愛子
遠くに波の音が聞こえる。
それはBGMと呼ぶにちょうどいい音量で、意識すれば聞こえる、しなければ聞こえない。それでいてただ何気ない一日にも豊かさと心地よさを付与してくれるような、本当にちょうどいい音量だった。
その景色だけではなく、この海岸からの程よい距離がかつて成功者に気に入られ、別荘を建てる立地として好まれたのだろう。
十数メートルおきに立派な、それでいて少し日常を離れたようにデザインされた建物が10軒ほど建っている。
中には小さいものもあったが、それはきっとあえてのことなのだろう
打ち捨てられ20年はたっているであろうそのうちの一つは、今だ住むに何の不便もなく、海辺であることを意識したか、南国をイメージして作られたウッドデッキがわずかに風雨と潮風に腐食するのみだった。
波の音、風の音、遠くにわずかに車の音。そんな休日を過ごすに最適な音の中、ビリリと甲高い異音が近づき、ブオンと大きな音を一度鳴らし止まった。
CLFC90。アイアの愛車。
いかにもレトロな外観で、実際修理しながら60年以上乗っているものだ。
アイアはこれをとても大切にしていたが、広い庭に生えた、秋口はとうに過ぎたというのにいまだ勢力の衰えない背高の草の中に容赦なく突っ込んだ。
ビニール袋を、それはアイアの背からしたら地面を引きずるほどのものだったため少し持ち上げ、のそのそとその別荘の裏手に回った。
それを二階から眺めていたものは、背の高い草のなかをかき分け進む何かに気づきながらも、その姿を目視できないでいた。
立派な建物ではあったが、建てられたのは前世紀。裏手の勝手口は案外質素で、21世紀のセキュリティ、しかも別荘のものとしてはかなりお粗末な、シンプルな物だった。
アイアはその扉の下の方を手のひらで叩いた。
バンバンバンバンと4回叩く。
しばらくするとトタトタと足音が聞こえ、その音の主が扉のそばに身をひそめるのがわかった。
「ふかえのおならは」
「おとがいい」
やがてかちりと音がし、鍵が開く。そしてゆっくり開く扉のきしむ音は、確かに20年放置されていたダメージを物語った。
出てきたのは大きめのワイシャツに制服のスカートをはいた愛子だった。
アイアの姿を見とめにっこりと微笑む。
愛くるしいような、でもそれだけではない笑みだった。
「この合言葉要ります?」
苦言を呈したのはアイアだった。
「んふふ、私こういうのやってみたかったの」
それに対し愛子は満面に、その整った顔が崩れるほどの笑みを見せた。
「愛子が声を発した時点で中に人がいることはばれますし、扉の叩き方をもっと複雑にする方が現実的…、深江には名誉棄損で何かしらの制裁(暴力)を受けそうですし、そもそも愛子は潜伏を甘く見て…、はあ、もう何から言ったらいいものやら」
アイアはあきれ顔を見せた。
見せながらも、その小さな両手に抱えたビニール袋を、スーパーの袋を差し出した。
「わあ、ありがとう」
愛子は嬉しそうだ。
中には水とカセットボンベ、カップ麺、パックご飯、おにぎりが入っていた。
「おにぎりはまあ、あれですな、すぐに食べれるようにと」
いつもにやけ顔のアイアだったが、終始神妙な表情をしていた。
愛子はその袋を床に置くと広いキッチンを抜け、その奥のさらに広いリビングからキュルキュルと錆びついた金属の音をさせながら戻ってきた。
それは車いすの音だった。座っているのは文也だった。
「あとこれも」
アイアは小さな油さしを愛子に差し出す。
「車輪の、軸を中心に可動部やこすれる部分にさしなされ。その音もないほうが文也にもよいでしょう」
愛子はニコニコと笑い、楽しそうに「うん!」と頷く。
「いつもいろいろ持ってきてくれてありがとうアイアちゃん。ところでこんなにたくさんどうやって…、やっぱりおばけの力を使って上手に万引き…」
笑顔を崩さぬまま意地悪く顔を寄せる愛子。
「失礼な!ちゃんと買ってきたのです!それも足がつかぬよう毎回店を変えて!まったく、そのようなことを言うのであればわたくしはもう手伝いませんよ!」
アイアはこぶしを振り上げぷりぷりと怒りをあらわにする。
「ごめん、ごめん。ありがとうね」
愛子は穏やかな笑みを見せ、そして
「でも、もう無理に手伝ってくれなくてもいいよ。本当にありがとうね」
寂しそうにそう言った。
500年生きたアイアである。
ちょっとやればたいがいの人間をちびらせることなど造作もない妖怪だ。
しかし愛子の笑顔には、それがどんなに穏やかなものであったとしても、その内に妙な迫力を感じてしまい気後れするような感覚があった。
そのうえ寂しそうにするなんてずるい。
「いや、時々は来ますよ。愛子だけでこんなこと続けられるわけはありませんし。Wあいちゃんを結成したからにはわたくしも…。愛子、ともに武道館へ行くという約束は忘れておりますまいな。それに…、ほれ」
そう言いながら、神妙な顔のまま万札を数枚渡した。
「これ、毎回ほんとにいいの?」
愛子はおずおずとそれを受け取る。
「盗んだものではありませんよ。わたくしにもちゃんと稼ぎがあるのです」
アイアはこともなげにそう言った。
「武道館は簡単じゃないと思う。でもきっとそんな未来もあると本気で思ってる」
愛子の言葉は力強く、妙な説得力があった。アイアはその言葉に飲み込まれるような感覚を覚えた。
カセットボンベと水とカップ麺はダイニングテーブルに置いた。
茶葉の入った袋や日持ちのしそうな袋菓子も並べられ、カセットコンロも置いてある。
「お兄ちゃんこれ持って」
おにぎりの残った袋は文也の膝の上に置き、愛子はキュルキュルと音を立てる車いすを楽しそうに押した。
向かったリビングは広く、床材、壁材ともに質の良いものであることがわかる。
長年放置されていたものの、というよりも長年閉め切って放置されていたためか、ほこりっぽさはなく、かすかにカビっぽさを感じる。
おそらく愛子が簡単な掃除はしたのだろう。しかしうかつに窓を開けることもカーテンを開けることもできないでいるようだ。
立派なテーブルや棚などは、かつてここを人が利用していたころのままのようだ。
ただその上に乗っていた、その中に納められていたであろう物はほとんどなく、家電や、装飾品も残っていなかった。
そのシンプルで無機質な様子は、なんとなく渡辺家に似ていて、案外愛子はここを暮らしやすく感じているのかもしれない。
「しかしこんなところよく見つけましたね。もぬけの別荘地。しかも車いすまであって。どうやって入ったんです?しかもこんなに遠くまで」
アイアはテーブルの上にぬいぐるみのように座って愛子に尋ねた。
その横では電池式のランタンが部屋を淡く照らしていた。常夜灯よりは明るい程度。無いよりましだし、あまり明るすぎてもいけないのだろう。
愛子は中腰になって文也におにぎりを食べさせようとしている。
「あーん」という声に反応し口をわずかに開け、少量、ごく少量を口に含みゆっくりと咀嚼している。
文也は愛子の方を向いてはいたが、その瞳の焦点があっているかどうかアイアにはわからなかった。
「普通にタクシーだよ。偶然みつけたの。全部の家を回ったんだけど、この家だけ鍵が開いてたの。しかも車いすまであって。本当にラッキー。でも、運転手さんの証言とかで見つかっちゃうかな」
目を細めて楽しそうに話す愛子。あまり気にしていないように見えた。
「御勝手の鍵穴に傷が。普通に鍵を使った時にはつかない傷が3筋ございました」
アイアは努めて表情を変えぬよう。より一層ぬいぐるみがしゃべっているかのように言葉を発した。
「へえ、じゃあ泥棒が入った後なのかな。それで物がないのかな、大きいものだけ残して。でもそのおかげで中に入れたんだ。それよりさ、やっぱり、アイアちゃんって鍵あけとか、そういうの詳しいの?」
ゆっくりと咀嚼し嚥下する文也。
愛子がおにぎりで唇をつんつんつつくと、それに反応してまた口を小さく開ける。その様子を愛子は慈愛に満ちた表情で見つめた。
「やっぱりってなんですか。さっきから人を泥棒のように…。こんなに協力しているというのに」
ぬいぐるみが怒ってる。
「あれ?泥棒得意なんじゃないの?」
愛子は二口目を無表情に咀嚼する文也からアイアへと視線を移した。
驚いたように目を丸めた笑顔。ただのおふざけ顔だったかもしれない。
しかし暗闇の中で小さなランタンが照らすその整った顔は、妙に陰影が強調され、本来人を怖がらせる存在であるはずのアイアにもわずかに寒気を感じさせるものであった。
「いやまあ、得意というか、やったことはありますよ。何せ500年生きておりますから。そりゃ、いろいろありますし…」
嘘をついた。
アイアは泥棒が得意。
やむにやまれず、ということもあったかもしれない。しかし嬉々としてやったこともあれば、息をするように人のものをくすねることもあった。
どんなにやってもお化けの仕業、いわば怪異の一つであって法で裁かれるようなことはないのだ。それがもとで退治されたことは何度かある。
「というかなんですかその話は。わたくしそんな話しましたっけ?」
アイアは慌ててじたばたと愛子を問いただした。そういう動きをする電池式のぬいぐるみのようだ。
泥棒はするが人に泥棒と言われるのは嫌らしい。
「え、しなかったっけ?じゃあ斎藤さんに聞いたんだ。うん、斎藤さんが言ってた」
アイアはキョトンとした。
「え、おじさんですか?そんなに口の軽いお人では…。いや、しかし奴も男。幼いとはいえ愛子の美しさに口を滑らしおったか。くそう、キヨのやつ…!」
そして歯がゆそうに薄暗い空間にプロジェクターのように思い描いた斎藤の間抜け顔を睨んだ。
愛子はそれを見て微笑み、そして文也を見てさらに微笑んだ。
文也はおにぎりの、数粒の米の塊をズボンの上にこぼしていた。
愛子は「ほら、もう」と嬉しそうにそれを拾い上げ文也の口元に運ぶ。
文也はそれに反応せずいまだに二口目を咀嚼していた。
愛子はそれを確認すると米粒を自らの口に運び数回咀嚼して、さらに食べかけのおにぎりを小さく口にした。
そして赤子を愛でるように文也の頭を撫でた。
破滅的な光景だと思った。
斎藤に黙ってこんなことをしていいのだろうか。
Wあいちゃんという将来日本を席捲する予定のコンビを組んだ。だから見捨てられない。というのもないではない。
このことを斎藤に伝えれば警察の世話になり愛子の経歴には傷がつく。
しかしだからと言ってそれで将来のアイドル活動に支障が出るなんてこともない。むしろ極度のブラコンとなればキャラが立って良い影響すらあるかもしれない。
ただまあ、コンビ結成なんてのもお遊びに過ぎない。愛子が本気でそんなことを考えているとも思っていないし、何より自分をメディアに露出させることが非現実的だ。
ごっこあそびだ。
単純な話だ。
愛子はこのやり方を選び、アイアに救援を求めた。
そしてアイアはそれに逆らえなかった。
それだけだった。
「いつまでこんなこと続けるんです?」
それでもこの状態はいずれ終わりを迎えなければならないもので、それは早ければ早いほどいい。
アイアはコンビの片割れとして愛子を諫める必要が、義務があると思った。
「数年です。数年もたてば愛子も大人に、文也も仕事を持ちましょう。あの親御です。順風満帆とは行きますまいが、少なくとも今やっているようなことよりはずっとましな、法に触れぬ逃避行というものもございます」
なんとなく愛子を刺激せぬよう言葉を選んだ。
「おばけなのに法律気にするんだね」
愛子はアイアを見ずに言い放った。
「いやまあ、わたくしは確かにおばけですが。その、法治国家ですし」
アイアは愛子をじっと見つめた。
「でもだめ。お兄ちゃんを看病してあげないといけないし」
相変わらずアイアを見ず、愛子は文也の口におにぎりをあてたり、口元をワイシャツの裾で拭ってたりして、そして微笑んでいた。
「なればこそ、文也を医者に見せねば。こうしていてそのものの何が良くなるというのです」
愛子をわからせなければならない。
なので語調を強め、叱りつけるように言ったつもりだった。
しかし己の発した言葉は意外にも弱々しく、しかももしかしたら震えていたかもしれない。それに気づきアイアは困惑した。
「お兄ちゃんはね、私と離れたからこうなったの。だから、私が一緒にいないといけないんだけど、今はこの方法しかないでしょ。ね」
そう言ってアイアを見て、しっかりと見てにっこりと笑った。
「何を言ってるんです?治せるんです?」
「そばにいなきゃ」
「母御は愛子を人間ではないと言っていました。愛子、文也に何を…」
ここにきてこの一連のこと、気配を絶った、自分よりもはるかに格上の存在による出来事なのではないかと。とうに除外したはずの考えがよぎる。
「私は何もしてないんだよ。アイアちゃん、信じて。でもね、なぜだかこうなっちゃうの」
愛子は眉を下げ、困ったような笑顔で優しく言った。
アイアはそれに何も言い返せなかった。凄みがあるように感じた。
その一方でとても寂しい言葉だった。
だから余計に、「はい」と何に対するものかわからない返事以外、何も言うことができなかった。
しばらく、時間をかけて文也にようやくおにぎり一個を食べさせ、そしてコップに注いだ水を飲ませる愛子を眺めた。
その間無言で、机の上でじっとしていたが、ぬいぐるみのようではなかった。
「そろそろ帰ります。おじ…、あのおしゃべり男もあまり家を空ければ不振に思いましょう。もしあれのもとにこのことが伝わっているなら、わたくしも手伝うそぶりを見せねばなりません」
アイアは無表情にそう言った。
「ごめんね、アイアちゃん。こんなことに巻き込んで」
笑顔だった。美しい笑顔。
申し訳なく思っているであろうことはわかる。その言葉の奥に500年生きたアイアにも判別できない感情があるのを感じた。
しかしなんだか、こともなげに言っているようにも感じた。
「本当に、もう無理しなくていいからね。ごめんね」
きっとこの言葉も本心なのだろう。
「おじさんがこのことに首を突っ込むのなら、わたくしももう、そう頻繁には来れませぬ。金は十分に渡しております。無くなる頃にはまた来たいですが。わたくしからこのことを人に話すつもりはありませぬが、いつばれないとも限りませぬ。上手くやりなされ、上手くいかぬのなら、それも良い。むしろそのほうが良いとすら思っております」
愛子の目を直視できず、胸元あたりを睨みつけるように言った。
「やさしいね」
「愛子が意地悪なのです」
アイアは拗ねた顔をした。愛子は申し訳なく思ったが、でもなんだか笑えた。
「合言葉はもうやめましょう。何かもっといい合図を、次来るまでに考えておきます」
「わかった。でもねアイアちゃん、これだけは知っておいてほしいんだけど」
愛子は神妙な顔を作り、アイアは身構える。
「深江さんのおなら本当にいい音だったんだよ、おならなのに品があって。映画とかそういう、音響効果界隈に革命をもたらすような」
何を言うかと思えばくだらないことだった。
アイアはよくこんな状況でふざけられるなと眉間に皺を寄せる。
そして「知ってますよ」と愛子を睨んだ。
見送りは結構と言ったのだが、愛子は車までついてきた。
外は暗く、人気のないもぬけの別荘地。何も気にする必要はなかった。
「かっこいいね、速そう」
その言葉にようやく「そうでしょう」と笑顔を作って返すことができた。
「100キロ出る?」
子供っぽい質問だった。
「出ますが、かなり無理をしますな。60キロ以上は出したくありませぬ」
とのこと。
車に乗り込むアイアに愛子は顔を近づけた。
「ところで今日って何日?」
アイアは愛子を見て「10月15日です」と答え、ぎょっとした。
「ありがとう」と返す愛子の笑顔。
その吸い込まれるような笑顔はとても、とても人の心を不安にさせるものだった。
アイアを見送った後、愛子は文也を奥の座敷に連れて行った。
ベッドルームは2階にあったが、文也を連れていけないためマットだけをベッドからはがし、それを座敷に置いていた。
大きな毛布も一枚。幸いに二階にあったそれらのカビ臭さはそう気になるほどのものではなかった。
「お兄ちゃん、夜だよ。寝ようね」
時間はたぶん午後9時くらいだと思う。
時計がないから正確なことはわからない。
愛子にはどうでもいいことだった。
文也はかなり痩せていたが、それにしたって子供の体で随分と慣れた手つきでその意思のない体を自分の肩にもたれさせ、上手にマットの上に寝かせた。
毛布を掛けてやり、畳の上にぺたんと座り、寝ていても起きていても大差ないその姿を愛おしく眺めた。
そして手を、するりと毛布の中へ滑らせ、兄の手を握る。
「一緒に寝よっか」
そう言うとマットの横から自身の体を滑り込ませ、文也の横に並んだ。
仰向けの兄にぴったりと体を寄せ、その横顔を眺める。
なんだか物足りなく、ぐいっとその体を自身の方に引っ張るが、その意図に反し兄の体はこちらを向かず、顔だけがこちらを向いた。
目が開いていた。
私をまっすぐに見ている。そう思った。
真顔だったが、もともと冷静で感情を大きく表に出さない兄だ。
自分の知っているいつもの兄。とはいえずっと目が合っているのに何の反応もしないその姿がおかしく、愛子は体を丸めながら文也に体をくっつけ、くすくすと笑った。
しばらくそうして、その顔を撫でると、何か思いついた。
手を伸ばし文也の足をつかむ。
そしてそれを動かし自分の腹に当て、ぐいっと引き寄せた。
「うわあ」
わざとらしく声をあげて愛子はマットから転がり落ちた。
高さは10センチほどで、しかも畳。
痛くもなんともなかったが、カビ臭さが鼻をくすぐった。
仰向けにしばらく天井を見た後、兄の方へ体を向ける。
マットに隠れ文也の顔が半分だけ見えていた。
半分だけ見える顔の、ひとつだけ見える目。それはずっと自分のことを見つめている気がした。
愛子はまた体を丸め、くすくすと笑った。
時々止めては兄を見て、そしてまたくすくす笑った。
眠らなかった。
眠らずに、ずっとそうしていた。




