第六章 休憩時間の外
第六章 休憩時間の外
久世が気にしていたのは、雨戸ではなかった。
「こっちの廊下です」
開いた本を、直樹の方へ少し押す。
「窓のある部屋から、ここへ出るんですよね」
「うん」
「それで、廊下の先に人がいる」
「そう」
久世はページの上で指を止めた。
「だったら、部屋の暗さだけ考えても、分からないんじゃないかと思って」
直樹は文章を読み返した。
たしかに、二人が同じ部屋にいるわけではなかった。
「そこは、俺も分かってたよ」
言ってから、もう一度読んだ。
読み終える前に、野田が紙ナプキンを一枚取った。
「間取り、描いてみたら?」
「描けるかな」
「小説にないの?」
「最初にあった気がする」
直樹がページを戻すと、目次の次に見取り図があった。
「あるじゃん」
武藤が言った。
直樹は本の綴じ目を押さえた。
「こういうの、最初には覚えられないから」
「あとから見ればいいんですよね」
実が図を覗き込んだ。
「うん。そう」
直樹は本の向きを変えた。
実の大きな指が、玄関らしい場所を指した。
「ここから入るの?」
「そう。で、階段がこっち」
「靴、脱ぐ?」
四人が黙った。
「……そこは、書いてないと思う」
直樹が答えると、実は頷いた。
「そっか」
野田が紙ナプキンを畳んだ。
「それも、分解してみないと分からないな」
「家を?」
武藤が聞き、野田は笑った。
直樹には何がおかしいのか分からなかったが、本を挟んで四人の顔が近くにあることには、もう慣れていた。
*
次の週も、昼休みになると同じ辺りに座った。
誰かが遅ければ、先に食べた。
久世は二日に一度くらい、隣のテーブルを選んだ。それでも話が聞こえていると、弁当を食べながら小さく頷くことがあった。
直樹は、その頷きを見つけると話を振った。
返事がある日も、ない日もあった。
木曜日、野田は古い目覚まし時計を鞄から出した。
「今度は何」
直樹が聞くと、野田は時計を裏返した。
「親父の。鳴らなくなったって」
「家で直せばいいじゃん」
「朝、持たされた」
武藤が自分の弁当を遠ざけた。
「ここで開けないですよね」
「見るだけ」
野田は外側を確かめ、つまみを回した。
何も鳴らなかった。
「古そうだね」
実が言った。
「爺ちゃんの代からあるらしい」
「大事なんだ」
「知らない。捨てていいって言われた」
野田は時計を耳へ近づけた。
実も少し顔を寄せた。
「でも、直すんだね」
「直るかもしれないし」
野田はそう言って、鞄へ戻した。
その日の昼休みは、時計の話だけで終わった。
*
金曜日の終業後、駐輪場で野田の鞄が鳴り出した。
じりりりり、と、直樹が思わず振り返るほど大きな音だった。
「何?」
「直った」
野田は自転車に鞄を載せ、時計を取り出した。
止めると、辺りが急に静かになった。
後ろから来た武藤が、時計を見て笑った。
「ちゃんと鳴りましたね」
「でしょ」
「何で今鳴るの」
直樹が聞く。
「合わせたままだった」
「朝も鳴ったんじゃない?」
「たぶん」
野田は時計を鞄へ押し込んだ。
実が出てくると、野田はもう一度時計を取り出して見せた。
「直ったよ」
「あ、鳴ったんだ」
「聞こえた?」
「中まで聞こえた」
四人で話しているところへ、久世が歩いてきた。
直樹が呼び止め、野田がまた時計を出した。
「それ、何回出すの」
武藤が言った。
野田は時計を持ったまま笑った。
*
「暗いね」
実が空を見た。
日が落ちるのが早くなっていた。
駐輪場の灯りの下で、武藤が頷く。
「もう、この時間なら使えますね」
直樹は武藤を見た。
「スコープ?」
「ええ」
「今日ある?」
「ないです」
「持ってきてよ」
「今から?」
「いや、次」
武藤は自分の自転車の鍵を回した。
「会社で使うんですか」
「駄目かな」
「何してるんだって言われそう」
野田が言った。
直樹は、製品を見るよう注意する班長の顔を思い出した。
たしかに、説明は面倒そうだった。
「じゃあ、帰りにどこかで」
話していると、実の腹が鳴った。
実は自分の腹へ手を当てた。
「ごめん」
「腹は謝らなくても」
武藤が言った。
野田が道路の向こうを指した。
「あそこ、まだやってるよ」
定食屋の窓に明かりがついていた。
直樹は店先のメニューを見た。
それからスマホで時間を確かめた。
帰っても、弁当を食べて本を読むだけだった。
「食ってく?」
誰に向けたともなく言うと、野田が頷いた。
「俺、いいよ」
武藤が店を見て、次に自転車を見た。
「停めるところ、あるかな」
実は久世の方を向いた。
「久世さんは?」
「僕は……」
久世は少し迷ったあと、スマホを取り出した。
「家に、連絡するので」
直樹は頷き、店へ向かった。
歩き出してから振り返ると、四人ともついてきていた。
*
店員は、五人の顔を見てから、奥の座敷を指した。
「あちら、どうぞ」
実は入口の暖簾を少し持ち上げ、最後に通った。
座卓に五人分の水が置かれる。
直樹はメニューを開いた。
野田が隣から覗いてきたので、真ん中へ置いた。
「何にする?」
「唐揚げ」
実がすぐに答えた。
「早いね」
「入口に写真があったから」
武藤も唐揚げにした。
野田は生姜焼き。久世は焼き魚。
直樹は一番安い野菜炒め定食を頼んだ。
店員が去ると、武藤が口を開いた。
「スコープ、来週なら持ってこられますけど」
「うん」
「どこで見るんですか」
直樹は水を飲んだ。
会社では、また何か言われる。
外で何人も集まって覗き込むのも、落ち着かない。
「うち、近いよ」
言ってから、四人の顔を見た。
「狭いけど。見るだけなら」
野田が真っ先に聞いた。
「一人暮らし?」
「そう」
「じゃあ、部屋暗くしても怒られないね」
「誰に怒られるんだよ」
武藤が笑った。
久世は湯気の立つ厨房の方を見ていたが、実が「僕も行っていい?」と聞くと、こちらへ目を戻した。
「いいよ。みんなで見れば」
直樹が答えたところで、店員が唐揚げを運んできた。
まず実の前に置かれ、それから武藤の前に置かれた。
二つとも、思ったより量が多かった。
直樹は運ばれてくる皿を目で追った。
「それ、いくらだっけ」
武藤がメニューを裏返し、値段を見せた。
野菜炒めとの差は、百円だった。
直樹は厨房へ顔を向けたが、ちょうど自分の野菜炒めが出来上がっていた。
「変更は、もう無理かな」
「無理でしょ」
野田が言った。
実が箸を割った。
「一個、食べる?」
直樹は実を見た。
「いいの?」
「うん」
実が皿を少し寄せる。
直樹は一番大きいのを避け、二番目に大きな唐揚げを取った。
「ありがと」
実は頷いて、自分も一つ食べた。
来週の何曜日にするかは、まだ決まっていなかった。
それは月曜日の昼に聞けばいい、と直樹は思った。




