東大生のプライド
頭に血が上っていたのをどうにか宥め、私はようやく、自分の身の回りで一体何が起きているのかを冷静に考察し始めた。
さて、整理しよう。
私は今、おかしな名前の異世界に飛ばされ、ヒステリックな駄女神に絡まれ、脳内に怪しげなシステムとニューラルネットワークを植え付けられた。……そういう認識で間違いないだろうか? 私はどこかの風刺コメディの主人公にでもなってしまったのだろうか。
我ながらかなり手厳しい、偏見に満ちた表現だとは思う。だが、もっとマイルドな言葉を選んだところで、この理不尽な状況が好転するわけでもない。
ただ、本当のことを言うなら、この状況もそれほど悪くはないのかもしれない。
今、私はこの上なく青々とした見事な緑の草原に寝転び、様々な形の雲が浮かぶ鮮やかな青空を見上げている。私の肺は、すでにこの世界の澄み切った空気に馴染んでいた。先ほどまで私の理性を圧倒していたあの巨大な黒雲はとうに去り、代わりに小さなちぎれ雲が集まって、あちこちに心地よい日陰を作っている。
本来なら、今頃私は東大の息苦しい大講義室の席に座り、将来の仕事に役立つかもしれない退屈な講義を聴いていたはずなのだ。それに比べれば、ここでは完全にリラックスできる。
最後にこんなにのんびりと横になったのはいつだったか……いや、これまでの人生で、こんなにも無防備に、何の憂いもなく横たわったことなど一度もない。子供の頃でさえ……まあ、その手の湿っぽい話題にはあまり触れたくないのだけれど。
唯一気になるのは、もうすぐこの世界での冒険のようなものを始めなければならないということだ。
「気の早い話だけど、ここで誰かと恋に落ちたりするのかな? ははっ、風刺系異世界コメディのジャンルに、今度はラブコメまで追加されちゃったよ」
思わず自嘲気味な呟きが漏れる。
……いや、待てよ。私は今「女の子」の身体になっているのだ。ということは、私が恋に落ちる相手って、もしかして男……!?
「いやいやいや、あり得ない! それとも、これってまさかの百合ルートなのか!?」
想像の斜め上を行く展開に、自分の顔が急速に熱くなるのが分かった。大きめのパーカーの胸元が、ドクドクと激しくなる心臓の鼓動に合わせて不自然に揺れている。ああ、手元に何か花でもあればよかったのに。マーガレットの一輪でもあれば、この乙女ちっく(?)な妄想の背景として完璧な演出になっただろう。
私はそっと目を閉じ、束の間の静寂を堪能した。あまりの静けさに、自分の心臓の音が耳元でやけに大きく響く。このままあと数分もすれば、本当に眠りに落ちてしまいそうだった。
──だが、世界はそれを許してくれない。
【警告。プレイヤー:マリカ・キキ】
突然、脳内に響き渡った無機質なロボットボイスに、私はビクッと身体を震わせた。せっかくのセンチメンタルな気分が一瞬で霧散する Char。
【バッファーゾーンでの休憩時間が終了しました。初期クエスト『最初の一歩』の開始を推奨します。リマインダー:目的地『カピシェ・グラード村』まで残り5キロメートルです】
「分かってる、分かってるってば……」
私は不満を漏らしながら、気怠げに肘をついて身体を起こした。その拍子に、胸の重みがふわりと揺れて、慣れない重心の移動に少しよろめきそうになる。
「少しは自然を満喫させてよ。ところで、私の頭の中にいる居候さん……ちょっと『知力』のメニューを開いてくれない? 異世界に来て早々、現地の人とまともに喋れない存在として扱われるのは御免だからね。ここから抜け出す方法を考えないと」
私の視界の前に、見慣れた一枚岩のような黒いパネルが滑らかに展開された。
【セクション:知力】
現在の段階: 『思考能力』 ―― 論理的に思考し推理する能力(レベル:D)
次段階: 『談話』 ―― 現地の人間族の言語を話す能力(レベル:D)
習得コスト: 10 知力ポイント(IP)
解放までの不足分: 10 知力ポイント(IP)
所持ポイント: 0 知力ポイント(IP)
10ポイント。一見すると大したことのない数字に見えるが、このおそろしく広い草原には草以外に何もない。綺麗な英語や日本語を使ったところで、現地のNPCたちと会話が成り立つはずもないのだ。
つまり、この『談話』スキルがなければ、私は最初の村に足を踏み入れた瞬間、言葉の通じない不審な部外者として扱われる。最悪の場合、固有デバフ『不遜』の効果も相まって、怪しげな魔法使いと誤認され、農民たちにクワやカマで滅多打ちにされる未来が容易に想像できた。
「システム」
私は立ち上がり、ジーンズのお尻についた草を軽く払いながら、果てしない緑の絨毯を見渡した。
「この何もない空間で、どうやってその10ポイントを稼げって言うの? このロケーションで実行可能な、毎時、あるいは毎日のクエスト一覧を出して」
インターフェースがチカチカと明滅し、私の目の前にいくつかの文字列が浮かび上がった。その内容を見た瞬間、私の右目の瞼がピクピクと激しく痙攣し始めた。
【セクション:知力・クエスト一覧】
毎時クエスト:『精神集中』
―― 1から3600までの秒数を、狂いなく数え上げる。
【制限時間】 1時間
【報酬】 1 知力ポイント(IP)
毎時クエスト:『先駆者』
―― 最も近い集落を発見し、現在地からその集落までの大まかなルートマップを作成する。
【制限時間】 未定
【報酬】 1 知力ポイント(IP)
毎日クエスト:『構造解析』
―― 1メートル×1メートルの範囲内に存在する、正確な草の葉の枚数を数え上げる。
【制限時間】 約4〜5時間
【報酬】 2 知力ポイント(IP)
※特記事項:誤差1%未満の場合のみクリアと認める。
私はその場に硬直し、画面の文字と、自分の足元に広がる美しい緑の草を何度も見比べた。
一瞬、遥か彼方の天上界で、あの白髪の駄女神が意地悪そうな笑みを浮かべてクスクスと鼻で笑っている姿が脳裏をよぎった。
4時間も四つん這いになって、たった2ポイントのために草の葉を数えろだと? 正気か!? 彼女は本当に、私がそんな昔のマゾい韓国系MMOの地獄の素材集め(グラインド)みたいな真似に引っかかるとでも思ったのだろうか。
「……ふん、舐めないでよね、シルヴィエッタ。あんたは東京大学の学生という生き物を根本的に見くびっているわ」
私の唇が、不敵な笑みの形に歪む。脳内で、明確な勝利へのアルゴリズムが急速に組み立てられていく。
「私たちは別の方法で行かせてもらうわ。──そう、『数学的補外法』よ。システム、計算データの記録準備をして……」




