第四章 顔と名前
第四章 顔と名前
翌日の昼、迷彩柄の袋は、昨日より膨らんでいた。
「持ってきた?」
直樹が聞くと、持ち主は弁当を飲み込み、袋を膝へ載せた。
「一応」
中から出てきたのは、黒いケースだった。
直樹は椅子を寄せた。
「高いやつ?」
「俺の中では」
男はケースを開いたが、すぐには中身を渡さなかった。自分で持ち上げ、首に掛ける紐を直している。
「落とさないでくださいね」
「分かってるって」
「あと、明るいところでは使わないで」
直樹は窓を見た。
昼の光が、食堂のテーブルを照らしていた。
「今は見られないの?」
「これは、電源を入れるのは暗いところで」
「じゃあ昼休みじゃ駄目じゃん」
男は機器を持ったまま止まった。
「……形を見たいのかと思って」
そういえば、昨日も形の話をした。
直樹は手を出した。
「形も見たい。貸して」
首に紐を掛けてから受け取るように言われ、その通りにした。
写真で見るより重かった。
「こんなの付けて走るんだ」
「俺は、あんまり走らないです」
「すぐやられるから?」
男が顔を上げた。
「更衣室で聞こえたから」
直樹が付け足すと、男は目を機器へ戻した。
「……まあ」
しばらく、食器の音だけがした。
直樹は黒い本体を裏返した。
持ってきてくれたものについて、何か聞くつもりだった。なのに話が止まってしまった。
「そういえば、名前なんだっけ」
男は、今度は少し違う顔で直樹を見た。
「武藤です」
「武藤さん。下は?」
「健太」
「俺、三浦直樹」
「三浦さんは、知ってます」
「何で?」
武藤は直樹の胸を見た。
作業着には、三浦、と刺繍してあった。
直樹は武藤の作業着へ目を向けた。
武藤、と書いてあった。
毎日着ていた。
「ああ」
昨日も見えるところにあったはずだ。
武藤はケースの内側から、小さな布を出した。
「持つとこ、そこより下の方がいいです」
直樹が持ち直すと、武藤は少しだけ肩を下ろした。
*
「それ、昨日の?」
缶のお茶を持った若い男が、立ち止まった。
直樹が返事をする前に、武藤が黒い機器を受け取った。
「開けないですよ」
「分かってるって」
若い男は椅子を引いた。
直樹が胸を見ると、作業着の刺繍は、野田だった。
「野田さんだよね」
「うん」
「昨日、名前聞いてなかったなと思って」
「野田航平」
野田は短く答え、武藤の手元へ身を乗り出した。
「その蓋は?」
「電池」
「そこも開けちゃ駄目?」
「そこはいいけど」
許された途端、野田の指が動いた。
「あ、こうなってるんだ」
武藤が横から覗き込む。
直樹には、二人が何に納得しているのか分からなかった。電池を入れる場所に電池が入っているだけだった。
「俺は三浦」
「うん」
野田は電池の向きを確かめていた。
「直樹」
「うん」
聞いたのか、聞いていないのか。
直樹がもう一度言おうとしたとき、野田は顔を上げた。
「三浦さん、本、ここ寄せていい? 転がると困る」
「ああ、いいよ」
聞いていたらしかった。
野田は小説を横へずらし、その場所に黒いケースを置いた。
直樹は、表紙の折れた角を指で戻した。
*
昼休みが終わりかけた頃、昨日説明していた細身の男が、湯飲みを片付けに来た。
「本物、持ってきてくれた」
直樹が声をかけると、男は足を止めた。
武藤が黒い機器を見せる。
男は少し離れたところから頷いた。
「ああ……」
「昨日はどうも」
武藤が言った。
「いえ」
「名前、何だっけ」
直樹が聞いた。
男は一度、自分の胸を見た。
「久世です」
直樹も見た。
久世。
昨日、班長が呼んでいた名前だった。
「くせ?」
「くぜ、です」
「久世さんか。昨日の説明、分かったよ」
久世は返事をしなかった。
直樹は本を持ち上げた。
「この小説で使ってたのが何かは、分からないままだけど」
「……そこは、書かれていないので」
「うん。俺も読み直した」
久世の目が本へ向いた。
「書いてなかった」
直樹が言うと、久世はほんの少し口元を動かした。
笑ったのかもしれなかったが、直樹にはよく分からなかった。
「じゃあ」
久世は湯飲みを返しに行った。
直樹は、その背中を見た。
言えばちゃんと聞こえる声なのに、と思った。
昨日の伝票のときとは違った。
*
午後の片付けで、大きな男が空箱をまとめていた。
両腕に抱えると、ほかの者なら二度に分ける分が一度で消えた。
「大山、こっちも」
「うん」
男が戻ってくる。
直樹は作業着の胸を見た。
大山。
こちらも呼ばれていた通りだった。
「大山さん」
呼ぶと、男が立ち止まった。
「何?」
「昨日、後ろにいた人だよね」
「うん。びっくりさせてごめんね」
昨日と同じように首が縮まる。
「いや、もういいんだけど。今日、スコープ持ってきてもらったんだよ」
「そうなんだ」
「食堂にいなかったね」
「遅くなっちゃって」
大山は空箱を床へ置いた。
「見られた?」
「明るいから駄目だって。形だけ」
「そっか。でも、持ってきてくれたんだね」
「うん」
直樹は、それ以上何を話すか決めていなかった。
大山は床の箱を持ち直した。
「大山さーん」
別の場所から声が飛んだ。
「はい」
男がそちらへ顔を向ける。
「待って。下の名前は?」
直樹が聞くと、大山は振り向いた。
「実」
「みのる?」
「うん。木の実の、実」
「俺は三浦直樹」
「うん。三浦さん」
大山は一度頷いて、空箱を抱えたまま歩いていった。
*
終業後、更衣室で武藤が黒いケースを袋へしまっていた。
「今日、ありがと」
直樹が言うと、武藤は少し顔を上げた。
「いえ」
「次は暗いとこで見たいね」
「まあ、そうですね」
「そのとき、あの説明してくれた人もいたら、いろいろ聞けるし」
あの人、と言いかけて、直樹は名前を思い出した。
「久世さん」
武藤が頷いた。
「久世さん、詳しいですね」
「ね」
直樹は靴を履き替えた。
武藤健太。野田航平。久世。
久世の下の名前は、聞きそびれた。
大山実。
順番に思い出していると、廊下から野田が顔を出した。
「電池、ちゃんと入ってる?」
武藤が袋を見た。
「……入れたでしょ?」
「入れたと思う」
「思うって」
袋が開き、ケースがまた出てきた。
直樹は靴を履いたまま、二人の手元を覗いた。
電池は入っていた。
「あるじゃん」
「なら、よかった」
野田が笑った。
武藤は何か言いたそうにして、結局、蓋を閉めた。
会社を出ると、三人は駐輪場の前で別れた。
直樹は一人でアパートへ向かった。
帰り道のスーパーで弁当を選びながら、久世の名前の字を思い出した。
明日も作業着を着ているのだから、忘れても見れば分かる。
直樹は弁当を一つ、籠へ入れた。




