表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/10

第8話「帰れないお客様」


朝。


雨が降っていた。


無常ちゃんが窓を見る。


「今日は濡れそうですね」


雨が止んだ。


「……」


空だけではない。


雲まで消えた。


青空。


乾いた道路。


軒先から落ちていた雫も、途中で消える。


無常ちゃんは扉を開けた。


外へ出る。


足元に水たまりはない。


振り返る。


ぱんでむの入口に貼られた営業時間。


その下。


小さな文字が増えていた。


適合対象:世界


昨日、レジに現れたものと同じだった。


無常ちゃんは少し見て、


出勤した。


もう出勤しているはずなのだが、


今日はそういうことになっていた。


---


昼。


世界は、よく働いた。


客が店へ向かえば信号が青になる。


満席になりそうになると、


来る予定だった客の電車が少し遅れる。


ポテトが切れそうになると、


補充用の箱が厨房の棚から見つかる。


誰も注文していない。


誰も頼んでいない。


けれど、


必要になる少し前に、


必要なものが揃う。


「便利ですね」


無常ちゃんが言う。


窓の外で、


ちょうど赤信号が青に変わった。


まだ車は一台も来ていなかった。


無常ちゃんは、


それ以上何も言わなかった。


---


午後。


あの女性客が来た。


「こんにちは」


「こんにちは」


最近は、


その挨拶にも慣れた。


女性はメニューを見る。


「今日、チキンタツタないんだ」


売り切れ表示。


無常ちゃんは見る。


「申し訳ありません」


「いいよ。今日は別のにする」


女性がフィレオフィッシュを指した。


その瞬間。


売り切れ表示が消えた。


チキンタツタ。


販売中


無常ちゃんが黙る。


女性も気づいた。


「あれ?」


「今、戻りました」


「タイミングいいね」


女性は笑った。


「じゃあ、チキンタツタにしようかな」


無常ちゃんの手が止まった。


「……」


「どうしたの?」


「いえ」


注文を入力する。


チキンタツタ。


レジは正常。


何も表示されない。


女性はいつもの席へ行った。


例の、


少しガタつく椅子。


今日は、


ガタつかなかった。


---


夕方。


「美味しかった」


女性が包み紙を畳む。


「ありがとうございます」


「今日は帰るね」


「はい」


女性が立つ。


「また来るよ」


無常ちゃんは少し笑った。


「お待ちしています」


カラン。


扉が閉まる。


十秒後。


カラン。


扉が開いた。


女性が入ってきた。


「……あれ?」


無常ちゃんは顔を上げる。


「どうしました?」


「いや」


女性は後ろを見る。


「出口、こっちだよね?」


「はい」


「私、出たよね?」


「出ました」


女性は首を傾げ、


もう一度外へ出る。


カラン。


閉まる。


五秒。


カラン。


「……」


女性が戻ってきた。


今度は笑っていない。


「何これ」


無常ちゃんは入口へ向かった。


外を見る。


普通の道路。


普通の空。


普通の街。


女性も覗く。


「ちょっと一緒に来て」


二人で外へ出た。


十歩。


二十歩。


角を曲がる。


ぱんでむがあった。


女性が止まる。


「……今、後ろにあったよね?」


無常ちゃんも止まった。


看板。


窓。


入口。


間違いなくぱんでむ。


振り返る。


そこにも、


ぱんでむ。


同じ店が二軒ある。


次の瞬間。


後ろの店が消えた。


前だけが残る。


女性が道を変えた。


右。


ぱんでむ。


左。


ぱんでむ。


横断歩道を渡る。


ぱんでむ。


細い路地へ入る。


その先も、


ぱんでむ。


「私」


女性が言った。


「帰れないんだけど」


無常ちゃんは、


答えなかった。


---


店へ戻る。


レジを見る。


画面は消えている。


電源を入れる。


何も起きない。


無常ちゃんは尋ねた。


「なぜ帰れないのですか?」


無反応。


「彼女は帰りたいと言っています」


沈黙。


「合わせてください」


画面が点灯した。


一行。


適合済みです。


無常ちゃんの表情が止まる。


「誰に?」


画面。


対象:世界


「それは知っています」


もう一行。


参照:無常


女性が画面を見る。


無常ちゃんも見る。


「……私?」


返事。


はい。


その瞬間。


無常ちゃんは、


女性が帰ると言ったときのことを思い出した。


また来るよ。


お待ちしています。


その前に。


ほんの少しだけ。


もう少しいればいいのに。


そう思った。


言っていない。


顔にも出していない。


たぶん。


でも。


世界には十分だった。


---


女性は怒らなかった。


ただ、


少し困った顔をした。


「無常ちゃん」


「はい」


「私に帰ってほしくない?」


無常ちゃんはすぐには答えなかった。


以前なら、


相手が安心する答えを選べた。


今は。


それをすると、


世界まで合わせる。


「……少し」


女性は笑った。


「そっか」


「ですが」


無常ちゃんは続ける。


「帰ってください」


外で、


何かが割れた。


窓ではない。


音だけ。


道路が一度、


波のように歪む。


店の入口が増える。


二つ。


四つ。


八つ。


すべて、


女性を店へ戻すための扉。


レジ。


矛盾を検出しました。


「矛盾しています」


無常ちゃんが言った。


補正します。


「しないでください」


希望と発話が一致しません。


「一致しなくてもいいです」


扉が十六個になる。


女性が一歩下がる。


無常ちゃんは、


彼女の手を取った。


「こちらです」


一つの扉へ向かう。


開ける。


店内。


別の扉。


店内。


また。


店内。


世界が、


帰らせない。


無常ちゃんは立ち止まった。


女性の手を離す。


それから、


目を閉じた。


「帰ってほしくありません」


世界が静かになる。


レジ。


確認しました。


無常ちゃんは続ける。


「それでも」


一拍。


「帰ってください」


すべての扉が消えた。


一つだけ残った。


女性がそこまで歩く。


開ける。


外。


今度は、


普通の道だった。


女性が振り返る。


「また来ていい?」


無常ちゃんは笑った。


「そのときのあなたが、来たければ」


「うん」


女性は帰った。


道は曲がらなかった。


店も増えなかった。


---


閉店後。


「空白」の部屋。


無常ちゃんが入る。


何もない。


白い床。


白い壁。


中央に、


レジだけが置かれていた。


画面には二つの欄。


希望


選択


希望には、


すでに文字が入っている。


ここにいてほしい


選択は空白。


無常ちゃんは見ていた。


やがて。


誰も触れていないキーが沈む。


一文字ずつ。


帰ってもらう


画面の下に、


新しい表示。


不一致を許可しました。


少し間を置いて、


もう一行。


世界適合方式を更新します。


無常ちゃんは、


その続きを見ていた。


次回参照対象:選択

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ