『正義の敵は、別の正義だ』
私は指先に有り余るほどの力を込め、自分の駒を強く握りしめた。ミハエル専属の処刑人になるはずだった『ウマ』が、平原から『森』へと移動する。ありがたいことに、ゲームのルール上、『ウマ』は森の中でも十分に動くことができた。私の意識の奥底で誰かが腹を抱えて笑っていたが、それが誰なのか、もう自分でも分からなくなっていた。
「裏には裏があるのよ」
彼を揺さぶり、その鼻をくじいてやるために、私は流暢な日本語でそう呟いた。
「正義の敵は、別の正義だ」
ミハエルは淡々と、ロボットのようにそう言い返してきた。
タイマーの表示は『08:34』。まだ序盤も序盤、盤上にはたった二つの駒しかなく、お互いの控えには28体もの予備が残されている。
私はこのクソガキの目の前で、高らかに嘲笑してやる準備を脳内で進めていた。脳内だけじゃない、現実でだ。その甘美な妄想を現実にしてやろうと。……だが、妄想はどこまでいっても妄想でしかない。
そんな冷や水のような現実が頭をよぎったのは、ミハエルが駒を動かした瞬間だった。横への旋回ではない。私の『ウマ』と列を合わせようともしなかった。彼はただ容赦なく、まっすぐ前へと駒を進めたのだ。足を踏み入れるべきではない場所へと。
「ちょっと、何のつもりよミハエル!?」
私は声を限りに叫んだ。
ソファに座って展開を期待していた子供たちが、私の唐突な怒声にビクッと体をこわばらせる。だが、ミハエルの表情はピクリとも動かなかった。
「何か問題でも?」
彼はだるそうに盤面を見つめながら、何かを思案していた。
タイマーが『08:33』を示したまさにその瞬間、彼は手を進めたのだった。対局開始時のあの長すぎる長考以降、このガキが1秒以上長考することは二度となかった。ただの一度も。
「この先、数マス進んだら平原エリアじゃない! なんで『マモル』をその直線上に進めるのよ!? 馬鹿げてるわ、ツンドラに入ったら行き止まりでしょ!? 右フランクに逃げるべきだったじゃないの!」
私は喉が張り裂けんばかりに叫び散らした。猛烈な怒りのままに、このクソテーブルをひっくり返してしまいたい衝動を必死で抑え込みながら。
だが、いくら認めたくなくても、真実を恐れていても……彼がなぜこれほどまでに無関心なのか、私はすでにその答えを知っていた。
「あなたがそう言ったからですか? 早く指してください。時間が減っていますよ」
ミハエルは口元を隠そうともせず、ただ怠そうにあくびをした。
彼がこれほど退屈そうなのは、すでに手の中に収めている結末に対して興奮することなど不可能だからだ。試合開始直後の数秒間、彼が不気味に興奮していたのは、脳内ですでに私との対局を終えていたからに過ぎない。たった1分の間に。いや、違う。システムタイマーが空に現れるよりも前、彼の脳は全ての指し手をシミュレートし終えていたのだ。大きな文字で書かれた絵本のように、彼は私の思考を完全に読み切っていた。そして今、脳内対局を終えて全てを悟った彼は、驚いたフリをすることすらしない。彼にとって、そんな茶番は必要ないのだ。
どうする? 私はまたしても思考の罠にハマってしまった。私の『ウマ』は森の中にいる。早急に手を打たなければ。そもそも、なんで私はウマなんて出したの? 派手な戦闘でも期待してたわけ!? 私って本当にバカ! このクソガキが、戦略的アドバンテージのない無意味な殴り合いに付き合うわけないじゃない!
策が必要だ。策、策、策……っ! いきなり敵の本陣を崩しに行くなんて不可能。まあ、それは相手にとっても同じことだけど。彼の城の前には雄大な『山脈』がそびえ立ち、ルール上『ウマ』は進入不可。私の城の前には見渡す限りの『平原』が広がり、『マモル』は足を踏み入れられない。お互いに最初から自爆技をかましているようなものだ。だが、あいつにとってそれが計算し尽くされた戦略なら、私にとってはただの泥縄の生存戦略だった。
よし。今はとにかく、あの生意気な黒の駒を潰しに行くしかない。私のユニットが撃破された場合のペナルティは持ち時間マイナス5ポイントだが、あいつが失うのはその倍の10ポイント。交換比率としては悪くない!
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