第1話 直属の課長が、昨夜私に甘えていた旦那でした
新入社員として配属された先で待っていたのは――昨夜まで家で甘えていた、私の夫でした。
会社では冷静沈着な「黒沢課長」。
家では私にだけ甘える「誠司さん」。
しかも、私たちが夫婦だということは社内では秘密です。
会社では上司と部下。
家では夫と妻。
そんな二人の、ちょっと危険で甘い新婚オフィスラブが始まります。
第1話、お楽しみください。
新入社員として初めて配属された営業企画部で、私は直属の上司を見て固まった。
「高瀬さん。今日からよろしくお願いします」
黒いスーツを隙なく着こなした、営業企画部課長・黒沢誠司。
社内では冷静沈着。
仕事に厳しく、無駄がなく、若くして課長になった有能な人。
そしてその人は、昨夜、私の膝に頭を乗せて、
『小春、明日から会社だな』
『そうですね』
『……会社では、ちゃんと課長として接する』
『お願いします』
『でも、家に帰ったら甘えてもいいか』
『それ、今聞きます?』
と真顔で言っていた、私の旦那だった。
いやいやいや。
切り替えがすごい。
夫、朝から課長の皮をかぶりすぎである。
「高瀬さん?」
「あ、はい。よろしくお願いいたします、黒沢課長」
黒沢課長。
言い慣れない。
ものすごく言い慣れない。
家では「誠司さん」と呼んでいる。
時々、ちょっと拗ねた時は「あなた」と呼ぶ。
でも今日から会社では「黒沢課長」。
社会人って、敬語だけじゃなくて、夫の呼び方まで試されるんですね。
「今日から営業企画部に配属だ。最初は覚えることが多いと思うが、焦らず一つずつ覚えていけばいい」
「はい」
「分からないことは、分からないままにしないこと。初日だからこそ、確認する癖をつけてください」
「承知しました」
言葉は完全に上司だった。
声も、表情も、立ち姿も、全部が課長だった。
でも私は知っている。
この人は昨日、プリンのふたが開かなくて私に差し出してきた。
そして私が開けたら、少し悔しそうに「小春は頼りになるな」と言った。
同一人物です。
信じられませんが、私の夫です。
「高瀬さん、こっち」
明るい声で呼ばれて振り向くと、優しそうな女性社員が手を振っていた。
「私は三浦真帆。しばらく教育担当になるから、分からないことがあったら聞いてね」
「はい。よろしくお願いします」
「緊張してる?」
「すごくしています」
「大丈夫。黒沢課長は仕事には厳しいけど、理不尽なことは言わないから」
「はい」
知っています。
家でも理不尽なことは言いません。
ただし靴下は脱ぎっぱなしにします。
私は心の中だけで頷いた。
営業企画部のフロアは、思っていたより明るかった。
電話の音。
キーボードを叩く音。
資料をめくる音。
忙しいけれど、殺伐とはしていない。
「今日から配属になった高瀬小春さんです」
真帆さんが紹介してくれると、部内の人たちが顔を上げた。
「よろしくお願いします!」
私は深く頭を下げた。
その時、視界の端に黒沢課長が映った。
腕を組み、冷静な顔でこちらを見ている。
やめて。
そんな顔で見ないで。
昨日、寝る前に「明日のネクタイ、どれがいい」と聞いてきた人とは思えない。
こっちは新入社員として必死に顔を作っているんです。
妻の記憶を刺激しないでください。
「隣の席は瀬川くんね」
真帆さんに案内された席の隣で、男性社員が立ち上がった。
「瀬川亮です。よろしく」
「高瀬小春です。よろしくお願いします」
「俺もまだ二年目だから、分からないことがあったら気軽に聞いて」
「ありがとうございます」
瀬川さんは爽やかで話しやすそうな人だった。
笑顔も柔らかい。
その瞬間、課長席の方から紙をめくる音がした。
見なくても分かる。
夫が聞いている。
課長の顔をした夫が、隣席の男性社員の存在を確認している。
まだ何も始まっていません。
夫、落ち着いて。
午前中は会社のシステム説明と部署の流れを覚えるだけで終わった。
午後は会議資料の印刷とファイリング。
単純な仕事に見えて、意外と気を遣う。
ページの順番。
部数。
配布先。
クリップの位置。
たったそれだけで、私の心臓は全力疾走していた。
「高瀬さん、ここは部長用だけ別紙を一枚追加ね」
「はい。部長用だけ別紙一枚追加、ですね」
「そうそう。ちゃんと声に出して確認できるの、いいね」
「ありがとうございます」
真帆さんが褒めてくれた。
嬉しい。
新人の私は、こういう小さな言葉で生きています。
そんな時だった。
「高瀬さん」
背後から低い声がした。
「はいっ」
私は反射的に背筋を伸ばした。
黒沢課長が立っていた。
「急がなくていい。丁寧に確認してください」
「はい」
「初日は、早さよりも正確さです」
「承知しました」
言っていることは完全に正しい。
上司として、すごくありがたい。
でも、私には分かってしまう。
その声の奥に、
『小春、焦らなくていい』
という夫の心配が混ざっている。
やめて。
職場で妻だけに届く周波数を出さないで。
「黒沢課長、意外と新人に優しいよね」
真帆さんが小声で言った。
「そうなんですか?」
「仕事に厳しいから、もっと怖いと思ってた」
「あ、はい。ちゃんと見てくださる方だと思います」
妻として知っています、とは言えない。
言ったら終わる。
夕方になる頃には、足も肩も限界だった。
でも、不思議と楽しかった。
自分が会社の一員になった気がした。
「高瀬さん」
帰り支度をしていると、黒沢課長に呼ばれた。
「はい」
「初日、お疲れさま。明日からもよろしく」
「はい。ありがとうございました」
私は丁寧に頭を下げた。
会社では、新入社員と課長。
その距離を守る。
そう決めていた。
その時、廊下の奥から、ゆっくりと歩いてくる人がいた。
桐谷宗一郎社長。
穏やかな笑みを浮かべているけれど、目の奥は鋭い。
五十代半ば。
会社を大きくしてきた人らしい存在感がある。
そして、私の母方の叔父である。
そう。
私の秘密は一つではない。
課長は夫。
社長は叔父。
私は新入社員。
人間関係の相関図だけで、新人研修の単位が取れると思う。
「お疲れさま、黒沢くん」
「お疲れさまです、社長」
「高瀬さんも、初日お疲れさま」
「ありがとうございます、社長」
私はきちんと頭を下げた。
社長はにこにこしている。
でも、私には分かる。
この人、完全に面白がっている。
「黒沢くん」
「はい」
「奥さんを見る目が甘いよ」
「……社長」
私は一瞬、息が止まった。
ここ、会社。
廊下。
人、いるかもしれない。
社長、爆弾を笑顔で落とさないでください。
「ご冗談を」
黒沢課長は、かろうじて課長の顔を保った。
「そういうことにしておこう」
社長は楽しそうに笑った。
「高瀬さんも、会社ではちゃんと新人の顔をしているね」
「社長」
「はいはい。叔父さんは黙ります」
「社長です」
「そうだった」
この叔父、絶対に黙る気がない。
黒沢課長は静かにため息をついた。
「社長、からかわないでください」
「からかってないよ。心配しているだけだ。うちの大事な新人と、大事な課長だからね」
声は軽かった。
でも、目は優しかった。
会社で私たちの秘密を知っているのは、社長だけ。
私が黒沢課長の妻であること。
私が社長の姪であること。
どちらも、まだ誰にも知られてはいけない。
私は、ちゃんと新入社員として働きたい。
誰かの妻だからでも、社長の姪だからでもなく、自分の力で認められたい。
「明日からも頑張ります」
私がそう言うと、社長は満足そうに頷いた。
「うん。その意気だ」
そして去り際に、黒沢課長へ小さく言った。
「でも黒沢くん、本当に目が甘かったよ」
「……気をつけます」
初日からこれ。
私の社会人生活は、普通には始まらなかった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
会社では完璧な黒沢課長。
でも家では、プリンのふたを開けてもらったり、妻に甘えたりする旦那様です。
そして小春には、もう一つの秘密がありました。
課長は夫。
社長は叔父。
そして自分は、何も知らない顔をして働く新入社員。
ただ、小春が望んでいるのは「課長の妻」や「社長の姪」としてではなく、自分自身の力で認めてもらうこと。
そんな小春を見守る誠司ですが――どうやら会社でも、妻を見る目の甘さまでは完全には隠せていないようです。
次話「社長だけが知っている、二つの秘密」。
さらに危うくなっていく秘密の会社生活を、引き続きお楽しみいただけましたら嬉しいです。




