第8話「帰れないお客様」
朝。
雨が降っていた。
無常ちゃんが窓を見る。
「今日は濡れそうですね」
雨が止んだ。
「……」
空だけではない。
雲まで消えた。
青空。
乾いた道路。
軒先から落ちていた雫も、途中で消える。
無常ちゃんは扉を開けた。
外へ出る。
足元に水たまりはない。
振り返る。
ぱんでむの入口に貼られた営業時間。
その下。
小さな文字が増えていた。
適合対象:世界
昨日、レジに現れたものと同じだった。
無常ちゃんは少し見て、
出勤した。
もう出勤しているはずなのだが、
今日はそういうことになっていた。
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昼。
世界は、よく働いた。
客が店へ向かえば信号が青になる。
満席になりそうになると、
来る予定だった客の電車が少し遅れる。
ポテトが切れそうになると、
補充用の箱が厨房の棚から見つかる。
誰も注文していない。
誰も頼んでいない。
けれど、
必要になる少し前に、
必要なものが揃う。
「便利ですね」
無常ちゃんが言う。
窓の外で、
ちょうど赤信号が青に変わった。
まだ車は一台も来ていなかった。
無常ちゃんは、
それ以上何も言わなかった。
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午後。
あの女性客が来た。
「こんにちは」
「こんにちは」
最近は、
その挨拶にも慣れた。
女性はメニューを見る。
「今日、チキンタツタないんだ」
売り切れ表示。
無常ちゃんは見る。
「申し訳ありません」
「いいよ。今日は別のにする」
女性がフィレオフィッシュを指した。
その瞬間。
売り切れ表示が消えた。
チキンタツタ。
販売中
無常ちゃんが黙る。
女性も気づいた。
「あれ?」
「今、戻りました」
「タイミングいいね」
女性は笑った。
「じゃあ、チキンタツタにしようかな」
無常ちゃんの手が止まった。
「……」
「どうしたの?」
「いえ」
注文を入力する。
チキンタツタ。
レジは正常。
何も表示されない。
女性はいつもの席へ行った。
例の、
少しガタつく椅子。
今日は、
ガタつかなかった。
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夕方。
「美味しかった」
女性が包み紙を畳む。
「ありがとうございます」
「今日は帰るね」
「はい」
女性が立つ。
「また来るよ」
無常ちゃんは少し笑った。
「お待ちしています」
カラン。
扉が閉まる。
十秒後。
カラン。
扉が開いた。
女性が入ってきた。
「……あれ?」
無常ちゃんは顔を上げる。
「どうしました?」
「いや」
女性は後ろを見る。
「出口、こっちだよね?」
「はい」
「私、出たよね?」
「出ました」
女性は首を傾げ、
もう一度外へ出る。
カラン。
閉まる。
五秒。
カラン。
「……」
女性が戻ってきた。
今度は笑っていない。
「何これ」
無常ちゃんは入口へ向かった。
外を見る。
普通の道路。
普通の空。
普通の街。
女性も覗く。
「ちょっと一緒に来て」
二人で外へ出た。
十歩。
二十歩。
角を曲がる。
ぱんでむがあった。
女性が止まる。
「……今、後ろにあったよね?」
無常ちゃんも止まった。
看板。
窓。
入口。
間違いなくぱんでむ。
振り返る。
そこにも、
ぱんでむ。
同じ店が二軒ある。
次の瞬間。
後ろの店が消えた。
前だけが残る。
女性が道を変えた。
右。
ぱんでむ。
左。
ぱんでむ。
横断歩道を渡る。
ぱんでむ。
細い路地へ入る。
その先も、
ぱんでむ。
「私」
女性が言った。
「帰れないんだけど」
無常ちゃんは、
答えなかった。
---
店へ戻る。
レジを見る。
画面は消えている。
電源を入れる。
何も起きない。
無常ちゃんは尋ねた。
「なぜ帰れないのですか?」
無反応。
「彼女は帰りたいと言っています」
沈黙。
「合わせてください」
画面が点灯した。
一行。
適合済みです。
無常ちゃんの表情が止まる。
「誰に?」
画面。
対象:世界
「それは知っています」
もう一行。
参照:無常
女性が画面を見る。
無常ちゃんも見る。
「……私?」
返事。
はい。
その瞬間。
無常ちゃんは、
女性が帰ると言ったときのことを思い出した。
また来るよ。
お待ちしています。
その前に。
ほんの少しだけ。
もう少しいればいいのに。
そう思った。
言っていない。
顔にも出していない。
たぶん。
でも。
世界には十分だった。
---
女性は怒らなかった。
ただ、
少し困った顔をした。
「無常ちゃん」
「はい」
「私に帰ってほしくない?」
無常ちゃんはすぐには答えなかった。
以前なら、
相手が安心する答えを選べた。
今は。
それをすると、
世界まで合わせる。
「……少し」
女性は笑った。
「そっか」
「ですが」
無常ちゃんは続ける。
「帰ってください」
外で、
何かが割れた。
窓ではない。
音だけ。
道路が一度、
波のように歪む。
店の入口が増える。
二つ。
四つ。
八つ。
すべて、
女性を店へ戻すための扉。
レジ。
矛盾を検出しました。
「矛盾しています」
無常ちゃんが言った。
補正します。
「しないでください」
希望と発話が一致しません。
「一致しなくてもいいです」
扉が十六個になる。
女性が一歩下がる。
無常ちゃんは、
彼女の手を取った。
「こちらです」
一つの扉へ向かう。
開ける。
店内。
別の扉。
店内。
また。
店内。
世界が、
帰らせない。
無常ちゃんは立ち止まった。
女性の手を離す。
それから、
目を閉じた。
「帰ってほしくありません」
世界が静かになる。
レジ。
確認しました。
無常ちゃんは続ける。
「それでも」
一拍。
「帰ってください」
すべての扉が消えた。
一つだけ残った。
女性がそこまで歩く。
開ける。
外。
今度は、
普通の道だった。
女性が振り返る。
「また来ていい?」
無常ちゃんは笑った。
「そのときのあなたが、来たければ」
「うん」
女性は帰った。
道は曲がらなかった。
店も増えなかった。
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閉店後。
「空白」の部屋。
無常ちゃんが入る。
何もない。
白い床。
白い壁。
中央に、
レジだけが置かれていた。
画面には二つの欄。
希望
選択
希望には、
すでに文字が入っている。
ここにいてほしい
選択は空白。
無常ちゃんは見ていた。
やがて。
誰も触れていないキーが沈む。
一文字ずつ。
帰ってもらう
画面の下に、
新しい表示。
不一致を許可しました。
少し間を置いて、
もう一行。
世界適合方式を更新します。
無常ちゃんは、
その続きを見ていた。
次回参照対象:選択




