第九章 いつもの場所
第九章 いつもの場所
翌朝、直樹は作業着の袖を通しながら、今日もカレーだな、と思った。
食費が一日分浮いた。
そう考えてから、米を炊いておく約束を思い出した。帰ったら、まず炊飯器だ。
更衣室を出ると、廊下の先に武藤がいた。
「今日、麦茶でいいですか」
「うん。冷蔵庫、空けとく」
武藤は頷き、自分の持ち場へ向かった。
直樹も歩き出した。
作業場に入ると、いつもの機械の音がした。
透明な容器が流れてくる。
縁を見て、重ね、数を確かめる。
「三浦、袋、次の出しといて」
「はい」
直樹は棚から袋の束を取り、作業台の横へ置いた。
カレーのことを考えていても、容器は待ってくれなかった。
*
夕方、久世は本当にご飯を持ってきた。
大きな保存容器が二つ、布の袋に入っていた。
「重くなかった?」
実が聞くと、久世は首を振った。
武藤の袋からは、二リットルの麦茶が出てきた。
野田は手ぶらだった。
「俺、皿洗う」
玄関でそう言ったので、直樹は昨日と同じ場所を空けた。
実は小さな袋から、福神漬けを出した。
「昨日、なかったから」
「おお」
直樹は受け取り、冷蔵庫を開けた。
鍋を出しながら振り向くと、四人は昨日とほぼ同じ場所へ座っていた。
誰も相談していなかった。
*
二日目のカレーを食べ終わると、野田は約束通り皿を洗った。
そのあとで、ラジオを持った。
「ほら、やっぱり」
直樹が言うと、野田はつまみを回した。
「ここ。触ると音が途切れる」
「古いからじゃない?」
「古いからって、全部同じ壊れ方するわけじゃないよ」
野田は真剣だった。
直樹には、古いラジオが多少聞こえにくくても別に構わなかった。テレビもスマホもある。
「直していい?」
「戻るなら」
「戻すよ」
野田が鞄を開けた。
小さな道具入れが出てきた。
「持ってきてたじゃん」
「いつも入ってる」
武藤が自分の袋を引き寄せた。
「俺のは触らないでくださいね」
「分かったって」
野田が机の端へラジオを置く。
久世は麦茶を持ち上げ、空いたところに小皿を置いた。
「ネジ、なくなると困るので」
「助かる」
野田はすぐに作業を始めた。
実がその手元を覗き込む。
直樹は二人の背中越しにテレビをつけた。
ニュースの声と、ラジオを開ける小さな音が、同時に聞こえた。
*
ラジオは、その日のうちには直らなかった。
野田は一度組み戻し、直樹の名前を書いた紙を載せて持ち帰った。
「何で名前書くの」
「家で混ざるから」
「そんなにあるの?」
「ある」
直樹は、祖父の工場にもこんなものが並んでいるのだろうか、と考えたが、聞く前に野田は靴を履いてしまった。
木曜日の昼、野田が弁当と一緒にラジオを持ってきた。
直樹の向かいへ座り、机の端に置く。
「直った」
「早いね」
「そんなに手間かからなかったから」
直樹は弁当を少し寄せ、ラジオを受け取った。
隣のテーブルから、従業員が顔を向けた。
「野田、今度は何持ち込んだんだよ」
「三浦さんに返すやつです」
「三浦の?」
男は直樹を見た。
「いつの間にそんなことになってんの」
「音、悪かったから。直してもらったんです」
直樹は答え、鞄へラジオをしまった。
武藤が来て、空いている椅子を引いた。
男の視線が、野田から武藤へ動いた。
「お前ら、最近よく一緒にいるな」
「そうですね」
直樹は弁当の蓋を取った。
「何の集まり?」
「別に、何のってわけじゃ」
野田が答えた。
その後ろを久世が通り、机に置かれたラジオの袋を見て足を止めた。
「直ったんですか」
「うん」
野田が頷くと、久世も近くの席へ座った。
男は四人を見回し、何か言いかけたが、自分のテーブルから呼ばれて向き直った。
野田は箸の袋を開けながら、直樹へ聞いた。
「帰り、音聞いていい?」
「家で聞いたんじゃないの」
「三浦さんの部屋だと、入りが悪いのかもしれないし」
「いいけど」
武藤が、今日は何を食べるのか尋ねた。
直樹はまだ何も考えていなかった。
実が弁当を温め終えてやって来た。
野田が隣の椅子に置いていた鞄を下ろす。
実はそこへ座った。
直樹は隣のテーブルを一度見た。さっきの男は、こちらを見ていなかった。
*
その日は焼きそばになった。
次は、値引きされていた惣菜を並べた。
毎日集まるわけではなかった。
出荷が重なって帰りが遅くなった日は、更衣室で「今日はやめとくか」となった。
直樹は帰りに弁当を買い、本を膝へ載せたまま寝てしまった。目が覚めたときには、風呂を沸かすのも面倒だった。
翌朝、作業場で欠伸をしていると、野田も向こうで目を擦っていた。
同じ時間まで働いていたのだから、不思議ではなかった。
久世が先に帰る日もあれば、野田が家の手伝いで来ない日もあった。武藤は日曜日の予定があると言って、金曜の夜を断った。
「サバゲー?」
直樹が聞くと、武藤は頷いた。
「今度は、すぐ出ないようにします」
月曜日、武藤はいつもの辺りへ弁当を置いた。
直樹は自分がそこを、いつもの辺り、と思っていることには気付かなかった。
休憩になって食堂へ来たら、四人のうち誰かがいる。
空いていれば、その近くへ座る。それだけだった。
「昨日、どうだった?」
直樹が聞いた。
「五分」
「延びたね」
野田が言った。
「倍以上」
武藤は弁当へ目を落とした。
「まあ」
「面白かった?」
実が聞いた。
武藤は顔を上げた。
「……面白かったです」
「そっか」
実は頷き、ご飯を食べた。
直樹は五分で終わっても面白いものなのかと思った。
聞こうとしたところで、野田が装備の話を始めた。
武藤も、さっきより長く喋った。
実が食べ終わる頃に、午後の始業を知らせる音がした。
野田が話を途中で切り、武藤はまだ開いていた雑誌を袋へ戻した。
直樹も弁当箱を片付け、作業場へ戻った。
午後も、午前と同じ製品だった。
流れてくる容器を数え、袋へ入れる。隣では箱詰めが進み、台車がいっぱいになると、また空の台車が来た。
直樹が腰を伸ばすと、向こうの台で実が畳んだ箱を運んでいた。
目が合い、実が少し頭を下げた。
直樹も顎を引き、手元へ戻った。
時計を見る。
終業までは、まだ三時間あった。
そのあとの飯の話は、昼休みには決まらなかった。
帰りに聞けばいいか、と直樹は思った。
*
直樹の部屋へ来ると、野田は最初に何かの音を聞くようになった。
冷蔵庫。換気扇。炊飯器。
今日は扇風機だった。
「これ、首振らないの?」
「振るよ」
「変な音しない?」
「開けるなよ」
直樹が先に言うと、野田は指を引っ込めた。
武藤は持ってきた雑誌を読み始めた。
久世は机の上のレシートを端へ寄せ、飲み物を置いた。
実が玄関の方へ戻った。
「ちょっと、扉が」
「靴、当たってる?」
「ううん。閉めたんだけど」
かちゃ、と小さな音がした。
実が戻ってきた。
手の中に、丸いものがあった。
「……取れちゃった」
直樹は立ち上がった。
「何が」
実が掌を開く。
内側のドアノブだった。
「何で取るの!」
「取ろうと思ったんじゃなくて」
実の声が小さくなる。
野田が横から覗いた。
「あ、それ、前から緩んでたよ」
「言ってよ」
「開けるなって言うから」
「これは開けていいやつだろ!」
武藤が雑誌を閉じた。
笑いを堪えている顔だった。
直樹は玄関へ行った。
野田が実からノブを受け取り、あとをついてくる。
「大丈夫、戻る」
「ごめんね」
実が言った。
野田はしゃがみ、取れた部分を確かめた。
「大山さんが壊したんじゃないよ。抜けただけ」
「抜けるような力を掛けたんだろ」
直樹は言いながら、扉を押さえた。
「普通に使って抜ける方がおかしいでしょ」
野田は顔を上げずに言った。
直樹は黙った。
実はその後ろで、行き場のない両手を握っていた。
*
ノブは、すぐに戻った。
実は三回ほど開け閉めして確かめ、そのたび直樹に見られて、最後はそっと手を離した。
部屋へ戻ると、武藤がベッドの端に座っていた。
片手に雑誌を持ち、片足を床に下ろしている。
「そこ、本」
直樹が言うと、武藤は脇の一冊を持ち上げた。
「分かってます」
「背中のとこにも」
「何でこんなとこまで」
武藤はもう一冊抜き、二冊を机へ置いた。
そのまま壁にもたれ、また雑誌を開く。
直樹は本を揃えた。
久世がその一冊の表紙を見た。
「それ、どういう話ですか」
「これ? 時間が止まる話」
「全部ですか」
「全部。主人公以外」
「……それだと、見えないんじゃ」
直樹は顔を上げた。
「何が?」
「光も止まるなら」
「そういう話じゃないんだよ」
野田が机の前へ戻ってきた。
「何の話?」
「小説の設定に文句つけてる」
「文句では」
久世が言いかけたところへ、直樹は本を開いた。
「主人公が動けるんだから、そういう例外もあるって読めばいいんだよ」
「例外の範囲が分からないと」
「物語として読もうよ」
久世は少し口を閉じた。
実が二人を見ていた。
「僕、止まってる間に寝たい」
直樹は実を見た。
「何で」
「朝、眠いとき。もう少し寝ても、遅刻しないから」
「ああ、それはいいな」
野田が言った。
直樹は、そんな使い方は作中に出てこない、と思った。
久世が麦茶を飲んだ。
ベッドの方で、雑誌が落ちた。
四人が振り向いた。
武藤が口を少し開け、壁へ寄りかかっていた。
「こっちは、もう寝てる」
野田が言った。
直樹は立ち上がり、床の雑誌を拾った。
折れたページを戻し、机の上へ置く。
自分が座っていた場所は、久世の足と実の膝の間だった。
そこへ戻るには、二人に少しずつ動いてもらわなければならなかった。
「ちょっと詰めて」
直樹が言うと、二人は反対の方向へずれた。
空いたところへ、直樹は座った。




