第二十八章 池の音
第二十八章 池の音
木曜日、野田は昼休みの終わり際に父親からのメッセージを読んだ。
食べ終えた弁当を包み、その画面をもう一度見た。
「どうしたの」
直樹が聞くと、野田は顔を上げた。
「土曜、家の仕事」
「忙しいね」
「池の機械、音がおかしいんだって」
「池?」
野田は少し声を落とした。
「杉浦さんち」
直樹は箸を置いた。
武藤も顔を上げた。
「松岡さんが、親父に話したらしい。庭やってるとき、気になってたって」
「修理?」
「まずは見に行く。池の設備は専門の業者がいるから、うちで直せるかは別だけど」
野田はスマホを鞄へ入れた。
久世がテーブルの端を見た。
「三浦さん」
直樹は一度周りを見てから、弁当の蓋を閉じた。
続きを聞くには、休憩がもう終わるところだった。
*
その晩、直樹の部屋で同じ話になった。
「野田さんも行くの?」
「親父に聞いたら、来るなら手伝えって」
「行くんだ」
「そりゃ、見るでしょ」
野田は、机の上の本を少し寄せた。
「池のやつ、古い機械も残ってるらしいから」
直樹は頷いた。
言いたいことがいくつもあった。
あの蔵がどこにあるか。
誰が家へ来るか。
杉浦がどんな様子か。
「……仕事の邪魔は、しない方がいいね」
口に出したのは、それだった。
野田は直樹を見た。
「うん。親父の仕事だから」
「俺も行きたいって言ったら、駄目だよね」
「何のために?」
「手伝い」
「何を?」
直樹は黙った。
野田が少し笑った。
「親父に説明できないでしょ」
「うん」
武藤は袋からノートを出しかけ、手を止めた。
実が野田を見ていた。
「重いもの運ぶなら、僕、手伝えるよ」
「今度は、見てもらってからじゃないと分からない。動かすのか、そのまま直すのかも」
「そっか」
実は頷いた。
野田は父親から送られた写真を開いた。
直樹が覗くと、古い機械と配管が写っていた。
野田の指は、ほかの写真へ移らなかった。
*
土曜日の朝、野田は父親の運転する車に乗った。
「先に言っとくけど、勝手に触るなよ」
父親が言った。
「分かってる」
「客先だからな」
「分かってるって」
車は川沿いの道を進んだ。
父親は運転しながら、これまで電話で聞いた症状を説明した。
いつから音が変わったのか。
止まったことはあるのか。
野田は途中で二度、聞き返した。
杉浦の家へ近づく頃には、門よりも、写真にあった機械の置き方の方が気になっていた。
*
門は、車が止まるとほどなく開いた。
中で松岡が待っていた。
「悪いな、休みに」
「仕事なら、ありがたいですよ」
父親が答えた。
野田は工具の箱を持って降りた。
通りから見たときより、庭は広かった。
池の縁に立つと、何匹もの鯉が向きを変えた。
「先に、こっち」
松岡が言った。
父親のあとを、野田もついていった。
低い覆いの向こうで、機械が動いていた。
野田はしゃがんだ。
写真では分からなかった音がした。
父親もしゃがみ、少し顔を傾けた。
「確かに、これ、変わってますね」
野田は頷いた。
指を伸ばしかけると、父親が先にこちらを見た。
野田は工具箱へ手を戻した。
父親が機械の表示を確かめ、手帳に書きつけ始めた。
野田は頼まれた工具を渡してから、少し脇へ寄った。松岡が、靴先についた草を払っていた。
池の向こうにも芝生が続いていた。奥の木々は、門の外から見上げたときより、ずっと一本一本が大きかった。
「これ、水撒くだけでも大変そう」
野田が言うと、松岡は庭へ目をやった。
「夏場は特にな」
「ジョウロでやったら、何時間かかるんだろ」
松岡が笑った。
「ジョウロでやるかいな。撒き終わる前に、最初のところが乾くぞ」
「だよね」
「あちこちにスプリンクラーがあるんだよ。手で撒くところはホース。水道だって一箇所じゃない」
松岡は植え込みの方を指した。
野田は目を凝らした。葉の陰に、低い水栓柱が見えた。さっき通ってきたときには気づかなかった。
「こんなところにもあるんだ」
「遠くから引っ張って歩いてたら、それだけでひと仕事だからな」
野田は頷いた。
「池の水とは別?」
「別だよ。庭には庭の水道。こっちは鯉のための設備だ」
松岡が機械の方へ目を戻した。
野田もそちらを見た。父親が手帳を閉じ、工具箱の前を軽く叩いた。
「航平、こっち」
「うん」
野田はしゃがみ直した。
*
杉浦が出てきたのは、しばらくしてからだった。
「どうだ」
父親が立って、分かった範囲を説明した。
この場で確かめられることと、設備の業者へ見てもらった方がいいことを、分けて話す。
杉浦は途中で時計を見た。
「止めたままにはできんぞ」
「ええ。今日は状態を見て、必要な段取りを相談させてください」
杉浦は池を見た。
「あれ、一匹で車が買えるんだ」
白い鯉が、二人の足元を通った。
松岡が軽く頷いた。
野田は、実に言ったら驚くだろうなと思った。
杉浦の目が、初めて野田へ向いた。
「息子か」
「三男です。今日は手伝いで」
父親が答えた。
「そうか」
杉浦はそれだけ言って、また池を見た。
野田は頭を下げた。
先日、門の前にいた五人のうちの一人だとは、思っていないようだった。
*
道具を片付ける頃、玄関の方で車の音がした。
杉浦が顔を向けた。
松岡が少し端へ寄る。
スーツ姿の男が入ってきた。
野田は顔を知っていた。
交流会の冊子に載っていた、工事会社の社長だった。
「お待たせしました」
男が言った。
手には鞄があった。
「まだ少し待て」
杉浦は答え、父親へ向き直った。
「今日の分は?」
「確認した作業をまとめて、請求書をお送りします」
「今、分かるだろ」
父親は一度工具箱へ目を落とし、金額を答えた。
杉浦は頷き、池の向こうへ歩き出した。
社長はついていかず、庭の入口で待った。
野田は工具を箱へ収めた。
視界の端で、杉浦が白い建物へ入っていくのが見えた。
*
「あそこ、事務所なんですか」
野田は松岡へ小さく聞いた。
「蔵だって、この間言ったろ」
「中も?」
「知らんよ。俺は入らないから」
野田は頷いた。
松岡は工具箱から出ていた布を畳み、上へ載せた。
「あそこは、自分でやりたい人なんだよ」
そのとき、杉浦が戻ってきた。
手に、封筒を持っていた。
父親へ近づくと、その場で中身を出し、数えた。
支払いは、松岡が話していた通りだった。
父親は受け取った金を確かめ、領収書を書いた。
杉浦は待っている間、スマホを見ていた。
野田には画面は見えなかった。
「では、ご連絡します」
父親が言った。
杉浦は頷き、領収書を封筒へ入れた。
待っていた社長へ顎を動かす。
二人は家の中へ入っていった。
*
帰りの車で、父親が言った。
「ちゃんと、領収書の控え入ってるか」
野田は膝の上の袋を確かめた。
「入ってる」
「なら、いい」
車が川沿いの道へ出た。
野田は窓の外を見ていたが、やがてスマホを取り出した。
五人の「連絡用」を開く。
『終わった』
直樹から、すぐに返事が来た。
『お疲れ。機械、どうだった?』
野田は短く説明を書いた。
そのあとで、もう一文足した。
『あの工事の社長、来たよ』
送ると、直樹が何か打ち始めた。
野田は先に続けた。
『中の話は聞いてない。仕事してたから』
しばらくして、返事が来た。
『うん。あとで聞かせて』
野田はスマホをしまった。
膝の工具箱が、曲がり角で少し動いた。
片手で押さえ、蓋の留め具を確かめた。




