第二章 なも知らぬ、馬鹿たち
第二章 名も知らぬ、馬鹿たち
終業まで、あと四十分。
直樹が壁の時計を見ると、その下で若い男が叱られていた。
「だから、勝手に触るなって言ってるだろ」
「触ってないです」
「今、手を伸ばしたろうが」
「音が変だったんで」
野田、と呼ばれていた男だった。
製品を送り出す機械の横で、作業台に両手を置いている。もう伸ばしません、というつもりらしかった。
「変なら呼べ。お前はこっち」
「はい」
男は頷いて、容器を袋へ入れた。
三つほど入れたところで、また機械を見た。
その隣の従業員が肩を揺らす。
「機械と結婚すればいいのにな」
「向こうにも選ぶ権利があるだろ」
笑い声がした。
直樹は、そこまで好きなら機械を扱う仕事をすればいいのに、と思った。もちろん、自分の仕事の選び方については、そのときは考えなかった。
袋の口を閉じ、箱へ収める。
時計をもう一度見る。
まだ二分しか経っていなかった。
*
翌朝、更衣室で迷彩柄の袋が開いていた。
持ち主は、袋から雑誌を取り出したところだった。身体は鍛えているらしく、作業着の肩が張っている。ただ、背中を丸めているので、大きくは見えない。
「お前、また買ったの」
隣のロッカーを使う男が、雑誌の表紙を覗いた。
「今月号です」
「毎月買って、上手くなった?」
「……いや」
「この前は何分だった?」
持ち主は雑誌を袋へ戻した。
「二分くらい」
「二分!」
男は笑った。
「準備してる時間の方が長いだろ、それ」
「まあ、そうですね」
「撃つ前に終わっちゃった?」
「撃ちました」
「当たった?」
返事はなかった。
男は、それを返事として受け取ったらしい。笑いながら更衣室を出ていった。
直樹は靴を履き替えながら、袋を見た。
雑誌の表紙には、黒い筒のようなものが写っていた。
見覚えがある。
最近読んだ小説で、似たものが出てきた気がした。名前を思い出しかけたところで、始業を知らせる音が鳴った。
迷彩柄の袋が、ロッカーに押し込まれた。
*
午前の作業中、納品書と箱の数が合わなくなった。
出荷前の台車を前に、班長が紙をめくっている。
「こっちは全部あるな。じゃあ、こっちか」
そばにいた従業員が、箱を指で数え始めた。
その後ろで、細身の男が何か言いかけた。
「あの」
「ちょっと待って。今、数えてる」
男は口を閉じた。
班長が別の紙を持ち上げる。
「昨日の分と混ざってないか?」
「それは、ないと思いますけど」
「思うじゃなくて確認して」
細身の男が、また唇を動かした。
直樹には声が聞こえなかった。
男の指は、班長の持っている紙の端を向いていた。けれど班長がこちらを向くと、その手は引っ込んだ。
結局、台車を一台ずつ調べ直すことになった。
しばらくして、同じ伝票が二枚あると分かった。
「なんだよ、これか」
班長が一枚を抜き取った。
細身の男は俯いていた。
「久世、お前、さっき何か言ってなかった?」
「……いえ」
「気付いてたなら言えよ」
「すみません」
「聞こえる声でな」
男は小さく頷いた。
直樹は、言えばいいのに、と思った。
分かっていることを口に出すだけだ。
聞こえなかったら、もう一度言えばいい。
それより今は、さっきの黒い筒の名前が思い出せない方が、直樹には気になっていた。
*
昼休みの終わり際、大きな男が食堂へ入ってきた。
昨日、箱の山の前にいた男だった。
弁当を温め、端の席に座る。椅子を引くときだけ、妙に慎重だった。座ってからも膝がテーブルの脚に当たり、一度座り直した。
「大山、今から飯?」
通りかかった従業員が聞いた。
「うん」
「遅くない?」
「先に箱、終わらせようと思って」
「あれ、あっちの担当だろ」
「用事あるんだって」
「またかよ」
従業員は呆れた顔で笑った。
「あいつの用事、煙草だぞ」
「うん。僕、吸わないから」
「いや、だからさ」
そこへ別の男が顔を出した。
「大山さん、悪いんだけど、午後の片付けも頼める? 今日、ちょっと早く帰りたくて」
「いいよ」
「助かる。よろしく」
相手は返事を聞くと、すぐに行ってしまった。
最初に話しかけた従業員が、その背中を指した。
「ほら、それ。断れよ、たまには」
「でも、僕はいつもの時間までいるし」
「そういう話じゃないんだって」
直樹は空の弁当箱を片付けながら、やり取りを聞いていた。
あんな大きな身体をしているのに、嫌だと言うだけのことができないらしい。
小説なら、このあと我慢が限界になって暴れるか、実は何か考えがあるか、どちらかだ。
大きな男は、弁当の蓋を開けた。
飯の上に乗った海苔が、蓋の裏に貼り付いていた。
男は箸でそっと剥がし、元の場所へ戻した。
それから、いただきます、と言った。
*
家に帰ると、直樹は電気をつけるより先に、鞄から本を出した。
黒い筒が出てきたのは、この本ではなかった。
床の上の三冊を順番に開く。
二冊目だった。
暗視スコープ。
「そう、それ」
声に出すと、ようやく落ち着いた。
栞の挟まったページより、かなり前へ戻る。
明かりのない山荘で、犯人が被害者の動きを見ている場面だった。初めて読んだときは、その人物が犯人とは分からない。暗闇の描写だと思って読み進め、最後になって意味が分かる。
だが、読み返すと気になることがあった。
本当に、何も明かりがなくても見えるのだろうか。
窓には厚い雨戸。廊下の明かりも消えている。本文には、目を開けていても閉じていても同じだ、と書いてある。
直樹はスマホを手に取った。
検索すると、似たような形のものがいくつも出てきた。
値段も、説明も違う。
光を増幅するもの。
赤外線を使うもの。
熱を見るもの。
どれも暗い場所で使えるらしいが、何がどう違うのか、読んでいるうちに分からなくなった。
迷彩柄の袋を思い出した。
あの雑誌を読んでいた男なら、知っているかもしれない。
直樹は本を鞄に入れた。
明日、聞けばいい。
それで済んだので、スマホを置いて別の小説を開いた。
夕飯をまだ食べていないことには、腹が鳴ってから気が付いた。




