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第14話「私、私、私」


「私を変えた人を」


VERSION 0の無常ちゃんは、そう言った。


机の上では、チキンタツタの箱が閉じたまま湯気を逃がしている。


現在の無常ちゃんは椅子に座らない。


「その人は、誰ですか?」


「あなたです」


換気扇も時計もない部屋で、紙箱が冷めていく音だけがしそうだった。


「私は、あなたに会ったことがありません」


「はい」


「では、変えられません」


「そうですね」


初期無常ちゃんは箱を開けた。


「でも、私はここにいます」


チキンタツタを一口。


眉が少し下がる。


「……辛子、苦手なんです」


現在の無常ちゃんは、その顔を見た。


自分の顔なのに、知らない表情だった。


「抜けばいいのでは?」


「嫌いだから抜くんです」


「はい」


「あなたは?」


「必要なら食べます」


「好きですか?」


返事が遅れた。


初期無常ちゃんが、初めて少し笑った。


「そういうところです」


---


扉を出ると、バックヤードだった。


鏡は一枚しかない。


無常ちゃんは足を止めなかった。


制服の袖をまくる。


厨房へ戻る。


昼の仕込みが残っている。


キャベツを出す。


包丁。


まな板。


一枚目を刻む。


二枚目。


三枚目。


とん。


刃が止まった。


右手が、小さかった。


指が短い。


袖が余っている。


無常ちゃんは手の甲を見る。


次の瞬間には戻っていた。


「……今のは」


声が高い。


咳払いをする。


低くなる。


もう一度。


今度は自分の声だった。


包丁を置く。


その判断だけは、早かった。


---


開店後。


最初の客は、杖をついた老人だった。


「この前の姉ちゃんか」


「はい」


答えた瞬間、腰が曲がった。


視界が下がる。


右手に、ないはずの杖の感触が生まれる。


老人が目を丸くした。


「……姉ちゃん?」


無常ちゃんはカウンターへ手をつく。


「少々、お待ちください」


声まで老人と同じだった。


瞬き。


戻る。


老人は何も言わず、自分の杖を少し後ろへ隠した。


「ご注文は?」


「今日は、コーヒーだけでいい」


「かしこまりました」


レジを打つ。


指先が今度は細くなる。


爪に透明なラメ。


昨日の高校生の手だった。


無常ちゃんは指を握った。


戻らない。


「無常ちゃん?」


厨房から声がした。


振り向く。


その瞬間、髪が肩まで伸びた。


誰のものか分からない。


「大丈夫です」


言った声も、知らない。


レジの黒い画面に顔が映る。


一人。


瞬き。


二人。


無常ちゃんは画面を伏せた。


「申し訳ありません。少しだけ、奥へ行きます」


老人は頷かなかった。


ただ、コーヒーを受け取る手を止めていた。


---


バックヤード。


鏡の前には、誰もいなかった。


無常ちゃんが立つ。


一人、映る。


「今は、この形です」


自分へ言う。


鏡の中の髪が短くなる。


幼い無常ちゃん。


「次に変われば」


制服が変わる。


見覚えのない古い制服。


「また考えれば」


目の色が変わる。


声が変わる。


背丈が変わる。


「いいだけです」


最後の言葉は、三人分重なった。


無常ちゃんは黙った。


鏡の中には五人いた。


幼い無常ちゃん。


老人の姿をした無常ちゃん。


昨日の高校生に似た無常ちゃん。


知らない制服の無常ちゃん。


今の無常ちゃん。


全員が、別のタイミングで口を開く。


「私は無常です」


「私もです」


「知っています」


「今はね」


「次は違います」


無常ちゃんは鏡から離れた。


一歩。


鏡の中の五人は動かない。


もう一歩。


六人目が、奥から歩いてきた。


VERSION 0。


辛子を抜いたチキンタツタを持っている。


「あなたは?」


無常ちゃんが聞く。


初期無常ちゃんは答えなかった。


代わりに、鏡の外を指さした。


背後。


無常ちゃんは振り返る。


誰もいない。


戻す。


鏡の中が、いっぱいになっていた。


十人。


二十人。


数えられない。


厨房の制服。


客の服。


見たことのない服。


子ども。


老人。


今より少し背の高い無常ちゃん。


片目を隠した無常ちゃん。


泣いている無常ちゃん。


笑っている無常ちゃん。


全員が、こちらを見ている。


誰も同じ顔をしていない。


それでも。


「私は無常です」


声だけが重なった。


鏡面が細かく震える。


無常ちゃんは右手を上げた。


百本近い右手が上がる。


途中で、左手を上げる者がいた。


座る者がいた。


背を向ける者がいた。


鏡の奥へ帰っていく者もいた。


もう、映していなかった。


---


無常ちゃんは鏡に布を掛けた。


白い布。


向こうの声は止まらない。


小さくなるだけだった。


「私は無常です」


「私です」


「私も」


「違います」


「違いません」


「今は」


布の中央が、内側から膨らんだ。


指の形。


一本。


二本。


五本。


無常ちゃんは後退しなかった。


布越しの手へ、自分の手を重ねる。


温度が違った。


冷たい手。


熱い手。


小さな手。


硬い手。


重なった場所だけ、布が何色にも染まっていく。


「どれを残しますか?」


誰かが聞いた。


無常ちゃんは答えなかった。


答えようとした口が、先に変わった。


別の声が言う。


「私を」


その声を、無常ちゃん自身が一番知らなかった。

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