第三十一章 濡らしたくないもの
第三十一章 濡らしたくないもの
「火事」
野田が言った。
直樹はペンを止めた。
「それは駄目でしょ」
「つけるって話じゃなくて。大事なものを出すときって、そういうときだよねって」
「でも、燃えたら困るよ」
実が言った。
「うん。だから、やらない」
野田は両手を上げた。
直樹は紙の上へ、火事、と書き、すぐに線を引いた。
杉浦の屋敷が燃えるところは、想像したくなかった。
あの男が困るのと、誰かが焼けるのは、別の話だった。
「引っ越しは?」
武藤が聞いた。
「あの家から?」
「そういう予定があれば、出しますよね」
「ないと思う。あんなに庭まで作ってるし」
野田が答えた。
久世は紙を見ていた。
「出しておかないと、持っているものが駄目になるとき、でしょうか」
直樹は頷いた。
「金なら、捨てて逃げるより、持っていきたがるよね」
「あの人、支払いも自分で数えるから」
野田は指で、紙を数えるような動きをした。
「親父の作業代まで、目の前で」
直樹はペンを回した。
紙幣。封筒。帳面。
あそこにあると考えているものは、どれも紙だった。
*
実がコップを取り、底に残った麦茶を飲んだ。
「紙、濡れると困るね」
直樹は顔を上げた。
「何?」
「この前、葉っぱに水かけてたら、本に飛んじゃって。乾いても、曲がったままになった」
「本、植物のそばに置いてるの?」
「植物の本だから。見ながら、葉っぱを確かめてた」
実は少し申し訳なさそうに言った。
「下へ置いたの、忘れてた」
直樹は自分の棚を見た。
本の山の横へ、飲み物を置かないよう何度も言っていた。
「水か」
ペンの先を紙へ戻した。
火事、の下に、水、と書いた。
野田が文字を見た。
「蔵の中が濡れたら、金は出したいだろうね」
「帳簿とかも、紙なら」
武藤が言った。
「あるか分からないけど」
「うん」
直樹は頷いた。
「中身は分からなくても、大事だから置いてるんだもんね」
久世は畳んでいた資料を、鞄へ戻すのをやめた。
*
「でも、あれ、金庫じゃないの?」
武藤が聞いた。
野田は首を傾げた。
「蔵だって、松岡さんは言ってた」
「金をしまってるなら、金庫はあるんじゃないですか」
「中は見てないからなあ」
野田は畳の目を見た。
「外から見た形と、中の部屋が同じとは限らないし」
直樹はペンを置いた。
「結局、そこか」
「うん。何があるかも、どうなってるかも、まだ分からない」
野田は答えた。
武藤が自分の鞄を寄せた。
「本物の金庫だったら、水かけたくらいで慌てないかもしれないですね」
「そういう造りなら」
久世が言った。
「それに、濡れてると本人が気付かないと、何もしないです」
直樹は紙を見た。
水、の横へ、どう気付く、と足した。
思いついた途端に、次の分からないことが出てきた。
野田が腕を組んだ。
「杉浦さん、蔵から戻ってくると、スマホ見てたんだよね」
「二回とも?」
直樹が聞いた。
「最初に行った日は見てた。土曜も、最後の方は。何見てるかは知らないけど」
「それは、メールとかかもしれないね」
武藤が言った。
「うん。だから、関係あるか分からない」
野田は答えた。
直樹は、どう気付く、の下に、スマホ、と書きかけた。
やめて、紙の端へ書いた。
まだ、線で繋ぐことはできなかった。
*
「ところで、何で水?」
野田が直樹を見た。
「いや、今、大山さんが」
「水があれば、蔵に入れられるってことにはならないでしょ」
「分かってるよ」
直樹は少し強く答えた。
それから、ペンを机へ置いた。
「……まだ、考えてるだけ」
野田が頷いた。
「うん。それなら」
実は二人を見ていた。
「鯉は、大丈夫?」
四人が実を見た。
「池、あるから。何かするなら、魚、困らないように」
野田は膝へ手を置いた。
「そこは、困らせちゃ駄目だね」
「庭の人も、困るよ」
実が続けた。
直樹は紙の余白へ、鯉、と書いた。
その横へ、庭、と足す。
野田が覗き込んだ。
「何そのメモ」
「忘れないように」
直樹が答えると、武藤は一度紙を見てから、鞄の中のノートへ目を落とした。
*
時計を見ると、そろそろ帰る時刻だった。
久世がコップを持って立ち上がり、実も残りを集めた。
野田は上着を取り、武藤が机の端から自分の雑誌を抜いた。
「今日、決まったの、水だけ?」
野田が聞いた。
「水も、まだ決まってないよ」
直樹は紙を見た。
火事には線が引いてある。
水の横には疑問があり、端にはスマホと鯉と庭がある。
とても作戦には見えなかった。
「入るんじゃなくて、本人に出してもらう。それはいいと思います」
久世が言った。
「できるかどうかは、別ですけど」
「うん。そこを考えよう」
直樹は紙を畳んだ。
野田が靴を履きながら、こちらを見た。
「三浦さん、また何か読むんでしょ」
「読むよ」
「今度は、土以外も書いてあるやつね」
武藤が笑った。
直樹は鞄から、例の文庫本を少しだけ引き出した。
「この先、水が出るんだよ」
「まだそれ?」
野田が言った。
「途中までしか、確かめてないから」
直樹が答えたときには、三人はもう廊下へ出ていた。
実だけが靴を履き終え、顔を上げた。
「じゃあ、続き、明日教えてね」
直樹は本を持ったまま頷いた。
「うん」
扉が閉まった。
本を開く前に、直樹は机の上のコップの跡を拭いた。




