第三十八章 明日さえ来れば
第三十八章 明日さえ来れば
坂の途中で、直樹の足が止まった。
膝へ両手をつく。
息を吸っても、まだ足りない気がした。
「あと少しですよ」
武藤が振り返った。
「知ってる」
直樹は顔を上げずに答えた。
野田が隣で足を止めた。
「知ってても、足は動かないんだ」
「今、動かすところ」
言ってから、ようやく一歩出した。
靴の中で、水が鳴った。
実は少し先で待っていた。久世も手すりに片手を載せ、肩で息をしている。
誰も、先へ行けとは言わなかった。
直樹は膝から手を離した。
「行こう」
「さっきも言ってた」
野田が言った。
「今度は行く」
五人はまた坂を上った。
*
高台には、古いベンチが一つあった。
直樹は腰を下ろしかけて、やめた。
ズボンが濡れていた。
野田は構わず座った。
直樹も座った。
久世はベンチの端へ手をつき、しばらく俯いていた。
武藤は町の方を見ていた。
実が鞄を下ろした。
誰かが、大きく息を吐いた。
それが誰だったか、直樹には分からなかった。
自分も同じように息を吐いた。
花火が開いた。
泥のついた野田の頬が見えた。実の顎にも、黒い筋があった。
「大山さん、顔」
直樹が言うと、実は頬を擦った。
「ここ?」
「もう少し下」
実がもう一度擦る。
野田が笑った。
「増えた」
実は自分の手を見た。
泥がついていた。
「三浦さんもですよ」
武藤が言った。
直樹は顔へ伸ばしかけた手を止めた。
手の方が汚れていた。
*
スマホが震えた。
直樹は鞄から出した。
画面に、久世からの写真が並んでいた。
隣を見ると、久世はもう自分のスマホを開いていた。
「撮れてた?」
「はい。これと、こっちも」
久世は画面を拡大した。
濡れた紙に、数字が並んでいた。
直樹が何度も調べた会社の名前があった。
別の写真には、杉浦が蔵から運び出した箱が写っていた。
紙幣と、帳面と、開いた扉。
野田と実も写真を送った。
武藤がベンチの後ろへ来て、画面を覗いた。
「これ、読めますね」
「うん」
直樹は頷いた。
紙の上では、撮る、と二文字で書いていた。
今は、写真があった。
すぐ隣に、それを撮った人間がいた。
直樹はもう一度、五人の「連絡用」を開いた。
昼飯の写真も、待ち合わせの時間も、買っていくものの話も、その上に残っていた。
*
「もう、出てます」
武藤が言った。
「何が?」
直樹が顔を向ける。
武藤は画面を見せた。
花火の動画だった。
その下に、杉浦の名前があった。
次の投稿には、庭を流れる紙幣が写っていた。
『蔵の中、金だらけなんだけど』
直樹は読んだ。
別の写真には、開いた箱があった。
さっき隣に立っていた女の手も写っていた。
「俺ら、まだ何も載せてないよね」
野田が言った。
「うん」
直樹は答えた。
武藤が画面を動かす。
違う人が、同じ庭を撮っていた。
同じ紙を、別の角度から撮っていた。
杉浦が怒鳴っている動画もあった。
実が目を丸くした。
「早いね」
野田が短く笑った。
「俺らより、仕事早い」
直樹も笑いかけた。
そのまま、口を閉じた。
投稿は、また増えていた。
「……思ってたより、大ごとになってない?」
誰も、すぐには答えなかった。
花火が鳴った。
*
直樹は、自分たちの撮った写真を開き直した。
載せる文章を打った。
消した。
「長い?」
武藤が聞いた。
「まだ何も言ってないでしょ」
「考えてる顔だったから」
直樹は画面を見た。
知らないことまで書きかけていた。
まだ読めていない紙もあった。
写真の中にあるものだけを、短く書き直した。
久世へ見せると、一箇所を指した。
「そこは、まだ分からないです」
「そうだね」
直樹は消した。
送信した。
画面の中で、写真が並んだ。
名前を出して、自分たちが何をしたか話したくなるかもしれないと、前には思っていた。
今は、五人でここに座っているだけで忙しかった。
*
実が鞄から袋を出した。
朝、差し出した袋だった。
「食べる?」
中には、小さなパンが入っていた。
直樹は一つ受け取った。
袋を破ろうとして、指が滑った。
力が抜けているのか、手が濡れているせいなのか、分からなかった。
武藤が横から端を持った。
開いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
実は皆へ配り終えると、最後の一つを自分で取った。
久世はひと口食べ、ようやくベンチの端へ腰を下ろした。
野田が少し詰めた。
武藤と実は、すぐそばに立っていた。
*
屋敷の裏手から、次の花火が上がった。
五人が顔を上げた。
光が開く。
汚れた顔も、濡れた服も、持ったままのパンも、明るく照らされた。
「やったな」
直樹が言った。
四人が頷いた。
野田が笑った。
実も笑った。
武藤が顔を伏せた。肩が少し揺れた。
久世はパンを持ったまま、空を見ていた。
また、花火が開いた。
町の屋根が浮かんだ。
川の水面に、光が短く伸びた。
「俺ら、明日からどうすんの」
野田が言った。
「知らん。明日さえ来れば、何とかなるでしょ」
直樹が答えた。
「ほんとに?」
武藤が聞いた。
直樹は少し考えた。
「まあ、いいでしょ」
「いいんだ」
久世が言った。
直樹は頷いた。
五人とも、しばらく笑っていた。
*
花火は、まだ上がっていた。
一つ開き、消える前に、次の光が上がる。
直樹は空を見たまま、野田へ聞いた。
「なあ、花火、多くない?」
野田も空を見ていた。
「……源次さん、張り切ったんじゃない」
武藤が声を出して笑った。
実が頷いた。
「綺麗だね」
次の花火が、五人の顔を照らした。




