第2話「今日のおすすめ」
昼前のぱんでむは、珍しく静かだった。
客席には三組。
厨房から聞こえる音も、今日は穏やかだ。
少なくとも、表面上は。
カウンターでは無常ちゃんがメニューを整えていた。
メニューは三十秒前にも整えた。
その三十秒前にも整えた。
それでも、並び方が気になる。
「……こちらの方が見やすいですね」
一枚ずつ位置を変える。
右。
左。
少し上。
また右。
そして最後に、一枚だけ抜いた。
「これでいいですね」
満足そうに頷く。
抜いたメニューには、
チキンタツタ
と書かれていた。
無常ちゃんがそれを棚の奥へしまった。
「無常ちゃん」
後ろから声がした。
振り返る。
秩序ちゃんだった。
大量の書類を抱えている。
「はい、秩序ちゃん」
「先ほどからメニューを何度も並べ替えていませんか?」
「はい」
「理由を伺っても?」
「お客様によって、見やすい位置が違うので」
「……」
秩序ちゃんは無常ちゃんを見る。
「メニューの位置まで変える必要がありますか?」
「必要があるかもしれません」
「かもしれない?」
「はい」
「では、今までの配置は?」
「今までのお客様には合っていました」
「では、今度のお客様には?」
「まだ分かりません」
秩序ちゃんは黙った。
そして、小さく息を吐く。
「無常ちゃん」
「はい」
「あなたは、もう少し普通に仕事をしてもいいと思います」
無常ちゃんは少し考えた。
「分かりました」
「……」
「普通にします」
その瞬間。
無常ちゃんの姿勢が変わった。
背筋が少し丸くなる。
表情が柔らかくなる。
声も少し眠そうになる。
「……こんな感じでしょうか」
「それは普通ではありません」
「そうですか?」
「はい」
「では、こちらですか」
今度は背筋が伸びた。
きっちりした笑顔。
丁寧な姿勢。
「……」
秩序ちゃんが頭を抱えた。
「そういう意味ではありません」
「難しいですね」
無常ちゃんは笑った。
その笑顔は、さっきよりも少しだけ秩序ちゃんに似ていた。
「私は普通が苦手なのかもしれません」
「そこまで深刻な話ではありません」
「そうですか」
「はい」
「では、忘れます」
「……忘れなくて結構です」
そんなやり取りをしていると。
カラン。
ドアが開いた。
一人の女性客が入ってきた。
二十代くらい。
黒い服。
目の下に少しクマがある。
女性はメニューを見るなり、ため息をついた。
「……決められない」
無常ちゃんがすぐに近づく。
「お困りですか?」
「はい」
女性は苦笑した。
「どれも美味しそうで」
「では、私がお選びしましょうか?」
「え?」
「よろしければ」
女性は少し迷った。
「じゃあ……お願いします」
無常ちゃんはメニューを見る。
そして女性を見る。
服装。
表情。
視線。
呼吸。
指先。
数秒。
「チキンタツタはいかがでしょう」
「チキンタツタ?」
「はい」
「どうして?」
「今のあなたには、これが一番よいと思います」
女性は少し笑った。
「なんか占いみたい」
「占いではありません」
「じゃあ、何?」
「おすすめです」
「ふふ」
女性は笑った。
「じゃあ、それで」
「ありがとうございます」
注文が入る。
無常ちゃんは厨房へ向かった。
しかし。
女性はその背中を見て、少しだけ首を傾げた。
「……」
何か言いたそうだった。
でも、言わなかった。
料理が届く。
女性はチキンタツタを一口食べた。
「……美味しい」
「よかったです」
無常ちゃんが微笑む。
女性も笑う。
「ねえ」
「はい?」
「無常ちゃんって」
「はい」
「いつもそんな感じなの?」
「そんな感じ、とは?」
「……なんていうか」
女性は少し考えた。
「相手に合わせてる感じ」
無常ちゃんは瞬きをした。
「そう見えますか?」
「うん」
「間違っていますか?」
「いや」
女性は首を横に振った。
「すごいなって思っただけ」
「ありがとうございます」
「でも」
女性はチキンタツタを見た。
「ちょっと寂しいかも」
無常ちゃんの笑顔が止まった。
「……どうしてですか?」
「だって」
女性は困ったように笑う。
「私が何を頼むかじゃなくて」
「はい」
「無常ちゃん自身が何を食べたいのか、分からないから」
無常ちゃんは黙った。
「……」
女性は慌てて手を振った。
「ごめん。変なこと言った」
「いえ」
無常ちゃんは微笑んだ。
「お気になさらないでください」
いつもの笑顔。
完璧な笑顔。
女性はそれを見て、
「……うん」
とだけ言った。
女性客が帰ったあと。
無常ちゃんはカウンターの内側に戻った。
「……」
手を見る。
右手。
左手。
指を動かす。
何も変わらない。
「無常ちゃん?」
懺悔ちゃんが横から顔を出した。
「はい?」
「どうしたの?」
「少し考えています」
「何を?」
「私が何を食べたいのか、ということです」
懺悔ちゃんの目が輝いた。
「食べる?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、何?」
「……分かりません」
懺悔ちゃんは少し考えた。
そして、自分の持っていたお菓子を差し出した。
「これ食べる?」
無常ちゃんは見た。
クッキーだった。
「ありがとうございます」
受け取る。
一口。
「……美味しいです」
「じゃあ好き?」
「……」
無常ちゃんは止まった。
好き。
その言葉を頭の中で転がす。
美味しい。
だから好き。
なのだろうか。
それとも。
懺悔ちゃんがくれたから好きなのだろうか。
あるいは。
今、懺悔ちゃんが嬉しそうだから、好きと言うべきなのだろうか。
無常ちゃんは少し考えた。
「……分かりません」
「そっか」
懺悔ちゃんは笑った。
「じゃあ、また食べればいいよ」
「また?」
「うん」
「どうして?」
「分かるまで」
無常ちゃんは懺悔ちゃんを見た。
「……そういうものですか?」
「たぶん」
懺悔ちゃんは残ったクッキーを食べた。
「いっぱい食べれば分かるよ」
「それは懺悔ちゃんの考え方では?」
「そうかも」
無常ちゃんは笑った。
今度の笑顔は、
懺悔ちゃんにも、
秩序ちゃんにも、
女性客にも、
渾沌ちゃんにも、
似ていなかった。
ほんの少しだけ。
無常ちゃん自身の笑顔だった。
その夜。
無常ちゃんは「空白」の部屋に戻った。
今日の部屋は、昨日とは違った。
昨日は古い洋館。
今日は小さな喫茶店。
壁には時計。
窓の外には夕焼け。
テーブルの上には、一枚の紙が置かれている。
無常ちゃんは紙を手に取った。
そこには、
今日のおすすめ
と書かれていた。
その下には、何もない。
「……」
無常ちゃんは椅子に座った。
今日一日を思い出す。
チキンタツタ。
コーヒー。
女性客。
懺悔ちゃんのクッキー。
そして。
「私が何を食べたいか」
無常ちゃんは呟いた。
考える。
チキンタツタ。
ビッグマック。
クッキー。
コーヒー。
フィレオフィッシュ。
どれも悪くない。
でも。
「……」
決められない。
無常ちゃんは紙を裏返した。
裏には何もない。
そこで、鉛筆を一本見つけた。
無常ちゃんは少し迷ってから、
紙に一文字だけ書いた。
「?」
「今日のおすすめは……」
そこで言葉が止まる。
鏡を見る。
昨日とは違う部屋。
昨日とは違う服。
昨日とは違う髪。
昨日とは違う顔。
それでも鏡の中の少女は、
こちらを見ていた。
無常ちゃんは笑う。
「明日、考えましょう」
鏡の中の無常ちゃんも笑った。
ただし。
鏡の中だけ。
紙に書かれた「?」の横に、
小さな文字が増えていた。
無常ちゃんには見えない。
そこには、
「昨日も、そう言いました」
と書かれていた。
無常ちゃんは電気を消した。
部屋が暗くなる。
鏡だけが残る。
その中で。
昨日の無常ちゃんが、
今日の無常ちゃんを見ていた。




