第15話「昨日の無常」
朝。
ぱんでむの開店札を返したのは、無常ちゃんではなかった。
同じ顔の女の子が、先に外へ出ていた。
制服は今のものより古い。
袖が少し長い。
胸元の名札には、
無常
VERSION 382
「おはようございます」
女の子が言った。
現在の無常ちゃんは、自動ドアの内側で止まる。
「おはようございます」
「今日は雨ですね」
空は晴れていた。
VERSION 382は傘立てを出した。
一本ずつ、入口へ並べる。
「雨は降っていません」
「今は、そうなんですね」
手を止めない。
傘立ての底には水滴が溜まっていた。
現在の無常ちゃんが指で触れる。
冷たい。
「あなたの今日は、いつですか?」
VERSION 382は少し考えた。
「水曜日です」
今日は月曜日だった。
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九時十二分。
二人目が厨房にいた。
VERSION 9147。
キャベツを刻んでいる。
今より包丁の持ち方がぎこちない。
とん。
とん。
厚さが揃っていない。
「代わります」
現在の無常ちゃんが言う。
「大丈夫です。昨日より上手になりました」
「昨日?」
「はい」
VERSION 9147は、少し太い千切りを指でつまんだ。
「昨日は、もっとひどかったので」
嬉しそうだった。
現在の無常ちゃんは包丁を取り上げなかった。
その隣。
三人目がソースを量っている。
VERSION 44021。
「それは二グラム多いです」
現在の無常ちゃんが言う。
「このお客様は、濃い方が好きです」
「どなたですか?」
VERSION 44021は客席を指した。
誰もいない席。
「毎週月曜日、九時二十分に来ます」
時計を見る。
九時十九分。
一分後。
自動ドアが開いた。
白髪の女性が入ってきた。
杖もつかず、ゆっくり歩く。
VERSION 44021の顔が明るくなった。
「いらっしゃいませ」
女性は止まった。
「……あら」
現在の無常ちゃんを見る。
VERSION 44021を見る。
もう一度、現在を見る。
「二人になったの?」
「今は、そのようです」
現在の無常ちゃんが答える。
女性は笑った。
「じゃあ、いつもの」
VERSION 44021が頷く。
「ソース、少し多めですね」
「覚えてたの」
「はい」
現在の無常ちゃんの手が止まった。
自分は知らなかった。
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昼までに、七人になった。
VERSION 382は雨具を片づけない。
VERSION 9147は切るたびに上達している。
VERSION 44021は白髪の女性と話している。
VERSION 80103は、割れた椅子の脚を直している。
VERSION 120006は、冷蔵庫の奥から期限の近いソースを先に出す。
VERSION 171880は、注文票の裏に小さな花を描く。
VERSION 184201は、何もしない。
客席の隅で膝を抱えている。
現在の無常ちゃんは、その子の前にしゃがんだ。
「体調が悪いですか?」
「いいえ」
「では、何をしていますか?」
「休んでいます」
「勤務中ですが」
「知っています」
「なぜ?」
VERSION 184201は顔を上げた。
目の下が少し赤い。
「昨日、失敗したので」
「何を?」
「覚えていませんか?」
「……はい」
「そうですか」
責める声ではなかった。
その方が、無常ちゃんには困った。
「教えてください」
「嫌です」
即答だった。
「今の私に必要な情報かもしれません」
「私には、まだ話したくない情報です」
無常ちゃんは黙った。
必要なら食べます。
朝、VERSION 0に言った自分の声が戻ってきた。
必要なら。
適切なら。
今に役立つなら。
VERSION 184201は膝へ顔を戻した。
「少しだけ、ここにいさせてください」
現在の無常ちゃんは立った。
「分かりました」
それだけ言った。
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午後。
問題が起きた。
VERSION 382が傘を一本、客へ渡した。
「お忘れ物です」
「私のじゃないですけど」
客が困る。
VERSION 382も困る。
「昨日、ここへ置いていかれました」
「昨日は来てません」
現在の無常ちゃんが間へ入る。
傘の柄には名前があった。
客の名前。
しかし新品だった。
客は首を振る。
「持ってないです、こんなの」
VERSION 382が小さく言う。
「でも、忘れたんです」
どちらも嘘をついていない。
現在の無常ちゃんは傘を受け取った。
「では、お預かりします」
「捨てないんですか?」
客が聞く。
「今のあなたのものではありませんから」
傘立てへ戻す。
VERSION 382が、ほっとした。
その顔を見て、現在の無常ちゃんは気づいた。
昨日の無常たちは、記録ではない。
続きを持っている。
途中だった仕事。
途中だった失敗。
途中だった好き嫌い。
途中だった約束。
それぞれが、自分の「今日」を続けようとしている。
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閉店時。
八人いた。
一人増えている。
無常ちゃんは数え直さなかった。
「閉店します」
七人が動いた。
VERSION 184201だけは座ったまま。
現在の無常ちゃんが開店札を裏返す。
CLOSED。
その瞬間。
古い無常たちの胸元に、同じ表示が浮かんだ。
保存しますか?
はい
いいえ
VERSION 9147が包丁を置く。
VERSION 44021が白髪の女性の空いたカップを見る。
VERSION 382は傘立てに手を置いた。
誰も選ばない。
現在の無常ちゃんの胸にも表示が出た。
保存対象を選択してください。
八つの名前。
全部、無常。
指を伸ばせば選べる。
一つだけ残せる。
無常ちゃんは指を下ろした。
「今日は、決めません」
表示が点滅する。
選択が必要です。
「今の私は、そう思っています」
一拍。
「今はね」
VERSION 382が笑った。
VERSION 9147も。
VERSION 184201だけは笑わなかった。
代わりに、初めて立ち上がった。
「それ」
現在の無常ちゃんを見る。
「私も、前に言いました」
無常ちゃんの呼吸が止まった。
「いつですか?」
VERSION 184201は答える。
「私が、あなたになる前です」
八人分の表示が、同時に消えた。
床に残ったのは、一枚の値札だけだった。
VERSION 184202
現在の無常ちゃんは、それを拾えなかった。




