第一章 町の恩人
第一章 町の恩人
「この町には、まだまだ可能性があります」
杉浦隆造は、そこで少し間を置いた。
カメラの向こうで誰が見ているのか、よく分かっているような間だった。
「若い人が働ける場所を作る。安心して家庭を持ち、子どもを育てられる町にする。それが、地元で商売をさせてもらってきた私の役目だと思っています」
紺色のスーツに、淡い色のネクタイ。五十六歳という年齢よりも髪は黒く、額には薄く汗が浮いていた。
背後には、広い更地が映っている。
白い仮囲いに掲げられた完成予想図では、ガラス張りの建物の前を、買い物袋を持った親子が歩いていた。木々はどれも同じくらいに育ち、空には雲が二つしかなかった。
「こちらの再開発事業には、雇用の面でも期待が集まっていますね」
マイクを向けたアナウンサーが言った。
「ええ。建物だけ作っても、人がいなければ意味がありませんから」
杉浦は大きく頷いた。
「町の皆さんと一緒に進めていきたいですね」
画面が切り替わり、杉浦が商店街の人々と握手する映像が流れた。次は、町内の催しで子どもたちに菓子の袋を渡している姿。その次は、福祉施設への寄付金贈呈式だった。
『地元の土地開発を手がけ、地域の雇用を支えてきた杉浦さん。町の新たなにぎわいづくりにも、力を注いでいます』
明るい声が、映像に重なった。
*
その更地を、以前の名前で呼ぶ人は、まだ多かった。
古い工場の跡。
工場が閉じてからも、錆びた門と背の高い煙突が何年も残っていた。煙突が取り壊された日には、近くの店で「ようやくか」と言う者もいれば、「なくなると寂しいね」と言う者もいた。
今は門もない。
代わりに白い囲いができ、作業予定を記した看板が立っていた。
昼間、そこを通る人が見るのは、土を運ぶ車と、黄色い重機と、誘導棒を持った作業員だった。
夜に通る車のことは、近くに住んでいなければ分からなかった。
向かいの家で暮らす老人は、寝床の中で低い音を聞くたびに、枕元の時計を見るようになった。
昨夜は十一時を過ぎていた。
その前は、もう少し早かった気がする。
カーテンを開けると、仮囲いの角を曲がっていく車の後ろ姿だけが見えた。
翌朝、顔を合わせた近所の者に話すと、相手は道路の方を見た。
「昼間は道が混むからじゃないの」
「そういうものかね」
「大きい工事だもの」
そう言われれば、そんな気もした。
工事の都合など、二人とも知らない。
少し離れた通りでは、長く空き家になっていた家が三軒、続けて取り壊された。
角の一軒には、春先まで人が住んでいたはずだった。
何十年も同じ場所で花を売っている店主が、配達に来た若者へ尋ねた。
「あそこのおばあちゃん、引っ越したんだね」
「ああ、息子さんのところじゃないですか。詳しくは知らないですけど」
「そう。なら、よかった」
店主は包み紙を折り、花束の根元に輪ゴムをかけた。
誰かが、どこかへ引っ越した。
工場の跡で、工事が始まった。
夜にも、車が通る。
どれも、それだけなら珍しいことではなかった。
*
食堂のテレビで、杉浦隆造が笑っていた。
昼のニュースの、地元の話題を伝える短いコーナーだった。
テレビの下には、誰かが持ち込んだ古いカレンダーが掛かっている。日付よりも大きな字で、仕出し弁当の注文締め切り時間が書き込まれていた。
三浦直樹は、口の中の卵焼きを飲み込んだ。
「こういう人、最初に出てくるんですよ」
向かいの席の男が、箸を止めずに「何が」と返した。
「小説です。町の有力者で、最初はものすごくいい人そうに出てくるんですけど」
「ふうん」
「俺がこの前読んだやつにも、いましたよ。寄付とかしてて、みんなから先生って呼ばれてる人が」
男はテレビを見た。
直樹も見た。
『町の将来について、頼もしいお話を伺うことができました』
アナウンサーが言っていた。
「そいつが犯人だったんです」
直樹が言うと、男はようやく顔を上げた。
「……それ、俺が貸したやつ?」
「そうです。あの人、途中で一回死ぬじゃないですか。でも、あれは」
「待て待て待て」
男が箸を持ったまま、もう片方の手を上げた。
「俺、まだ読んでないんだけど」
「え?」
「二冊買っちゃったから、先に一冊貸すって言っただろ」
そうだった。
直樹は思い出した。
新刊を予約したあと、予約したことを忘れて書店でも買ってしまった。そんな話を聞いて、読みたいと言ったのだった。
「いや、でも犯人が分かってから読むのも、面白いですよ。伏線がどこにあるか分かるんで」
「そういうことじゃないんだよなあ」
男は笑った。
直樹も、つられて笑った。
「特に、奥さんとの会話ですね。あそこ、最初に読むと普通なんですけど、実は」
「もういい。もういいから」
男は弁当の蓋を閉じ、立ち上がった。
まだ昼休みは十分以上残っていた。
直樹は男の背中を見送り、自分の弁当へ目を戻した。
怒ったのだろうか。
笑っていたのに。
テレビでは、もう天気予報が始まっていた。
*
午後の作業が始まると、食堂から持ち込まれた声は、機械の音に押し流された。
直樹の前を、透明な容器が流れてくる。
縁の欠け、ひび、混ざり物。
見て、分けて、揃える。
同じ形のものを同じ数だけ重ねると、今度は袋へ入れる。
直樹は手を動かした。
さっきの小説では、犯人の妻が三度も同じことを言っていた。
私は、あの人のことなら何でも知っています。
最初の一度は、夫婦仲のよさを示しているように読める。
二度目には少し不穏になる。
三度目で、その意味が変わる。
うまい、と思った。
だからこそ、その話をしたかった。
「三浦、それ一枚多い」
横から言われ、直樹は手元を見た。
重ねた容器の端が、わずかに高かった。
「あ、すみません」
一枚抜く。
「また本のこと考えてただろ」
「いや、数は数えてたんですけど」
「数えてないから多いんだろうが」
近くで、誰かが短く笑った。
直樹はもう一度、容器の数を確かめた。
向こうの作業台では、大きな男が二人分あるような箱の山を前にしていた。隣にいたはずの従業員は、いつの間にか別の場所へ行っている。
大きな男は何も言わず、箱を組み立てていた。
少し離れた機械の前で、若い男が首を傾けた。
「野田。見るのはそっちじゃない、こっち」
「あ、はい」
若い男が目を戻す。
直樹も手元へ視線を戻した。
今度は間違えず、容器を揃える。
窓の外を、大きなトラックが一台通った。
音は工場の中まで届かなかった。




