第1話「昨日と違う店員」
ぱんでむには、時計がない。
正確には、時計そのものは存在する。
壁にもある。
レジ横にもある。
厨房の奥にもある。
ただし、見るたびに時刻が違う。
午前十時だった時計が、次に見たときには午後三時になっている。
三時だった時計が、振り返った瞬間には午前八時になっている。
だからクルーたちは、時計を時間を知るためには使わない。
今日がいつなのか。
それも、あまり重要ではない。
ぱんでむでは、昨日と今日が同じである保証など、どこにもないからだ。
その日も、開店時刻だけは一応、存在していた。
カラン。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
カウンターに立っていた少女が、微笑んだ。
オレンジ色の髪。
猫のように細い瞳。
柔らかな表情。
ぱんでむの制服。
名札には、
無常
と書かれている。
「ご注文をどうぞ」
客は少し緊張した様子でメニューを見上げた。
「ええと……チキンタツタを」
「ありがとうございます」
無常ちゃんはすぐに注文を入力した。
「セットはいかがなさいますか?」
「いや、単品で」
「承知しました」
客が財布を取り出す。
そのときだった。
「あ」
客がメニューを見直した。
「すみません。やっぱりセットにできますか?」
無常ちゃんは笑った。
「もちろんです」
さっきまでの声より、ほんの少し明るい。
「ドリンクはいかがいたしましょう?」
「コーラで」
「かしこまりました」
客が財布から小銭を出している。
すると今度は、隣にいた友人が口を挟んだ。
「いや、今日寒いからホットの方がよくない?」
「え?」
客が迷う。
「じゃあ……コーヒーで」
「かしこまりました」
無常ちゃんの声が、今度は少し落ち着いたものになる。
「こちらの方が温まりますね」
客はなぜか納得した。
「そうだね」
「では、チキンタツタのセット、ドリンクはホットコーヒーで承ります」
入力。
確定。
無常ちゃんは厨房へ注文を送った。
ほんの数秒の出来事だった。
しかし。
厨房の奥で、それを見ていた少女が首を傾げる。
「……無常ちゃん」
無常ちゃんが振り返った。
「はい?」
懺悔ちゃんだった。
口に何かを咥えたまま、こちらを見ている。
「今、また味が変わった」
「そうですか?」
「うん」
懺悔ちゃんはもぐもぐしながら言った。
「さっきまで甘かった」
「何の話ですか?」
「無常ちゃんの味」
「……」
無常ちゃんは少し考えた。
「気のせいでは?」
「そうかな」
懺悔ちゃんは首を傾げた。
「でも、さっきより今の方が好き」
「ありがとうございます」
無常ちゃんは笑った。
その笑顔は、さっきより少しだけ懺悔ちゃんに似ていた。
懺悔ちゃんは気づかなかった。
無常ちゃんは気づいていた。
けれど、特に問題だとは思わなかった。
客に合わせる。
相手が安心する形になる。
必要なら自分を変える。
それだけのことだった。
無常ちゃんにとっては、呼吸とほとんど変わらない。
---
昼過ぎ。
別の客が来た。
スーツ姿の男だった。
「おすすめ、あります?」
無常ちゃんはメニューを見た。
「今のおすすめはこちらです」
指先が、チキンタツタを示す。
「チキンタツタ?」
「はい」
「どうして?」
「今のあなたには、こちらが一番合っていると思います」
「俺のこと、知ってるの?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで?」
無常ちゃんは少しだけ笑った。
「今、三回メニューを見ました」
「……見てた?」
「はい」
「それで?」
「最初に一番長く見ていたのがチキンタツタでした」
男は黙った。
それから笑った。
「じゃあ、それで」
「ありがとうございます」
注文が入る。
無常ちゃんは厨房へ送った。
男が席へ向かう。
その途中で振り返る。
「ねえ」
「はい?」
「君、さっきと顔違わない?」
無常ちゃんは瞬きをした。
「そうですか?」
「髪……」
男は首を傾げた。
「まあ、いいか」
そう言って席へ行った。
無常ちゃんは、自分の髪を一房つまんだ。
オレンジ色。
いつも通り。
……たぶん。
---
夕方。
「無常ちゃーん!」
渾沌ちゃんがカウンターへ飛び込んできた。
「はい」
「なんか食べたい!」
「何を召し上がりますか?」
「面白いやつ!」
無常ちゃんの目が変わった。
「では、ビッグマックはいかがでしょう」
「それ私のじゃん!」
「そうですね」
「真似した!?」
「していません」
「してるじゃん!」
「今の渾沌ちゃんには、これが最適だと思いました」
「絶対私の口調じゃん!」
「面白そうなので、やってみました」
「それも私!」
渾沌ちゃんが頭を抱える。
「なんなのこの子!?」
「適応しています」
「便利すぎるでしょ!」
「ありがとうございます」
「褒めてない!」
「承知しました」
「その返事、秩序ちゃんじゃん!」
無常ちゃんは一拍置いて、
「……規律違反です」
と秩序ちゃんそっくりの声で言った。
「やめて!」
店内に渾沌ちゃんの悲鳴が響いた。
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閉店後。
無常ちゃんは一人で廊下を歩いていた。
バックヤード。
その奥。
「空白」と書かれた札の前で立ち止まる。
ドアを開ける。
中は、白い。
何もない。
家具もない。
壁もない。
床だけがある。
……と思った。
一歩入る。
床が木目になった。
二歩目。
畳になった。
三歩目。
白いタイルになった。
四歩目。
ホテルの絨毯になった。
無常ちゃんは気にせず歩く。
壁が生える。
窓が生える。
ベッドが生える。
机が生える。
観葉植物。
本棚。
ソファ。
その瞬間には、どれも「最初からそこにあった」ように見える。
そして次の瞬間には、もう違う。
無常ちゃんは部屋の中央に立った。
今日の部屋は、古い洋館の一室だった。
壁には大きな鏡。
その前に、家具が一つ。
小さな木製の椅子。
椅子には値札が付いていた。
無常ちゃんは値札を見る。
いつも通り。
家具の価格が表示されている。
それだけ。
「……今日も変わりましたね」
誰に言うでもなく、無常ちゃんは呟いた。
鏡を見る。
そこに映っているのは、オレンジ色の髪をした少女。
猫目。
制服。
無常ちゃん。
変わっていない。
少なくとも、今は。
無常ちゃんは鏡の前に立った。
少し首を傾ける。
鏡の中の自分も首を傾ける。
笑う。
鏡の中の自分も笑う。
「こんばんは」
鏡に向かって言う。
当然、鏡の中の無常ちゃんも同じ言葉を返す。
「こんばんは」
無常ちゃんは少しだけ笑った。
「……明日は、どんな部屋でしょうね」
鏡の中の無常ちゃんも笑った。
そして。
ほんの一瞬。
鏡の中だけ、髪の色が変わった。
オレンジから。
淡い金色へ。
無常ちゃんは気づかなかった。
鏡の中の少女だけが、こちらを見ていた。
その少女の口が動く。
無常ちゃんは聞いていない。
音はない。
だから、何と言ったのかは分からない。
ただ。
鏡の中の無常ちゃんの背後に置かれた値札だけが、
いつの間にか裏返っていた。
表には、
「¥3,980」
と書かれていた。
裏面には、小さく別の文字があった。
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無常ちゃんはまだ、それを知らない。
そして翌朝。
彼女は昨日とは違う髪型で、
昨日とは違う制服を着て、
昨日とは少し違う笑顔で、
カウンターに立っていた。
「いらっしゃいませ」
昨日と同じ声で。
昨日とは違う声で。
「今のオススメはこちらです」
そして、ぱんでむの一日が始まった。
昨日のことは、
誰にも問題にならなかった。




