漆黒の夜の不協和音と、星なきスラムの寝床
窓の外は、これ以上ないほど深い闇に包まれていた。
おそらく、私のこれまでの人生――前世を含めても――の中で一番暗く、黒い夜だろう。もっとも、それも無理はない話だった。
前世の私は日本の首都、東京という騒がしく、人口の密集した巨大なメガロポリスに住んでいたのだから。あそこは夜になれば、昼と朝を足したよりもなお眩しい不夜城だった。
一方、ここは違った。
明かり自体はあるものの、このスラム街からは遥か遠く離れた場所からかすかに届くのみ。ルカの言葉を借りるなら、あそこがこの街の「中心街」であり、私が最初にこの世界に足を踏み入れた場所だ。
だが、今の私にはどうしても理解できないことが一つあった。
……なぜルカは、この暗闇の中で表情も変えず、ジャスパーの枕元に突っ立っているのだろう?
明かりが皆無なのでおそらくジャスパーだろうという推測にすぎない。私の記憶にある、子供たちが寝かされた位置だけを頼りに見当をつけている。
それでも、この漆黒の闇の中でルカのシルエットだけははっきりと分かった。何と言っても、彼はこの中で最年長なのだから。
私のすぐ右隣にはモニカが眠り、そこからシズエ、ミハエル、エルザス、ステファニと続き、ほぼ一番端にジャスパー、そしてルカがいる。
ここに来てたったの一時間しか経っていないというのに、我ながら驚くほど正確に配置を記憶していた。私の東大脳(Todai Brain)も、こんな雑魚寝のフォーメーション記憶にしか使われないのでは形無しね。
「……ルカ?」
私の口から細い声が漏れた。完全に囁き声だ。
もし誰かを起こしてしまったら、それこそ悪魔にでも魅入られたような最悪の事態になるだろう。いや、この世界なら「女神様のみぞ知る」と言うべきか。どうやらその二つのフレーズは、この世界では完全に同義語らしい。
「お前……」
彼は医者の検診でよくやるように、深く息を吸い、そして吐き出した。
「なんで寝てねえんだ?」
ルカの返答は私よりも少し声量が大きかったが、それでも全員を叩き起こすほどではなかった。
ただ、その声にはいつもの彼らしくない、妙に不自然な響きが混じっていた。彼は顔を上げ、寝静まる子供たち越しに、私の目を真っ直ぐに見据えてきた。
ホラー映画やサスペンス、怪談のワンシーンのようなおどろおどろしさは微塵もなかった。そういう安っぽい連想はまったく湧かない。
にもかかわらず、その瞬間、私の内面には言葉にできない違和感と、居心地の悪い気まずさがじわじわと這い上がってきた。
「喉が渇いちゃって。お水が飲みたくなったの」
私は咄嗟に言い訳を思いつき、わざとらしく首をさすりながらコンコンと小さく咳き込んでみせる。
「水……そんなもん朝までねえよ。寝ろ。早く寝れば、それだけ早く水にありつける。てめえのためだ、口と目をさっさと閉じろ。……頼むから、寝てくれ」
ルカは私の真似をするか、あるいはからかうように、わざとらしくハクションとくしゃみをする仕草を見せ、今度は後頭部をこすった。
だが、そのくしゃみには一切の「音」がなかった。
実際のところ、本当にくしゃみをしたのかさえ怪しい。人がくしゃみをする時のように頭を不自然に上下に激しく振っただけで、破裂音のようなものは何も聞こえなかったのだ。……やっぱり、どこか奇妙なガキだ。
「ルカ……そこで何をしてるの?」
心のどこかで「聞こえなければいいな」と願いながら、私は消え入るような声でモゴモゴと呟いた。
「全員がちゃんと寝たか、見届けてんだよ」
彼は軽く周囲を見回し、再び私の存在そのものを射抜くような視線を向けてきた。
「お前は起きてる。なぜだ? 今は夜だぞ……寝ろ」
私の淡い期待に反して、ルカにはしっかり聞こえていたらしい。
彼は自分の目をこすった。その瞬間、押し殺したような小さな鼻をすする音が私の耳に届いた。そこには、聞き覚えがあるようでいて、同時に全く見知らぬ感情の響きが含まれていた。
猛烈な気まずさと不快感が押し寄せてくる。けれど、恐怖や警戒といった他の感情は不思議と湧いてこなかった。
もしこれがホラー小説の一幕なら、読者としての私は警戒メーターを最大にしていただろう。けれど、いざ自分がその渦中に立たされ、当事者として一人称視点で事態を観察していると……逆説的というか、矛盾しているようだけれど、不思議と心が冷徹に落ち着いていくのだ。
本当に奇妙な感覚だった。とても、奇妙な。
思考を巡らせているうちに、今度は本当に喉の奥に何かが閖えたような感覚を覚え、私は小さく咳き込んだ。
今度は演技ではない。本気で喉がカラカラになってきたのだ。ならば、あの奇妙なルカの言葉に従うのが最善の選択だろう。
私はそっと目を閉じた。
胸の奥ではまだ感情と疑念の巨大な火山がグツグツと煮えたぎっており、少なくとも次の三十分間は眠りにつけそうにない。
――まあ、少なくとも、その時の私はそう高を括っていたのだけれど。




