第三十五章 もう一踏ん張り
第三十五章 もう一踏ん張り
亮太が帰ってきたとき、祖父の田辺源次は居間のテレビを見ていた。
日曜の夕方だった。画面の中では、知らない町の名物を、知らない若者が食べている。
「爺ちゃん」
「ああ」
「ちょっと、話あるんだけど」
亮太は隣へ座らず、テレビの横に立った。
源次はリモコンを取り、音を下げた。
「金ならないぞ」
「違うって」
「じゃあ、座れ。そこじゃ見えん」
亮太は座布団を引き寄せた。
しばらく膝を擦ってから、機械を直した野田の話を始めた。
源次は頷いた。
あの家の孫だということは覚えていた。昔、修理へ持っていった機械のそばにしゃがんで、帰るまで離れなかった子どもだった。
亮太の話は、花火に行き着くまでが長かった。
町の工事。夜の車。杉浦の蔵。
途中で一度、話の順番が戻った。
「それは聞いた」
「ああ、うん。で、そのあと」
亮太が言い直す。
源次は黙って聞いた。
湯呑みの茶は、すっかり冷めていた。
*
「つまり、あの杉浦が困っとる横で、花火を上げろと」
源次が言うと、亮太は口を閉じた。
「……まあ、そうなる」
「けったいな注文だな」
「うん」
「客が怒る花火なんぞ、頼まれたことがない」
「客じゃないけど」
「自分の土地で勝手に上げられりゃ、怒るだろ」
亮太は頷いた。
しばらくして、顔を上げた。
「嫌なら、断っていいから」
源次は亮太を見た。
「お前は、やってほしいんだな」
「……うん」
「杉浦が憎いか」
亮太はすぐに答えなかった。
「腹は立つよ。でも」
両手を膝へ置いた。
「爺ちゃんが、また花火の話してるとこ、見たい」
テレビの中で、若者が笑った。
源次は画面へ目を向けた。
何を食べていたのか、もう分からなかった。
家の者たちが施設の話をしていることは知っていた。
そこへ入るのも悪くないと思っていた。息子も嫁も、自分の暮らしがある。いつまでも気にかけさせるのは、気が引けた。
それを、亮太だけが何とかしようとしている。
この頃は、出かけた先のどうでもいい話まで、わざわざしに来た。今日も、こんな話を抱えて帰ってきた。
「爺ちゃん?」
源次はテレビを消した。
「その連中、連れてこい」
亮太が顔を上げた。
「上げてくれるの?」
「話を聞くと言っとるんだ。お前の説明じゃ、何が何だか分からん」
「さっき、まとめたじゃん」
「大体は分かった」
「どっちだよ」
源次は湯呑みを差し出した。
「茶、頼む。熱いやつな」
*
翌週の夜、野田から連絡が来た。
『源次さんが会うって。亮太から連絡来た』
直樹は読み返してから、電話をかけた。
「本当に?」
『会うだけだよ。そこ、間違えないで』
「うん。会うだけ」
机にあった紙を引き寄せる。
電話を切ったあと、直樹は自分が何から話せばいいか考えた。
小説の話なら、いくらでも出てきた。
今度は、そこから始めない方がいい気がした。
*
五人が訪ねたのは、その週末だった。
母屋の隣に、古い作業場があった。入口に重ねられた空箱が、片方へ寄せてある。
源次は奥の椅子へ座っていた。
野田が頭を下げると、源次は作業台を指した。
「いい具合になったな」
修理した箱が載っていた。
「まだ使えるよ」
野田が言った。
「うん。分かる」
源次は短く答えた。
亮太が椅子を運んできた。実へ渡そうとして一度見比べ、少し大きいものへ取り替えた。
「すみません」
「いえ」
直樹が座ると、源次は顔を向けた。
「お前が、言い出したやつか」
「はい。三浦です」
「亮太から聞いた。今度は、お前の話を聞こうか」
直樹は鞄から紙を出した。
いつもの机とは違った。相手の方が先に黙って待っていると、どこから口を開けばいいか迷った。
「最初は、夜のトラックを見て」
そこから話した。
*
源次は、直樹が話し終えるまで遮らなかった。
久世が何度か補い、武藤は聞かれたことにだけ答えた。
野田は、父親の仕事で知ったことと、自分たちで調べたことを分けて説明した。
実は紙がずれないよう、端を押さえていた。
「五人で撮って、持って帰る。それを世間に出すんだな」
最後に源次が言った。
「はい」
直樹は頷いた。
「花火で集まった人が、何とかしてくれるのを待つつもりじゃないです」
「お前らは、逃げるんだな」
直樹の返事が、少し遅れた。
「……はい」
「それでいい」
源次は椅子へ座り直した。
「ぞろぞろ残って、花火の邪魔されても困る」
亮太が源次を見た。
「爺ちゃんは?」
「上げるなら、最後まで見る」
「誰かに、何してるって言われたら」
「花火だと言う」
亮太は口を開け、それから閉じた。
直樹には、源次が冗談を言っているのか分からなかった。
野田は分かったようだった。膝に置いた手を、一度握った。
「うちの父さんが頼んだ話じゃないです。俺が持ってきた話です」
「知っとる。さっき聞いた」
源次は野田を見た。
「俺も自分で返事する。それだけだ」
作業場が静かになった。
源次は立ち上がった。
亮太が思わず手を伸ばしかけると、源次は横を通り過ぎ、作業台の前に立った。
箱の蓋に残る小さな傷を、指でなぞった。
「長いこと世話になったなぁ。もう一踏ん張りしてくれな」
掌で、ぽんと撫でた。
野田はその手を見ていた。
「直ったばっかりだよ」
亮太が言った。
「だから、頼んどるんだ」
源次は顔を上げた。
「で、いつだ」
*
「来月の、ここです」
久世がスマホのカレンダーを指した。
土曜日の翌週、火曜日に小さな印があった。
「何が?」
直樹が聞いた。
「町の現地確認。昨日出た会議の資料に、予定日が載りました」
直樹は顔を近づけた。
久世が資料の画面へ戻した。
工事の進み具合と、そのあとの用地の扱いについて説明を受けるとあった。
「あと三週間くらいか」
野田が言った。
「そこで、全部決まるんですか」
「全部ではないです。でも、町の人たちが現場を見る日は決まりました」
久世は答えた。
直樹は、野田が聞いた電話の言葉を思い出した。
町の下見までに終わらせろ。
向こうには、向こうの予定があった。
土をかけ終えた場所を、人に見せる予定だった。
直樹は紙の端へ日付を書いた。
「のんびり考えてるうちに、終わっちゃうね」
野田が言った。
直樹は頷いた。
*
それからの週も、五人は毎晩集まったわけではなかった。
火曜日は直樹と武藤だけだった。
水曜日は誰も来なかった。
木曜日には、野田が仕事帰りに十五分だけ寄った。
「ここ。見直して」
紙を一枚置いた。
直樹が引き寄せると、野田の書いた図の横に、短い文字が並んでいた。
できない理由が、三つあった。
「また増えた」
「減らすために書いてるんだよ」
野田が言った。
直樹はペンを取り、前の案へ線を引いた。
杉浦を動かすことだけ考えると、外で待つ者のことが抜けた。
人を集めることだけ考えると、自分たちのいる場所がなくなった。
小説では一行で済むところに、いくつも引っ掛かった。
それでも、最初の紙にあった疑問の全部が、残っているわけではなかった。
*
蔵の外側と内側は、同じ建物ではなかった。
杉浦の紹介動画を見直すうちに、野田はそれを何度も言った。
「蔵の中へ、もう一つ部屋を作ってるんだよ」
外の白壁。
内側の頑丈な部屋。
見せびらかすための建物の中に、見せないための場所がある。
直樹は図を描き直した。
扉について話し始めると、野田は首を振った。
「そこは触らない」
「うん。本人が開ける」
直樹が答えた。
人の通り道を作る話ではなかった。
野田は機械の話をし、久世は条件の足りないところを挙げた。
細かな部分を詰めると、直樹には分からない言葉が増えた。
「今の、もう一回」
そう言う回数が多くなった。
久世は少し考えてから、別の言い方で説明した。
実が頷く。
「それなら、僕も分かった」
直樹も、分かったところにだけ丸をつけた。
*
金曜日、武藤が昼休みにノートを出しかけた。
隣のテーブルを見て、鞄へ戻した。
「今日、帰りに見せます」
「うん」
直樹が答える。
「何、お前ら。秘密の相談?」
同じ班の男が笑った。
「まあ、そんな感じです」
直樹は弁当の蓋を取った。
「いい年して、楽しそうだな」
「楽しいですよ」
答えたのは野田だった。
男は少し口を開け、野田を見た。
野田はもう、武藤の弁当の具を見ていた。
「それ、どこで買った?」
「駅前」
「そっちも安いんだ」
話が続いた。
直樹は飯を食べた。
今夜、武藤が何を持ってくるのか、気になった。
*
武藤のノートには、図が増えていた。
車を数えた最初のページより、線も文字も大きかった。
「見落としそうなところ、書きました」
武藤はページを開いた。
「こっちばかり見てると、後ろが分からなくなるから」
直樹は頷いた。
自分なら、目の前の杉浦だけを見ていたかもしれなかった。
「誰が何を見るか、分けた方がいいです」
「そうしよう」
直樹は紙を横へ並べた。
武藤が一つずつ指し、久世が時間の前後を確かめた。
実は手を膝へ置いて聞いていた。
野田が、図の端へ短く書き足した。
直樹はしばらくして顔を上げた。
「武藤さん、今日、よく喋るね」
武藤の指が止まった。
直樹は続けた。
「いや、助かるってこと。俺、その辺、全然考えてなかった」
武藤は直樹を一度見た。
「……そこは、気になるから」
ノートへ目を戻す。
「続けますね」
「うん」
直樹も紙へ目を戻した。
*
花火のことは、源次が話を引き取った。
使うのは、小さい二号玉だと言った。
「大きいのじゃなくても、人は気づきますか」
直樹が聞くと、源次は眉を寄せた。
「気づくとも。小さい玉は、地味な花火だと思っとるのか」
「いや、そういう意味じゃ」
「ちゃんと見たことがないんだな」
直樹は黙った。
亮太が横で笑った。
それから、源次の話が長くなった。
昔上げた花火のこと。小さい玉で、どう客が喜んだかということ。
武藤が一つ聞くと、源次はそちらを向いて、また話した。
直樹は途中で野田を見た。
野田は箱へ手を伸ばしかけていて、実がそっと袖を引いた。
「もう直ってるよ」
「分かってる」
小声で答え、野田は手を膝へ戻した。
亮太は笑いながら、源次の空いた湯呑みへ茶を注いだ。
*
帰り際、亮太が野田を呼び止めた。
「何か、悪いな」
「何が?」
「花火の話、長かっただろ」
野田は首を振った。
「うちにも、ずっと小説の話する人いるから」
「聞こえてるよ」
少し先で、直樹が振り返った。
亮太が笑った。
野田は作業場を見た。源次はまだ、久世へ何か話していた。
「元気じゃん」
「……うん」
亮太は頷いた。
しばらくして、もう一度頷いた。
*
準備は、仕事の合間に続いた。
夜が更ける前に紙を畳み、翌日、また開いた。
庭の水道を思い出したのは野田だった。松岡が教えた、散水のための設備の話をした。
「池の機械とは、別だからね」
野田が言うと、実が頷いた。
「あの鯉は、びっくりさせたくないね」
「うん。池はそのまま」
直樹は答えた。
誰が何を持っていくかを書き出した夜、実は自分のスマホを出した。
「写真、練習してもいい?」
直樹が机の本を立てた。
「それなら、この作者の」
武藤が本を裏返した。
「裏の字、小さいから。撮って読めるか、見てみましょう」
「今、作者の話しようとしたんだけど」
実は両手でスマホを持った。
野田が台所へ行った。
久世は撮った画像を拡大していた。
直樹は一度、本を指したまま四人を見回し、それからペンを取った。
*
翌週の日曜日の夕方、直樹は一枚の紙を真ん中へ置いた。
そこには、五人の名前があった。
「これなら、どう?」
野田が読んだ。
久世が自分の名前の横を見た。
武藤がノートと照らし合わせた。
実は一度最初まで戻ってから、頷いた。
「僕のところ、もう一回教えて」
「うん」
直樹は実の方へ紙を向け、説明した。
実が聞き返す。
直樹が言い直す。
野田が一つ付け足し、武藤がその横へ印を入れた。
久世は最後に、日付を確認した。
町の現地確認の前。
五人とも仕事のない日。
直樹はカレンダーへ丸をつけた。
「……決まったね」
野田が言った。
直樹は頷いた。
急に、その日がただの休みではなくなった。
武藤がペンの蓋を閉めた。
実は立ち上がり、空いたコップを集めた。
「ご飯、炊く?」
いつもの声だった。
直樹は時計を見た。
「炊こう。今日、何食う?」
野田が冷蔵庫を開けた。
久世は資料を鞄へ戻した。
机の上に残った五人の名前を、直樹はもう一度見た。
その横に、さっき自分で書いた日付があった。




