第三十七章 敷地内
第三十七章 敷地内
開けた扉の向こうから、まだ水が流れていた。
杉浦は構わず奥へ進み、棚に引っ掛かった箱を持ち上げた。
水を吸った底が、掌の上でたわんだ。
「何で、こんな」
持ち直した拍子に、箱の角が破れた。
中の封筒が、一つ落ちた。
杉浦は屈み、掴んだ。
端が濡れていた。
棚を見る。
下の段には、帳面と、まとめておいた書類がある。
まず、出さなければならなかった。
*
杉浦は箱を外側の蔵へ運んだ。
戻って、次を取る。
水の原因を探すより、紙のことが先だった。
棚から帳面を抜き、片腕へ挟む。
封筒の束を上へ載せた。
足元で、何かが流れた。
杉浦は目を下げ、呼吸を荒くした。
外へ運んだ箱も、濡れたままでは崩れる。もっと乾いた場所へ移さなければならない。
そう思って、外へ向いた。
また、空で大きな音がした。
*
庭が、一瞬明るくなった。
杉浦は顔を上げた。
木の影が動いた。
次の光が開く。
最初の光を見たときは、何かの見間違いだと思った。
だが、次も、その次も上がった。花火だった。
杉浦は帳面を抱えたまま、立ち止まった。
何が起きているのか、分からなかった。
水。
開いた扉。
花火。
水は蔵から、花火は塀の向こうから。
自分の土地で、知らないことが同時に起きていた。
「誰だ!」
杉浦は怒鳴った。
返事はなかった。
また、音がした。
*
通りを歩いていた二人連れが、足を止めた。
「花火?」
「今日、何かあったっけ」
少し先でも、人が空を見ていた。
家の窓が開いた。
玄関から出てきた者が、向かいの家へ声をかける。
「どこ?」
「杉浦さんのところじゃない?」
光が、長い塀を照らした。
誰かがスマホを出した。
撮影する者もいれば、電話をかける者もいた。
狭い通りに、少しずつ人が増えた。
*
杉浦は抱えたものを箱へ置いた。
蔵の入口から水が出ていた。
その中へ、紙が混ざった。
杉浦は足で止めようとして、別の封筒を蹴った。
拾う。
顔を上げると、門の外に人の頭が見えた。
「入るな!」
怒鳴ったが、相手はまだ門の外だった。
杉浦は蔵へ戻った。
出したものを、隠さなければならなかった。
だが、戻す先は水に浸かっている。
足元の箱を押すと、濡れた角がまた裂けた。
紙幣が滑り出た。
「くそっ!」
杉浦が屈んだとき、遠くからサイレンが聞こえた。
*
直樹は音を聞き、顔を上げた。
花火が木の向こうへ開いた。
思っていたより、大きな音だった。
スマホを確かめる。
短い連絡が重なっていた。
直樹は一つずつ読んだ。
返事を打つ手に、土がついていた。
画面へ筋が残る。
袖で拭き、立ち上がった。
門の方へ、人が集まり始めていた。
その中に、武藤の横顔が見えた。
直樹はスマホを握り直し、そちらへ歩いた。
*
門が開くと、杉浦は顔を上げた。
警察官が入ってきた。
「何をしてるんですか。花火は、どちらで」
「こっちが聞きたい!」
杉浦が怒鳴った。
「わしは知らん。誰かが勝手にやってるんだ!」
警察官が庭へ目を向けた。
その後ろから、別の声がした。
門の外で、消防車が止まった。
杉浦は蔵へ戻ろうとした。
「ちょっと待ってください。そこへは、まだ」
「わしの家だ!」
「状況を確認しますから。いったん離れて」
杉浦は腕を引いた。
花火が鳴り、言葉の後半をかき消した。
警察官は声を張り、杉浦を蔵の前から離した。
開いた扉へ向こうとすると、また止められた。
「中に、大事なものがあるんだ!」
「今は、安全な場所へお願いします!」
杉浦は背後を振り返った。
水の筋が、蔵から庭へ伸びていた。
*
門の外で、直樹は庭を見た。
花火の光が、白い蔵の入口を照らした。
水が流れていた。
四角いものが、いくつも混じっていた。
武藤が見ていた。
また一つ、花火が開いた。
「あれ、金だ!」
武藤の声だった。
隣にいた男が振り向いた。
「え?」
「ほら、あそこの水に」
武藤が庭を指した。
「お金?」
若い女がスマホを下げた。
「どれ?」
後ろから別の人が覗いた。
直樹は蔵を見ていた。光が消えると、紙の色は分からなくなる。
だが、次の花火が開いたとき、さっきより手前にも一枚あった。
「ほんまに?」
隣の男が身を乗り出した。
「ちょっと、近くで見たら分かるんじゃない」
誰かが言った。
一人が門を越えた。
直樹は武藤を見た。
武藤も一度だけこちらを見て、すぐに前へ顔を戻した。
*
「敷地に入らないでください!」
警察官が声をかけた。
先に入った男は、スマホを構えたまま庭の方へ進んだ。
「すぐ戻ります。ちょっとだけ」
「ちょっとでも、入れません!」
その後ろから別の者が入り、さらに二人が続いた。
杉浦が気付いた。
「おい! 何をしてる!」
警察官へ顔を向ける。
「止めんか! わしの敷地だぞ!」
門へ向かった警察官の前へ、人が重なった。
「下がってください!」
「何、何があるんですか」
「お金だって」
「どこに?」
後から来た者ほど事情を知らず、先へ行こうとした。
電話をかける者がいた。
撮りながら喋る者がいた。
杉浦は人の間から蔵を見た。
流れた紙幣が、庭石の手前で止まっていた。
誰かがしゃがんだ。
「触るな!」
杉浦が怒鳴った。
しゃがんだ男は、手を引っ込める代わりにスマホを近づけた。
「本物だ」
その声が、後ろへ伝わった。
*
直樹が蔵の前へ着いたとき、もう何人もスマホを向けていた。
開いた箱があった。
濡れた封筒。帳面。水を吸って膨らんだ紙の束。
その奥で、コンクリートの部屋の扉も開いていた。
「何これ。金庫?」
誰かが言った。
直樹はスマホを向けた。
手が揺れた。
画面の中で、箱の角が何度も動く。
両手で持ち直した。机の本を撮ったときとは違った。後ろで人が喋り、肩が触れ、杉浦が怒鳴っていた。
一枚、撮った。
見直していると、隣で久世がしゃがんだ。
流れてきた紙が、庭石に引っ掛かっていた。
「これ」
小さく言った。
直樹には見覚えのない表だった。
久世はスマホを向けた。言葉が出そうになり、唇だけ動いた。
「何の紙?」
横から知らない男が聞いた。
「……まだ、分かりません」
久世は答えた。
それでも撮った。
会社名と日付と、並んだ数字が画面に収まった。
*
「入らないでください! 下がって!」
警察官の声がした。
後ろの者が止まると、そのまた後ろで誰かが背伸びした。
「見えないって」
「何があるの?」
「蔵の中、金だって」
伝わるたびに、話が短くなった。
野田が蔵の前へ来た。
中へ目を向けたあと、顔が一度止まった。
直樹が呼びかけるより先に、スマホを出した。
実も、人の肩越しに開いた部屋を撮っていた。
ひときわ大きな男が腕を上げたので、その後ろへ人が寄ってきた。
「兄ちゃん、撮れた?」
「はい」
「ちょっと見せてよ。こっち、全然見えへん」
実は画面を向けかけた。
野田が横から、実の袖へ触れた。
実は顔を上げた。
「あ」
スマホを胸の前へ戻した。
「すみません」
男はもう、別の人の画面を覗いていた。
武藤がこちらを見た。
直樹は頷いた。
写真は、スマホの中にあった。
ここで読む必要はなかった。
*
五人が蔵の前を離れ始めても、人はまだ入ってきた。
庭へ流れ出た書類が、女の靴へ貼り付いた。
剥がそうとして、女が紙を持ち上げる。
「これ、何?」
隣の人が画面を向けたので、女は紙を広げた。
別の場所でも、誰かが一枚拾った。
「この会社、知ってる」
「何の紙?」
「分からん。とりあえず撮っとこ」
意味を知らないまま、写真になった。
動画になった。
「杉浦さんちって書いていい?」
「表札、出てるし」
「花火より、こっちすごいんだけど」
笑い声がした。
門へ戻る直樹の横で、若い男が投稿の文字を打っていた。
杉浦の蔵。
現金。
何の騒ぎ。
短い言葉の前に、いくつも記号がついていた。
直樹はその画面から目を離した。
自分たちは、まだ何も送っていなかった。
*
杉浦は、同じ言葉を何度も叫んでいた。
「わしの物だ!」
紙幣も、土地も、蔵も。
自分の金で作り、自分の手でしまったものだった。
誰にも触らせなかった。
その場所を、知らない人間が覗いていた。
杉浦が一歩出ると、前の人も一歩動いた。
誰かの肩が邪魔になり、蔵が見えなくなった。
「撮るな! 消せ!」
花火が開いた。
杉浦の顔も、開いた蔵も、同じ光に照らされた。
*
直樹は、待ち合わせた道の端へ着いた。
久世が先にいた。
息をしながら、何か言おうとしていた。
「大丈夫?」
直樹が聞くと、久世は頷いた。
野田が来た。
その少し後ろに、実がいた。
「武藤さんは?」
野田が聞いた。
直樹は来た道を見た。
暗いところから、鞄を抱えた影が出てきた。
武藤だった。
五人が揃った。
「撮れた?」
直樹が聞いた。
久世が頷いた。野田も、実もスマホを見せた。
武藤は自分の画面を一度見て、鞄へしまった。
直樹は、一人ずつ顔を見た。
まだ誰も、笑っていなかった。
「行こう」
直樹が言った。
背後で上がり続ける花火の音が、一際大きく響いた。
歓声と拍手が聞こえた。
源次さんの花火を心から楽しんでいる人たちも、確かにいた。




