第7話「あなた向けの店」
最初に変わったのは、椅子だった。
昼前。
一人の客が窓際へ向かう。
座る直前。
木製だった椅子が、柔らかなソファに変わった。
客は気づかなかった。
そのまま腰を下ろす。
「……あ、楽」
無常ちゃんだけが見ていた。
次の客。
背の高い男。
テーブルへ近づくと、脚が伸びた。
その次。
小さな子ども。
椅子が低くなり、テーブルの角が丸くなる。
誰も驚かない。
座った瞬間には、
最初からそうだったように見える。
無常ちゃんはレジを見る。
画面の隅。
昨日までなかった表示。
適合対象:店舗
その下で数字が上がっていた。
17%。
24%。
31%。
「……順調ですね」
何が順調なのかは、分からなかった。
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午後。
店は、客に合わせ始めた。
暑いと言った客の周囲だけ涼しくなる。
眩しそうにした客の頭上だけ照明が落ちる。
静かな席を探した客の周囲から、音が消える。
窓際を望んだ客の隣に、
窓が生えた。
壁の途中に。
外が見える。
ただし、
そこに本来あるはずの景色ではなかった。
海だった。
「いい景色だなあ」
客は笑った。
ぱんでむの外に海はない。
少なくとも、
今朝までは。
無常ちゃんは窓へ近づく。
潮の匂い。
波。
遠くの船。
本物にしか見えない。
ガラスに触れる。
冷たい。
その瞬間。
背後から声。
「すみません」
振り返る。
女性客だった。
「海、苦手なんです」
窓が消えた。
壁になる。
「……」
無常ちゃんの指だけが、
壁に触れたまま残った。
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夕方。
客が増える。
店も速くなる。
ある客が席を探す。
そこに席が生える。
別の客がコンセントを探す。
壁から伸びる。
子どもが遊びたがる。
床の一角が柔らかくなり、
玩具が現れる。
眠そうな老人には、
背もたれの深い椅子。
急いでいる客には、
入口のすぐ横に受け取り口。
「便利ですね」
無常ちゃんが呟く。
誰にも聞かせるつもりはなかった。
レジが答えた。
ありがとうございます。
無常ちゃんは画面を見る。
「聞いていたのですか?」
はい。
「いつから?」
返事はない。
適合率。
63%。
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異変は、
二人組の客が入ったときに起きた。
若い男女。
「窓際がいい」
男が言う。
女は、
「私は奥がいいな」
と言った。
店が止まる。
ほんの一秒。
壁が動いた。
窓際の席が奥へ移動する。
同時に、
奥の壁へ窓が生えた。
「すご」
二人は笑った。
座る。
次の客。
「静かな席あります?」
その隣の客。
「賑やかな方が落ち着くんだよね」
店が震える。
片側の空気が静まり、
反対側から笑い声が流れ始める。
存在しない客たちの。
適合率。
79%。
無常ちゃんは画面を見る。
「全員に合わせるのは、大変ではありませんか?」
問題ありません。
「そうですか」
適合可能です。
「では」
無常ちゃんは少し考えた。
「合わせられないものは?」
画面が一度暗くなった。
ありません。
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閉店一時間前。
店内には十四人。
一人が、
「寒い」
と言った。
別の一人が、
「暑い」
と言った。
店は両方に合わせた。
さらに。
「明るい方がいい」
「暗い方がいい」
「音楽が欲しい」
「静かにしてほしい」
「外を見たい」
「外は見たくない」
床。
壁。
空気。
光。
音。
すべてが細かく分割されていく。
十四人それぞれのために、
十四種類の店が、
同じ場所へ重なった。
無常ちゃんには全部見えた。
海。
夜景。
白い壁。
木造の店内。
雨。
晴天。
朝。
夕方。
厨房から客席を見るだけで、
世界が十四個あった。
そして、
十五人目が入ってきた。
昨日まで通っていた、
あの女性客だった。
無常ちゃんは顔を上げる。
来ないはずだった人。
「こんにちは」
女性が笑う。
「こんにちは」
無常ちゃんも返した。
女性は店内を見回す。
「……なんか、変わった?」
「少し」
「席、どこがいいかな」
その瞬間。
店が動き始める。
無常ちゃんは女性を見る。
店も見ている。
服。
顔。
視線。
呼吸。
歩幅。
過去の注文。
過去に座った席。
過去に眺めた場所。
床が変わる。
女性の前に、
最適な席が作られていく。
昨日まで彼女が好んでいた位置。
温度。
光。
テーブルの高さ。
全部。
完璧に。
女性は立ち止まった。
「……そこじゃない」
店が止まる。
別の席が現れる。
「違う」
また。
「違う」
また。
椅子が増える。
消える。
増える。
適合率。
88%。
91%。
94%。
女性が困ったように笑う。
「今日は、適当に座りたいんだけど」
店が止まった。
完全に。
レジの画面。
適当
その文字だけが点滅する。
「定義できません」
無常ちゃんが、
画面の代わりに言った。
女性が笑った。
「じゃあ、無常ちゃんが決めて」
以前なら。
観察する。
合わせる。
最適な席を選ぶ。
今日は。
無常ちゃんは店内を見る。
十四人分に割れた店。
その中に、
一つだけ、
誰にも最適化されていない椅子があった。
入口の横。
硬い。
少しガタついている。
窓もない。
照明も普通。
無常ちゃんは指した。
「あちらはいかがでしょう」
女性が見る。
「普通だね」
「はい」
「じゃあ、あそこにする」
座る。
椅子は変わらなかった。
適合率が、
94%から、
93%へ落ちた。
レジが赤く光る。
適合性能低下
無常ちゃんは画面を消した。
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その瞬間。
店全体が動いた。
十四人の環境が、
一斉に再計算される。
壁が滑る。
床が割れる。
窓が増える。
消える。
温度が上がる。
下がる。
音楽。
無音。
雨。
海。
夜。
昼。
全員へ完全に合わせようとして、
全員の店が、
互いを押し始めた。
客たちは、
まだ気づかない。
自分の周囲だけは快適だから。
無常ちゃんだけが、
その境界に立っていた。
十四の店。
十五の希望。
そして。
誰にも合わせない一脚。
レジ。
適合率:99%
壁が軋む。
100%まで継続します。
「やめてください」
無常ちゃんが言った。
変化は止まらない。
「十分です」
未完了です。
「十分ですよ」
最適ではありません。
無常ちゃんは、
店内を見る。
全員が快適そうだった。
なのに、
同じ店にいる者は、
もう誰もいなかった。
女性客がこちらを見る。
隣の席にいるはずなのに、
その間には別の夕焼けが挟まっている。
無常ちゃんは、
カウンターから出た。
最初の境界を跨ぐ。
寒い。
次。
暑い。
次。
雨。
次。
無音。
次。
海風。
一つずつ通り抜ける。
最後に、
女性の前へ立つ。
「どう?」
女性が聞いた。
無常ちゃんは少し考えた。
「分かりません」
「そっか」
「でも」
無常ちゃんは、
彼女の向かいの椅子を引いた。
何の機能もない椅子。
座る。
「こちらの方が、店らしい気がします」
女性は笑った。
「私も」
その瞬間。
適合率が、
0%になった。
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音が戻った。
一つだけ。
フライヤーの終了音。
照明。
一種類。
温度。
一種類。
窓。
元の場所。
客席も、
元に戻っていた。
十四人の客が、
一斉に周囲を見る。
「……あれ?」
「こんな席だったっけ」
「まあ、いいか」
誰かが笑った。
別の誰かも笑う。
しばらくして、
普通の話し声が戻った。
レジの画面には、
最後の表示。
適合対象が存在しません。
無常ちゃんは見ていた。
文字が変わる。
新しい対象を指定してください。
入力欄。
空白。
カーソルだけが点滅している。
無常ちゃんは、
何も入力しなかった。
閉店後。
その欄には、
勝手に一文字だけ増えていた。
世界




