第三十六章 ただの土曜日
第三十六章 ただの土曜日
金曜日の終業後、直樹は最後の箱を台車へ載せた。
表示を確かめる。
班長が頷き、台車を押していった。
作業台を拭くと、今日の仕事は終わった。
直樹は手を洗った。
石鹸の泡を流し、いつもと同じ場所から紙を取る。
鏡の中の自分を見た。
別に、何も変わっていなかった。
寝不足でもなかった。
昨夜は本を読まずに寝た。
読もうとしたのだが、二ページ進んだところで、前の一ページを覚えていないことに気付いた。
だから閉じた。
「三浦さん」
後ろから武藤が来た。
直樹は脇へ寄った。
武藤も手を洗った。
「明日、雨はなさそうです」
「うん。見た」
直樹は答えた。
それ以上は話さなかった。
隣の蛇口で、ほかの従業員が手を洗っていた。
*
更衣室で、野田が作業着のポケットを裏返した。
小さな紙屑が落ちた。
拾って捨て、私服の上着を着る。
「今日は寄らないよね」
直樹へ聞いた。
「うん。それぞれで」
「分かった」
久世は先に帰っていた。
実はまだ、靴を履き替えていた。
「明日、遅れないようにするね」
実が言った。
「三浦さんに言った方がいいよ」
野田が答えた。
「聞こえてる」
直樹は鞄を持った。
実が少し笑った。
廊下へ出ると、向こうから同じ班の男が来た。
「お前ら、また明日も一緒か」
直樹は頷いた。
「はい」
「好きだねえ」
「まあ」
直樹は答えた。
野田は靴紐を確かめ、武藤は袋を肩へ掛け直した。
四人は門を出たところで、別々の方へ歩いた。
*
土曜日、直樹はアラームが鳴る前に起きた。
時計を見て、もう一度横になった。
すぐに起きた。
普段なら、まだ寝られるのに、と思う時間だった。
湯を沸かし、昨日買ったパンを食べる。
本を一冊手に取り、戻した。
代わりに、畳んだ紙を開いた。
五人の名前があった。
何度も見直したあとが、あちこちに残っていた。
直樹は最初から読んだ。
一度、最後まで読む。
もう一度読もうとして、やめた。
スマホへ通知が来た。
『おはようございます』
実だった。
時刻を見る。
まだ、誰も家を出る時間ではなかった。
『おはよう』
直樹は送った。
少しして、四人とも返事をした。
*
五人が揃うと、実が袋を差し出した。
「食べてきた?」
「今日は食べた」
直樹が答えた。
「僕もです」
久世が言った。
実は頷き、袋を自分の鞄へ戻した。
「あとで食べよう」
武藤は時計を見た。
野田は一度、全員の顔を確かめた。
「忘れ物、ない?」
直樹は鞄を触った。
鍵。
財布。
スマホ。
「ある。いや、ない」
野田が笑った。
「どっち」
「必要なのはある。忘れ物はない」
「分かった」
久世が小さく息を吐いた。
直樹はそれを見て、自分も息を吐いた。
いつもの待ち合わせと、似ていた。
違うのは、誰も次の予定を聞かなかったことだった。
*
町は、普通の土曜日だった。
スーパーの前に、野菜の箱が並んでいた。
犬を連れた人が歩いていた。
自転車の子どもが、友達を呼んでいた。
五人は途中で別れた。
直樹は振り返りかけたが、歩く方へ顔を戻した。
決めたことは、皆が知っていた。
今からまた説明する必要はなかった。
*
日が傾く前、野田は源次と亮太に会った。
塀の外にも杉浦の土地は続いていた。屋敷を背にした木立の向こうへ、山の斜面が伸びている。
亮太が手を上げた。
「こっちは大丈夫」
野田は頷き、源次を見た。
作業着の袖をまくっていた。家で椅子に座っていたときとは、立ち方から違った。
「何だ」
「いや」
野田は首を振った。
傍らには、修理した箱があった。
つい蓋の方へ目が行く。
「今日は、ばらすなよ」
源次が言った。
「分かってます」
「終わってからもだ。まだ、しまわにゃならん」
亮太が笑った。
野田も少し笑い、それから二人へ頭を下げた。
「じゃあ、またあとで」
「転ぶなよ」
源次はそう言って、もう箱の方を向いた。
*
日が傾く頃、杉浦の庭には誰もいなかった。
池の水面だけが、木の影の間で動いていた。
家の中には明かりがあった。
杉浦は机に置いた書類を閉じ、電話を終えたところだった。
町の現地確認まで、あと数日。
現場からは、順調だという報告が来ていた。
外へ出て、自分で確かめるまでもなかった。
余計なものは片付き、地面は平らになる。
あとは町へ見せればよかった。
杉浦はスマホを取り上げた。
*
直樹は、自分の膝についた土を払った。
払っても、色が残った。
今、そこを気にしても仕方がなかった。
野田からの短い連絡を確かめる。
庭の水道を使うところまでは、話した通りだった。松岡が教えてくれた、草木に水をやるための水道だ。
池の設備には触れていない。
それでも、紙の上と同じ早さでは進まなかった。
予定より時間がかかっていた。
待つ。
待っているあいだに、何度もスマホを見たくなる。
直樹は画面を消した。
目の前の明るさが、少しずつ変わっていた。
このあとの順番を、頭の中で辿る。
言葉が多すぎると、かえって分からなくなる。
久世にそう言われ、短く書き直した紙が、ポケットに入っていた。
直樹は出さなかった。
もう覚えていた。
*
杉浦は、蔵の映像を開いた。
いつもの棚があった。
壁も、奥の扉も変わらない。
だが、床がなかった。
見えていたはずの棚の脚が、途中から消えている。照明が映った水面の上を、白い紙が一枚、ゆっくり横切った。
杉浦はスマホを顔へ近づけた。
紙のそばに、見覚えのある帯があった。
札束だった。
「……何だ、これは」
画面を閉じ、もう一度開いた。
水面が揺れていた。
棚の高さからすれば、人が立てば腰ほどまで沈む。床へ置いていた箱は、もう見えなかった。
その箱に入れたはずの紙が浮いていた。
口の開いた袋のそばで、ばらけた札が何枚も重なっている。
杉浦は立ち上がった。椅子が後ろへ滑った。
誰かを呼びかけて、やめた。
あの中へ、人を入れるわけにはいかなかった。
*
庭へ出ると、蔵の前の地面が濡れていた。
雨は降っていなかった。
杉浦が歩く間にも、白壁の裾から水が漏れていた。敷石の間を伝い、庭へ細い流れを作っている。
スマホの映像が、頭から離れなかった。
鯉が一匹、水面へ口を出した。
杉浦は見なかった。
外扉の前へ着くと、足元で水が光った。
鍵を持つ指が滑った。
「くそっ」
開いた途端、水が靴へぶつかった。
杉浦はよろめき、扉の脇へ手をついた。濁った水が敷居を越え、庭へ広がっていく。
蔵の中には、平らな天井のコンクリートの部屋があった。
古い蔵の壁と、その部屋の壁の間には隙間がある。今は、そこにも水がたまっていた。
流れの中で、杉浦のズボンが濡れた。
外側だけで、この有様だった。
奥にある頑丈な扉は、閉まっている。
自分しか開けない扉だった。
中の部屋を造ったとき、人が入って作業することも考え、空気の通り道は残した。密閉しきった箱にはしなかった。
その部屋の中で、金が浮いていた。
あの書類も、同じ水の中にあった。
杉浦は一度、庭を振り返った。
誰も来ていなかった。
戻って誰かに頼めば、その間にも水は紙をふやかす。何を助け出すのか、人に見られる。
自分で出すしかなかった。
杉浦は水を踏み、奥の扉へ近づいた。
鍵を扱う手が、今度は震えた。
「早くしろ」
自分へ言った。
扉を開ける。
中から押し寄せた水に、身体が持っていかれかけた。
杉浦は扉へしがみついた。水音が蔵の中で響き、庭へ出ていた流れが一気に太くなった。
足元を白いものが通った。
紙だった。
そのあとから、札が流れた。
「待て!」
杉浦は手を伸ばした。
掴んだ一枚が指へ貼りつく。その向こうを、別の紙が流れていく。
奥の棚には、まだ箱が残っていた。
杉浦は濡れた札を握りしめ、部屋の中へ顔を向けた。
*
直樹のスマホが震えた。
『開けた』
武藤からだった。
直樹は文字を見た。
読んでも、すぐには指が動かなかった。
何週間も紙の上にあったことが、今、起きていた。
直樹は短く返事を打った。
それから、ポケットへスマホを戻した。
ここからは、見ているだけでは終われなかった。
撮って、持って帰る。
何度も口にした言葉が、今度は自分へ向いた。
*
亮太はスマホの画面から顔を上げた。
源次がこちらを見ていた。
「始まったって」
「そうか」
源次は屋敷の方を一度見た。
孫はその横顔を見ていた。
「爺ちゃん」
「何だ」
「頼むな」
源次は鼻で笑った。
「誰に言っとる」
亮太は頷いた。
源次が空を見上げる。
星は、まだほとんど見えなかった。
やがて、夜の町に最初の音が響いた。
白い蔵の壁が、一瞬、昼間のように浮かんだ。




