれどレオンの耳にははっきりと、
聖石の奥から何かが軋むような音と一緒に、言葉とも呼べない響きが走った。
――適合。
意味は分からない。
だが、その音を聞いた瞬間、レオンの背筋を、春の朝とは違う冷たさが這い上がった。




