第三十四章 明日も仕事
第三十四章 明日も仕事
翌朝、直樹は弁当箱を流しに置き忘れた。
アパートの階段を下りてから気付き、戻った。
昨日の紙も机に広げたままだった。
鞄から本を一冊出し、その下へ挟んだ。
誰も来ない部屋で、何を隠しているのだろうと思ったが、むき出しよりはよかった。
時計を見る。
バスを一本逃すと、面倒だった。
直樹は今度こそ弁当を持ち、鍵を掛けた。
*
昼休み、武藤は少し遅れてきた。
直樹の向かいへ座り、弁当の包みを開いた。
何か言いかけ、それから周りを見た。
隣の席には、別の班の従業員がいた。
「今日、帰り、少し話していいですか」
「うん」
直樹は答えた。
昨日の話だろうと思った。
そのまま弁当を食べ始める。
野田が来て、新しく出た雑誌の写真を武藤へ見せた。
いつもの話が始まった。
その途中で、野田がスマホを出した。昨晩連絡した亮太から、返事が来ていた。
『機械は元気。爺ちゃんより元気かも』
続けて、笑っている顔の絵が送られてきた。
野田はすぐには返さず、画面を一度閉じた。
直樹は卵焼きを食べながら、帰りの時間を考えていた。
*
終業後、五人は工場の門を出た。
すぐには別れず、少し歩いたところで武藤が口を開いた。
「昨日のやつ、本当にやるんですか」
野田が自転車を押す手を止めた。
直樹も足を止めた。
「まだ、できるか分からないけど」
「できるなら?」
武藤が聞いた。
直樹は、一度口を閉じた。
「やってみたい」
答えると、武藤は頷いた。
「俺、昨日、面白そうだと思ったんです」
「うん」
「でも、帰ったら、ちょっと怖くなって」
武藤は自分の自転車の鍵を握っていた。
「あの人、相手だから」
直樹は杉浦の家を思い出した。
通るだけで道が空く人。
自分たちを、見もしなかった人。
「そうだね」
直樹は答えた。
「気晴らしのつもりでも、向こうはそう思わないだろうし」
「思わないでしょ」
野田が言った。
実が四人の顔を見ていた。
久世は鞄の持ち手を両手で持っていた。
通りを、仕事帰りの車が何台か過ぎた。
「歩きながらにしよ」
野田が言った。
「ここ、会社の人も通るし」
五人はまた歩き出した。
*
直樹の部屋へ寄ることになった。
今日は飯の約束をしていなかったので、何も買っていなかった。
直樹は麦茶を出した。
野田が机の上の本を持ち上げ、下に挟んだ紙を見つけた。
「隠してたんだ」
「出しっぱなしよりいいでしょ」
「誰か来るの?」
「君ら」
野田が笑い、紙を机へ戻した。
武藤はいつもの場所へ座った。
「怖いから、やめるって言いに来たんじゃないです」
直樹が顔を向けた。
「そこ、間違えたくなくて」
「うん」
「何が起きるか分からないのに、面白いだけで返事したら、あとで困ると思って」
武藤はコップを持った。
直樹は少し考えた。
「俺、たぶん、面白いだけで話してた」
誰も否定しなかった。
「昨日、紙が繋がったのが、嬉しくて」
「分かります」
武藤が言った。
「俺も、そうだったから」
*
「まず、花火の機械を、俺の一存で使う話にはしないでね」
野田が言った。
直樹は頷いた。
「返したんだよね」
「うん。持ち主がいる道具だから。昨日、亮太に連絡したけど、まだ花火の話はしてない」
「返事、来た?」
「来た。今度、会ってくる」
野田はスマホへ目をやった。
「でも、頼めるって決まったわけじゃないから」
野田は机の端を指で軽く叩いた。
「親父の仕事で行った家の話も、勝手に親父へ背負わせたくない」
「うん」
直樹は紙を寄せた。
池の設備の仕事は、もう終わっていた。
次も当然のように家へ入れるわけではない。
機械を直せることと、あの庭で何でもできることは、違った。
「それを当てにして、案を作らない」
直樹が言うと、野田は頷いた。
「そう。それなら考える」
久世がコップを机へ置いた。
「僕は、分からないことを、できるって言えないです」
「うん」
「数字にしても、条件が違えば変わるので。途中で、無理だと言うかもしれません」
「言ってよ」
直樹は答えた。
「土みたいに」
久世が顔を上げた。
野田が笑った。
「あの作者、まだ言われてる」
直樹は例の文庫本を、少し遠くへ押した。
*
「大山さんは?」
直樹が聞くと、実は少し背筋を伸ばした。
「僕、あんまり分からないから」
「うん」
「できることがあったら、やるよ」
直樹は頷きかけた。
野田が口を開くより先に、武藤が言った。
「頼まれたからじゃなくて?」
実は武藤を見た。
「うん」
「本当に?」
「みんなが考えてるの、僕も一緒に考えたい」
実は机の紙へ目を落とした。
「分からないの、多いけど」
武藤は頷いた。
「俺もあります」
「俺も」
直樹が言った。
野田が本を指した。
「三浦さんは、分からないところを小説で埋めるからなあ」
「埋まってなかったけどね」
直樹が答えると、久世が小さく笑った。
*
「じゃあ、まだ考える」
直樹は紙を真ん中へ戻した。
「一人でも嫌だって言ったら、そのまま進めない。それでいい?」
四人が、それぞれ頷いた。
武藤の肩が、少し下がった。
「で、どうするの」
野田が聞いた。
「急に、考えること増えたけど」
「一個ずつ。今ある道具だけで何とかなると思わない」
直樹は紙を二枚に分けた。
分かっていること。
まだ決まっていないこと。
書いてみると、後の紙の方がずっと長くなった。
「多いね」
実が言った。
「穴だらけ」
野田が続けた。
直樹はペンを置いた。
「掘らなくても、穴はあるんだな」
武藤が笑った。
久世も、紙の上で肩を少し揺らした。
*
腹が鳴ったのは、今度は直樹だった。
野田が時計を見た。
「飯、どうする?」
「もう、作るの面倒だな」
「買ってくる?」
実が聞いた。
直樹は首を振り、立ち上がった。
「みんなで行こう。買ったら、今日はそのまま帰ってもいいし」
机の紙を揃える。
武藤はコップを台所へ持っていった。
久世が本を重ね、野田は窓が閉まっているか確かめた。
実が玄関で靴を揃えた。
直樹は部屋の電気を消した。
杉浦のことを考えていても、朝になれば工場へ行く。
給料を貰い、飯を食い、また本を読む。
その合間に、自分たちは妙なことを始めようとしていた。
「三浦さん、鍵」
野田に言われ、直樹はポケットへ手を入れた。
「あるよ」
そう答えたあと、確かめた。
あった。
今度は、戻らずに済んだ。
*
日曜日の午後、野田は町外れの小さな食堂へ行った。
亮太は、窓際の席で待っていた。野田を見つけると片手を上げ、向かいの椅子に置いた上着を取った。
「悪いな、わざわざ」
「俺が会おうって言ったんじゃん」
「そうだけど」
野田は座り、水を飲んだ。
亮太は先に頼んでいたコーヒーへ手を伸ばした。カップを持ち上げかけてから、野田を見た。
「修理代、足りなかった?」
「違う。ちゃんと貰った」
「よかった。親父、値切ったんじゃないかと思って」
野田は笑った。
店の人へコーヒーを頼んでから、机の端に置かれたスマホを見た。
「源次さん、どう?」
亮太の笑いが薄くなった。
「変わらない。機械が戻ってきたときは、嬉しそうだったんだけどな」
「写真、見た」
「あれ、俺が撮ろうって言ったんだよ。直してくれた人に見せるからって」
亮太はカップを置いた。
「そしたら、そこじゃ暗いとか、後ろが散らかってるとか。久しぶりにうるさかった」
「うちの爺ちゃんも、写真になると背景気にする」
「何なんだろうな、あれ」
二人は少し笑った。
野田のコーヒーが運ばれてきた。
店の人が離れてから、亮太が続けた。
「施設、親たちが見に行くって」
野田はカップへ伸ばした手を止めた。
「もう?」
「すぐ入れるわけじゃないらしいけど。今のうちに考えとこうってさ」
亮太は窓の外を見た。
「家でずっと見てるのは母さんだし、俺が嫌だって言うだけじゃ、駄目なんだろうけど」
「うん」
「でも、昨日できなかったこと、今日もできないかって言ったら、そうでもないんだよ。こっちが話しかけると、面倒くさそうにするだけのときもあるし」
野田は聞いていた。
「源次さん、花火はもう上げたくないって言ってるの?」
「聞いても、仕事がないんだからしょうがないって」
亮太が答えた。
「上げたいかって聞いてるのに、いつもそっちの話になる」
野田はコーヒーを一口飲んだ。
思っていたより熱かった。
*
「俺ら、杉浦さんのこと、調べてるんだ」
野田が言うと、亮太は顔を向けた。
「杉浦?」
「うん。会社の友達と」
工場跡へ夜に入っていく車のことから、野田は話した。
分かったことと、まだ分かっていないことを、途中で何度か言い直した。
亮太は口を挟まずに聞いていた。
「警察に持っていくような、動かない証拠はないんだ。あの家の蔵に何かあるんじゃないかって、俺らが考えてるだけで」
「それで?」
「本人が隠してるものを、本人に出させられないかって」
野田は一度、店内を見た。
離れた席で、客が新聞を読んでいた。
声を落とし、五人で話したことを続けた。
亮太の眉が、少しずつ寄った。
「それ、町に頼まれたとかじゃないんだよな」
「全然。勝手にやってる」
「何で、そんなこと」
野田はカップを両手で挟んだ。
「最初、面白かったんだよ。分からないことを調べて、ちょっとずつ繋がってくのが」
亮太は黙っていた。
「今は、あの人が一回くらい困ればいいと思ってる」
野田が顔を上げた。
「だから、まともな仕事の依頼じゃない」
亮太はしばらく野田を見ていた。
「……だろうな」
「うん」
「正直すぎるだろ」
「そこ、隠して頼むのは違うと思って」
亮太はカップの取っ手を指で挟み、放した。
「それで、人に来てほしいから、花火?」
「うん。杉浦さんの家の裏、山まであの人の土地だって聞いたから。あの辺で急に上がったら、何だって出てくる人がいると思う」
「人が来たら、どうするんだ」
「俺らも、その中にいる。蔵から出てきたものを撮って、持って帰る」
亮太は野田の顔を見た。
「来た人に、撮ってもらうんじゃなくて?」
「そこまで人任せにはできないよ。何が出てくるかも知らない人たちだし」
野田はスマホを指で引き寄せた。
「俺らで撮る。その場を離れてから、写真を外へ出す。SNSにも。杉浦さんがまたしまっても、なかったことにはできないように」
「……そこまで、お前らがやるんだな」
「うん。花火だけ上げて、あとは誰かが何とかしてくれ、じゃない」
亮太はカップへ目を落とした。
「でも、見に来た人も撮るだろ。今、何でもスマホ向けるし」
「撮る人もいると思う。載せる人も。でも、俺らが撮らなくていい理由にはならない」
野田は答えた。
亮太は少し考え、頷いた。
「祭りでも、始まる前からずっと撮ってる人いるよ。帰りに見たら、もう動画になってたりしてさ」
「そういう人が来るかもしれないね」
野田は言った。
それがどんな騒ぎになるかまでは、二人とも口にしなかった。
「先に知らせるの?」
「知らせない。事前に杉浦さんへ伝わったら、そこで終わりだから」
野田は少し間を置いた。
「ただ、これもまだ案なんだ。人が出てきても、思ってる通りには動かないだろうし。場所のことも、花火のことも、俺らじゃ分からない」
亮太が顔を上げた。
「源次さんが嫌なら、そこで終わり。勝手に道具だけ借りたいわけじゃないから」
亮太の視線が、机の上へ落ちた。
野田もそれ以上は言わなかった。
隣の席で、店の人が食器を下げていた。皿の重なる音がした。
「爺ちゃんが、また上げるのか」
亮太が言った。
野田は顔を見た。
亮太は野田へ聞くというより、自分で確かめるように、もう一度言った。
「また、花火の仕事ができるんだな」
「……仕事って言っていいか、分からないけど」
「うん。分かってる」
亮太は背もたれから身体を起こした。
「俺が勝手に返事はできない。花火だって、爺ちゃんのもんだ」
野田は頷いた。
「でも、話はする。俺から」
亮太はスマホを手元へ引き寄せた。
画面をつけたが、すぐに電話はしなかった。
「帰って、ちゃんと話す」
そう言って、スマホをポケットへ入れた。
野田は残りのコーヒーを飲んだ。
今度は、もう熱くなかった。




