スラムの救急箱
「どうもご親切に。でもね、そもそもあんたたちがそんな過激な真似をしなけりゃ、こんな痛い思いはしなくて済んだはずじゃない……」
私がボソボソと口の中で愚痴をこぼした瞬間、すかさず後頭部に強烈なはたきが飛んできた。
いたっ!?
ちくしょう、これで本当に全身隈なく、満遍なく痛いわ……。
「文句言わないの! ……って、嘘でしょ!? 濡れてない!?」
モニカが目を見開いて声を上げた。それは演技でも何でもない、本物の驚愕だった。
不意打ちの激ドロ水を私がこれほど完璧に回避するとは、夢にも思っていなかったのだろう。
彼女は私の服と、さっきまで私が安らかに眠っていた絨毯の跡を、何度も何度も信じられないといった様子で視線を往復させている。
「あんた、今どうやったのよ!?」
私の服に水滴が一滴でも残っていないか、数秒間くまなく調べ上げていたモニカだったが、全ての抵抗が徒労に終わったと悟ると、小さくため息をついて包帯を取り出した。
ちなみに、彼女がそれをどこから引っ張り出してきたのかは謎だ。
背中の後ろか、後ろポケットか、最初から手に持っていたのを私が見落としていたのか。
あるいは、いつもモニカの影に隠れているシズエが、こっそり手渡したのかもしれない。
「ほら、『あー』って言いなさい」
彼女の意図が分からず私が黙っていると、次の瞬間、両腕に焼けるような激痛が走り、私は思わず絶叫した。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
もはやプライドも何もかも投げ出して叫ぶしかなかった。文字通りの地獄絵図だ。
傷口を動かされるたびに、まるでピラニアの大群が皮膚をさらに深く貪り食っているかのような感覚が襲う。
そして私が痛みのあまり口を開けたその刹那、モニカは右手を伸ばし、私の口内へ何かを素早く放り込んできた。
一瞬、何が起きたのか把握できなかった。
噛むべきか、味わうべきか、咀嚼して分析すべきか。
どう表現してもいいが、私はそんなことをするつもりは毛頭なかった。
幼少期、親から「落ちているものを何でも口に入れるな」としつけられてきたからだ。まあ、この場合は落ちているどころか、ダイレクトに放り込まれたわけだが。
「んふっ、なひこれ……!?」
私はモゴモゴと声を漏らしながら、舌を使ってその謎の物体を奥歯のほうへと押しやった。
邪魔にならないようにするためだ。舌にとっての「足元」がどこかは知らないけれど。
「あん? 何言ってんのよ」
モニカの声はぶっきらぼうだったが、不思議とそこに本物の悪意や拒絶は感じられなかった。
スラムの独特な空気のせいかしら。
小言を言われながらも治療してもらうというのは、ただ怒られて放置されるよりは遥かにマシだ。
……いや、放置されるほうに「ツンデレ的な魅力」を見出す趣味は私にはないけれど。
「だから、これ何って聞いてんの!」
今度ははっきりと発音しながら、私はその固形物を自分のグレーのTシャツの上にペッと吐き出した。
キャンディのようでもあり、チョコレートバーのようでもあり、あるいはただの薬草の葉の塊のようでもある。
一体全体なんなのよこれ。口の中ではヌルヌルするのに、外側は妙に固い。
「ちょっと、吐き出さないでよ!」
モニカは声を荒らげ、私の唾液がついたその謎の物体を躊躇なく拾い上げた。
一瞬だけ嫌そうに眉をひそめたものの、迷うことなく再び私の口内という名の「母港」へと正確無比に放り戻してきた。荒療治すぎるでしょ!
「それは『クラツィオ』と『ムパンガ』の葉で作ったカプセルに、『リピツェ』の果汁を塗ったやつよ」
彼女が口にした単語の半分は、私の頭の上を素通りしていった。
どうやら世界観固有の名詞の類らしい。
もしこれが一般的な単語なら、私の持つ翻訳スキルが自動で脳内変換してくれたはずだ。だが、見ての通りスルーされている。
私の困惑しきった表情を見て、モニカは不敵に薄く笑うと、肩をすくめて解説を始めた。
「クラツィオってのはね、イチゴとかラズベリー、ヘビイチゴにブラックベリーなんかの近縁種にあたるベリーのことよ。今回使ってるのはその『葉』だから、甘みは一切ないから安心しなさい。古代グクロブ語の『クラツク』が語源で、直訳すると『薬』って意味ね」
なるほど、そこまでは理解できた。
つまり3つのうちの1つ目は、前世の地球でも馴染み深かった植物の近縁種、その葉っぱというわけだ。
地球にそんな珍妙な植物はなかったが、「バラ科」の近縁という情報だけで、トウダイ卒の脳内データベースが瞬時にカタチを導き出す。
おそらく、5枚の小葉と5枚の萼片を持ち、表面に無数の斑点がある小さくて甘いベリーだろう。
語源がストレートに「薬」を指している以上、実際に効果はあるのだろう。ただ、「薬」とはあまりにも抽象的な概念だ。……的外れな部位に効いたら意味がないのだけれど。
私が理解したと示すように頷くと、モニカはさらに饒舌に話を続けた。
「ムパンガはね、古代ギリシャの方言で『鍵』って意味。これはいわゆる這い回るツル植物の葉っぱよ。そいつが脳への伝達を遮断して、痛みを内側から完全にロックするの。だから、1分後くらいに指先の感覚がなくなってもビビらないこと。それは鍵がしっかり閉まった証拠だから」
そこまで一気にまくし立てると、彼女は何かを思い出すように少し小首を傾げた。
「あ、そうそう! 最後の『リピツェ』だけど……これは岩の表面にできる突起物の分泌液ね。鼻水みたいにドロドロしてて気持ち悪いけど、あんたが弱音を吐く暇もないくらい一瞬で傷口を接着してくれるわ。ただ――」
モニカは露骨に顔をしかめた。
「口の中の後味が最悪な上に、異常なほど長持ちするのよ! 一回舐めただけで、数時間は舌全体がナメクジになったみたいな感覚になるんだから……うげぇ、思い出すだけでも鳥肌が立つわ!」
語るだけでこの拒絶反応。
それを今まさに口の中に放り込まれている私の身にもなってほしい。飲み込んだら一体どうなってしまうのよ……。
「ちょっと待って、今『古代ギリシャ』って言った?」
私は思わず声を漏らした。
この異世界にギリシャ人まで遠征してきてるわけ!?
それも現代のギリシャじゃなくて、アテナイとか、あるいは最悪なことにあの戦闘狂のスパルタ人の類なんじゃ……。
「そうよ、古代ギリシャ。聞き間違いじゃないわ。ちなみにここから結構近い島のことね。馬で三日三晩、そこから追い風の船に揺られてさらに三日三晩ってところかしら。あいつらの島に、その生意気なツル植物が自生してるのよ。あんた、まさか『ギリシャ』を知らないの?」
ああ……なるほどね。歴史上のあの古代ギリシャじゃなくて、単にそういう名前の「島」があるだけか。
というか、合計で丸六日間の不眠不休の旅路を「近い」と表現するあたり、この世界の住民の距離感覚はどうなっているのだろう。この世界の全貌がどれほど広大なのかは知る由もないけれど。
前世の感覚なら、東京から6日もあれば日本全国を余裕で縦断できるし、世界中のどこへでもフライトを飛ばせる。
まあ、未だに馬や馬車が主力交通機関のこの世界と、新幹線や航空機が飛び交う現代地球を比較すること自体、ナンセンスの極みではあるのだけれど。
文明の格差が、あまりにも激しすぎるわ。




