『任意の2つの駒』
「『マホウ』は任意の2つの駒の位置を入れ替えることができる……そうよね?」
私は心の中でそう問いかけ、モニカとその無礼さに密かに感謝した。
「ミハエル、お母さんに昔なんて呼ばれてたか、もう一回言ってみて?」
私は椅子の背もたれに頭を預け、だるそうに仰け反った。姿勢の快適さなんてどうでもよかった。私の快適さなんて、とっくの昔に粉々に砕け散っているのだから。
「それには触れるなと言ったはずですが」
ミハエルは重々しいため息をつき、新しい『マモル』の駒を一マス前進させた。明らかに先ほどと同じパターンを繰り返すつもりだ。
「自分で答えは分かっているんでしょう?」
「ええ、分かっているわ。痛いほどによくね」
私は不敵にニヤリと笑い、あえて盤面から目を逸らした。私の視線は盤上の遥か先、虚空に向けられている。
「……リバース」
直前のラウンドで彼がやってのけた、あの今にも眠りそうな低音のイントネーションをそっくりそのまま真似て、私は冷ややかに呟いた。
脳内に一瞬で仮想画面が立ち上がる。目の前の盤面とテーブルを完璧に再現した、目を見張るほど鮮やかな立体ホログラムだ。画面の右半分にはマップそのものが鎮座している。私の陣地にある駒たちは、淡いネオンブルーの光を放っていた。私の手駒たちだ。先ほど王への致命的な一撃を許したばかりの『ウマ』と『マホウ』だが、その全身から圧倒的な覇気を噴き出し、眩いばかりのオーラを纏っている。
対峙するミハエルの領域には、新しく出された『マモル』の駒がぽつんと寂しげに立っているだけだった。その光は私の駒よりも遥かに弱く、色合いも決定的に異なっていた。私の駒が清廉なシアンブルーの輝きを放っているのに対し、『守』の漢字が印象的に刻まれた彼の『マモル』は、血のような赤で縁取られた地獄の灰金色——不気味で禍々しいコントラストを描き出していた。
画面の左側には、選択可能なコマンドのリストが整然と表示されていた。無駄のないシンプルなデザインで、左右完璧に二分されている。一番上には、対象が誰であるかを明確に示す重厚な『敵』の漢字。その下には『マモル』のアイコンが一つだけ光っており、そのすぐ隣にはテキストが添えられていた。日本語を知らないこの異世界の人々が呼ぶような単なる『盾』ではない。この兵器の真の固有名称——『いかなる犠牲を払ってでも守る』。長すぎるけれど、息をのむほど詩的で美しい命名だ。
私の側のリストには、まったく異なる漢字が躍っていた——『俺』。堅苦しさも気取りもない、不敵な表記だ。その下には『千軍万馬』の四字熟語を戴いた『ウマ』のアイコン、そしてさらに下には魔法使いのシルエットが並んでいる。深々とフードを被り、足元まで伸びるローブを纏った王道の『マホウ』。その手には杖が握られ、空中には『魔法にかかる』というシステムテキストが刻まれていた。その全てが、柔らかいシアンブルーの光に包まれている。
画面の最下部には、一筋の細いラインとなって選択メニューが広がっていた。これも左右に分かれている。私がすべき最終決定は一つ——位置交換の左スロットにどの駒を置き、右スロットにどの駒を置くか。
システムからのチュートリアルやヒントは一切存在しなかった。貴重な持ち時間を10ポイントも犠牲にする決断を下したプレイヤーなら、自力でこの仕組みに辿り着けるはずだ——ゲームの開発者はそう踏んでいたのだろう。書籍の解読者として、私は nanny(世話係)ではなくまさにその期待に応える人間だった。天才と呼ばれるほど聡明ではないが、感情だけに流されるほど愚かでもない。……いや、撤回。この一手のためなら、私は十分に狂っていたかもしれない。
ミハエルも、モニカも、ギャラリーの誰もが……手番の際にこの画面を目にしながら、そこに書かれた言葉を誰一人として理解できていなかったのだ。当然だ、この世界のミミズがのたくったような文字ではなく、完璧な『日本語』で表記されているのだから。だからこそ彼らは、直感的な『色』だけに頼って戦術を組み立てていた。だからこそ彼らは、「位置を入れ替えられるのは自分の『青い』駒だけだ」と信じて疑わなかったのだ。
システムタイマーが『04:10』を刻んだ瞬間、私の白い『マホウ』と、彼の黒い『マモル』の位置が瞬時に入れ替わった。
ミハエルが不思議そうに首をかしげた。いつもの淡々とした口調の奥に、純粋で偽りのない好奇心が覗く。
「……何ですか、それは?」
彼の口から出た疑問。本心の篭もった問いかけ。それを耳にした瞬間、私は確信した——このガキは全知全能の神なんかじゃない。興味を惹かれているのだ! こいつ、マジで楽しんでやがる!
「代わりにモニカが説明してくれるわ。ねえ、お姉さん?」
私は勝ち誇った嘲笑を浮かべて告げた。
周囲のギャラリーは、まだ私の言葉と行動の真意を理解しきれていないようだった。すると、進行役であるモニカがおずおずと口を開いた。
「ええと……その、何と言いますか……」
モニカは困惑した様子で、見えないルールブックと照らし合わせる。
「規定によれば……『マホウ』は『任意の2つの駒』の位置を入れ替えることができます。ただし、それには持ち時間10ポイントを消費します……」
最後の言葉を、彼女は可能な限りの早口で捲し立てた。これほど強力で曖昧なルールがゲームバランスに存在していたこと自体に、きまり悪さを感じているようだった。
「『マホウ』は『任意の2つの駒』の位置を入れ替えることができる。ただし、持ち時間10ポイントを消費する……」
私はその言葉を一つ一つ噛み締めるように反芻した。この短いフレーズの中にこそ、私の勝利の神聖な鍵が隠されていたのだ。
『任意』——つまり、敵の駒も含まれる。そして彼の『マモル』は今、地形のルール上、進入が固く禁じられている『平原』へダイレクトに転移させられたのだ。自動的な反則負け。
「マリカ……いえ、お姉さん。あなた、最高のバカですね!」
ミハエルが突如、声を上げて爆笑した。腹の底からの爽快な大笑い。そして、敗北の公式な儀礼として、彼はまっすぐに手を差し出してきた。その笑顔は、あらゆる感情の悪魔的な混ぜ合わせだった。心地よさ、虚無、不快さ……その全て。彼は私を蔑むと同時に祝福し、憎むと同時に愛していた。勝利を欲しながらも、概念の根本において見落としをやらかしたのだ。
「マリカお姉ちゃんが……勝ったあぁぁっ!」
ステファニーが割れんばかりの悲鳴を上げ、ソファで固まっていたクソガキどもが、歓声の雪崩となって私の胸へと飛び込んできた。
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