4-03 記憶:指切り
酒が切れたとき、まるで幼子に戻ったような喋り方で、ときおりベニヒは思い出を語るときがある。神に関する事柄であれば大体がグリエの記憶にも残っているが、学舎や狩猟を経ていつのまに忘れてしまったものでも、彼女はすべてを大切に記憶していた。
対してグリエにとって、どうしても忘れられないキクジン村の記憶はたった二つだ。初めてベニヒと顔を合わせた時の彼女の微笑み。そして村を追われた夜、前を走るベニヒの背。
もう二度と神に会うことはできないのだと思った。その夜で神との全てが終わったような気がしたのだ。しかし、その予感は間違っていた。覆されたのは六年前の寒の季節。そして神の宣言が行われた三日後、エリギでのことであった。
「まず初めに謝らせてください。わたしは、あなたたちにとても酷いことをした」
顔をあわせるなりベールを脱ぎ捨て、その大きな瞳から大粒の涙をこぼし始めた神は、最後の記憶に比べ随分高い位置にある頭を、深く深く下げた。シフォルアの民に席を外させた意味にようやく気付く。こんな森の奥深くまで来て、神ともあろうお方がどういうつもりか。湧き上がってくる苛立ちを、慣れぬ正座とともにこらえる。
「あなたに捨てられたベニヒが、いままでどういう気持ちで過ごしてきたかお分かりですか」
同じ記憶に、同じ体。なにもない空間を捻じ曲げて作成された同一体には、しかし個性があった。二月の精錬により得られる力は、神にたったひとつ近づけるだけで万能とは程遠い。ともにいた期間は短くとも確かに兄弟だったベニヒたちの中で、グリエはとびきり境遇への反発心が強かった。負けず嫌いといえば聞こえはいい。
「せめてなにか一言置いていってくれればベニヒもこうはならずに済んだのに、皆は死なずに済んだのに。なぜ」
制止する隣の声を無視する。ぽろぽろと次々と神を責める言葉が止まらない。今まで積み重ねてきた鬱憤をすべてなすりつけても、神はしかし言い訳ひとつしなかった。その様子に、グリエの心はじくりと痛む。
「もっと、もっともっと酷いひとなら、僕はあんたのことを嫌いになれるのに」
痺れた足ではろくに立ち上がることすらできない。殴りかかることもできず、渋々と腰の位置を戻す。
「……今までどこにいたんですか」
グリエの問いに神は、ためらいつつも、雲のある世界にいた。と言った。新しい居場所を見つけたときのこと、ときおりベニヒたちのことを思い出すこと。神はいつの間に行儀悪く足を崩し、少しずつ今までのことを話してゆく。魔力のない世界。代わりに科学が発展しており、携帯電話なるもの、冷蔵庫、暖房などといった便利な道具がたくさんあること。そしてその世界で、自らの力に出来る限りのことをした結果、得たものが人としての死だったこと。目がさめると再び、こちらの世界に戻ってきたということ。
ベニヒも神に対しては非常に口が緩いタチで、狩猟ギルドでのことを余すことなく話してゆく。しかし神が心を痛めるとわかっていたか、己がキクジン村を追われた日のことは話さなかった。話さなくとも神に察しはついている様子だったが。
そうしてある程度の話を終えた頃に、ずっと気になっていたことをグリエは口にする。
「座り方、気をつけたほうがよろしいですよ。神としての気品を常に意識しなくては幻滅されます。 言葉だけしか学ばぬ状態で村を逃げ出たからです」
「あら。そうしてあなたに注意をされる日が来るとは思いませんでした。でもベニヒ……いいえ、グリエ。あなた達の前でくらい、気を抜いたっていいでしょう? 仲間と共に楽しそうにやっていることを聞けて、わたしは非常に安心しているんです」
緩やかな弧を描く薄い唇に、心臓がどんと高鳴った。
「わたしがいない方が、あなたたちは幸せになれる。あの日の確信は、やはり間違っていなかった。そう、わかって」
その言葉に立ち上がったベニヒの手から、酒瓶が零れ落ちる。地面とぶつかったそれは、大きな音を立てる。グリエの感情とベニヒのそれが珍しく合致した。この神は一体何を言ってるんだ。
「私がシフォルアに送られたあとのあなたたちは、どうなるか知っていますか」
小さな声に首を横に振る。普通の村人として、生活を再開するものだと思っていたが……違うのだろうか。しかし答えをいうことなく、神は眉を下げて微笑んだ。
「ベニヒの心に残った深い傷はわたしの浅はかな行動が原因なのでしょう。けれど、もう一つ。愚行を許してください」
言葉とともに小指がすいと持ち上げられる。意味不明な行為でありながら、彼女にふざけた様子は見受けられない。
「約束を、して欲しいのです。二人とも。これから先も幸せに生き続けると。そして————」
そこまで語ったグリエは息を飲み込んでうつむいた。右の小指を撫でる手が震えている。心が痛んだ津島は話をやめさせようと息を吸ったが、空はそれを制する。
「そして?」
「自ら命を絶たないことを。次に会う、その日まで」
部屋に静寂が落ち込んだ。ベニヒの部屋から衣摺れの音がわずかに聞こえる。
俯いた空は、自身の前髪を鷲掴みにして深いため息をついた。続けて二度目のため息も大きく響き、次に吐かれたつぶやくような声は、震えていた。
「……別人だ。早まった」
「空、君はね、本当にサエとそっくりなんだ。容姿以外にも神の子である証拠なら山ほどある。 君が神だと疑われていたことを忘れたとは言わせないよ。 軍からも、この探知機からも」
ころりと机に転がされた白い球体に見覚えがあった津島は小さく声を上げる。
「君たちがジュデグナ砂漠に行っている間にも鳴った。なにかしたでしょう、それこそ気候を変えるような。……ひとつ言っておくとサエは望んで姿を消したわけじゃない。神としてこの世界になった。今、完全に弱ったベニヒを生かしているのは、サエと交したあの約束だけだ」
「ベニヒさんが指切りげんまんを持ちかけた時点で、もう確信があったんですね。普段はお酒でごまかしているんですか?」
津島の言葉にグリエは頷く。
「あの正体は隣国バクサアロ領セロ・テルコスピーリアから仕入れた第二層目の水だ。言うなれば、強い麻薬。脳を麻痺させることで思考力を奪い、苦痛を緩和させる。幼い頃からの習慣でね、効果が続く限り心の柱が折れていることを忘れていられるんだ。ただ、呑み続けるのは身体に良くないから、週に一度 休肝日を二日間作らなくちゃいけない」
「それが今ってことですね」
グリエは再び頷いた。津島が体制を変えたことで、椅子がぎしりと悲鳴を上げる。
「僕たちは神を探している。僕に死ぬ気はないけれどベニヒの体はもう限界なんだ。……そう、初めてカズに会った時、君は雲という言葉を口にしたよね」
津島に、複雑な感情を織り交ぜたグリエの視線が絡みついた。喧嘩腰であったことが嘘のように萎れて、気圧されてしまいそうな威圧がある。なにを言われるかと身構えた津島だったが、それも虚しく、度肝は簡単に抜かれてしまった。
「僕たちの仲間になって欲しい。いまの僕に縋れる神の手がかりは君たちだけ。僕は再びベニヒと神と会わせるために、君たちを利用したい」
「自分は宓浦家に一切関わりないですよ?」
怪訝な表情に対し間を空けず頷くグリエに迷いはない。過去を話した今なら、目的を隠す必要もないというわけだ。ならば答えはひとつ。
「ではお言葉に甘えて」
笑ってみせると、グリエはぽかんと目を見開いた。おや、と思う。遠慮するべきところだったろうか。
「お金が少し必要なんです。帰る手がかりを探すためにいろんな場所に行きたくて。それに、こんな話を聞いてしまったらベニヒさんのことが気になってしまいます」
自分が気にしたところで、どうにかなる話ではないですけど。と津島は言葉を続ける。
「目的が前面に出た、わかりやすい言葉はとても好きです。グリエさんは自分を利用したいと言ってくれました。あなたたちの力になれるのならばなる。それが今回、過去の話をしてくれた礼になるんじゃないかと思います」
前髪のピンへ手をのばしかけてグッとこらえた津島は、目の前の黄色い瞳を見据えた。そして、差し出された右手を握り返す。
「至らない点多くありますが、どうぞ宜しくお願いします」
————
「空」
ブラウからの帰り道で、無言の空気を津島が破った。転送門をくぐるときも難しい顔を崩さずにいた空はわずかに顔を上げる。
「空のお母さん——冴さん、だっけ? すごい人だったんだね。神様なんて」
「予想外だった。神って……そういうものじゃないだろ。日本人かよってなるし」
「世襲制かも。この世界の次の神様は空だったりして」
あえておどけてみせると、空は眉を下げて笑った。声の調子が軽くなる。
「冗談じゃない! 俺は御免だぜ。話は変わるけど津島、俺が母親の話をしたとき、なにか言いかけただろ。何を言おうとしたんだ?」
何日も前のことを掘り返され、津島は口角を引きつらせる。所詮自分語りだ。今回の件への関わりは薄いし、得られるものはなにもない。わずかに躊躇していると、空はぺちんという音と共に両手を合わせた。
「散らかった頭を落ち着けたいんだよ、頼む」
特に気を使っての言葉ではないようだ。ならば、と津島は遠慮することをやめる。ここで変にためらって、機嫌を損ねさせても良くないだろう。
「自分の家庭環境は、空のものとよく似ている……って言おうとした」
「あ、なるほどね。津島も母親が?」
「ううん、お父さん。自分が生まれる前に姿を消したらしい父親。そして存在を確認できない母親。育ての親をおかあさんと呼べば、私はあなたの母じゃないって怒られた。学校の話をすれば苦しそうな顔をする。あの人が自分をみる目はいつも自分を通り越して父を見ていた。今思うと当然だけれどね、この体質じゃあ」
ここまで家庭環境が一致することがあるだろうか。津島は初めて空の話を聞いたときの高揚感を思い出し、心臓をそっと押さえる。空の目は、言葉を発さずとも「信じられない」と語っていた。しかし、本当だ。本当なのだ。
津島和音の育ての親は父親の友人だった。そのことを八歳の津島に語る彼女の顔はひどく寂しそうで、その瞬間に彼女から父へ向けられるものと同じ大きさの愛情を受け取ることが叶わないと悟り、悲しくなった。小さい頃からなにかに重ねられていることを感じて生きていた。自分には家族から愛される価値などないと知った。だからこそ自身へ愛情が向けられる小学校は大好きだったのだ。空とは違い、人のことは好きだったから。
育ての親の前では無害を決め込んでいた。できるだけ喋らず、居場所は部屋の隅。誕生日だってなにも求めなかった。遊園地に憧れる気持ちは、ないといえば嘘だった。
「父親への不満は?」
「あったけど体質だけ。殴ろうなんて発想はなかったし、父親みたいになれていない自分が悪いからだと、卑屈になることでずっと逃げていた。だから、立ち向かおうとする空がすごいなって思ったんだ。魔物が苦手なのに狩れるようになろうと、努力するメリィさんも、かっこういい」
変に喉が震えた。まずいと思いながらも感情が抑えきれない。鼻でズビ、と間抜けな音が鳴った。
「別に立ち向かおうとなんてしていないぜ、俺は気にいらないだけで」
「そんなこといったら自分だって気に入らないもん!」
体の中で一つの感情が破裂し、津島の声が森に響く。目を丸くする空を見上げて、首を大きく横に振った。
「自分が何をしたっていうの!? どうして好きになってくれないの!? お父さんはなんで自分を捨てていなくなってしまったの? 化け物だからって、化け物だからって! そう産んだのはお父さんなのに!!!」
「津島、落ち着けって……他の人に聞こえるぞ」
その言葉と共に差し出されたハンカチに、津島の動きは止まる。そこで初めて、彼は自分の顔から涙やら鼻水やらが垂れ流しになっていることに気がついた。話しているうちに感極まってしまったのだ。
「そ、空って、いつもハンカチ持ち歩いてるの? 凄——」「ばか、そうじゃないだろ」
津島の顔にハンカチをこすり付けた空は、そのままにが笑う。
「人から好かれるって簡単だと思うけど、それはお前の欲しい好きじゃないんだよな」
「うん。結局は自分の問題なんだ。信頼されるくらい好かれるためには、自分から好きになるしかないって、本当はずっと前からわかっていたけど……。ごめんなさい、自分の身の上話を聞かせてしまって、その上お母さんの話を聞いて混乱してるだろうに、慰めさせちゃった」
受け取ったハンカチで顔を拭う津島の隣をすり抜け、空は歩き始める。
「いいや、謝ることはない。目の前で泣かれると、人って一周回って冷静になるものだな。今回だって悩んだところで解決するようなことじゃないって思える。住む場所がまたブラウに戻るだけだ」
神の宣言があった年は六年前という話だが、年の長さが一定でないこの世界では年などなんの基準にもならない。果たして冴は日本から姿を消してすぐにこちらへ来たのだろうか。それともしばらくしてから、姿を現したのだろうか。
「グリエさんの言葉が本当なら、冴さんはこの世界にいるってことになるよね。帰る方法と一緒に探してみようよ」
「別にそこまでしなくてもいいだろ」
空の声色が目に見えて低くなった。どうして、と尋ねる津島に振り返ることなく、彼は歩き続ける。
「帰る方法だけを探すべきだ。俺はそこまでして冴に会いたいわけじゃないし」
「嘘だ。同じ高校にまで通っておいて、」
精一杯張った声を遮る嘆息。「あのなあ」と空は半目でねめつける。
「そもそも帰る方法だって見つかるかわからないのに、神に会うって途方もない目標まで増やしてどうするんだ。二兎を追うものはなんちゃらって言うだろ」
「神様に会う当てなら、あるでしょう」
言い切れば、前を歩く空の足が止まった。津島を振り返る前髪の隙間から覗く茶色の瞳は、すでに次に続く言葉へ察しがついていると、語っている。
「二月の精錬ならお断りだぜ。グリエさんの話、ちゃんと聞いていたか? 」
キクジンに行く気にはならないと、その顔は語っていた。しかしいくら危険とはいえ当ては少なく、すがるほかない。万が一住民に見つかった場合どうなるか想像もつかないが、基本人が近寄る場所でないことはグリエの口からも語られている。空は頭を抱えて息を吐き出した。
「冗談だろ、俺の目的なんかにそこまですること」
「本気だよ。自分の目的だけ果たされてもなにも嬉しくないもん。冴さんに会いに行こう、自分も興味あるし……土地神様なら、日本のことも知っているかもしれない。なんだったら自分だけで行くよ。どうせ何されても死なないんだ」
あえて煽るように言えば、空は眉根を寄せた。
「俺の問題なんだから俺が行く。……ありがとう」
「や、やだな。そんなお礼なんていらないよ。むしろそうだな、約束してほしいかな」
小指をあげれば、内容を言っていないにもかかわらず不思議そうな顔と共に挙げられる同じ指。照れ臭さで顔が赤くなっていないだろうか。今更になってそんな不安が頭をもたげた。
「空にやりたいことがあるなら自分に遠慮なんてしないでやること! 今までずっとそうだったでしょう。自分のことを置いてぽぽーんに入ったりしていたのに……今回に限ってどうして? 自分は自分のせいで空に後悔とかそういったものをしてほしくない」
思い切って目を合わせれば、虚をつかれたような茶色の瞳が津島の小指に注がれていた。嫌ならこちらから行くまでだ。中途半端な高さに挙げられた小指に自分の指を絡ませる。
「指切っ——」「ちょっと待って」
力づくで解かれた指に落胆する。やはりダメか。自分なんかに気を使われて、いい迷惑だっただろうか。恐る恐る顔を見上げれば、しかし空が浮かべている表情は決して騒がしくなく、優しさが前面に出るような笑顔だった。
「俺からも、同じことを取り付けさせてよ。津島は津島のやりたいことをやること。 俺に遠慮しないこと。普段のおどおどしているときより、思い切ったときの津島のほうが格好良くて俺は好きだぜ」
気持ち良く笑った彼の小指が、津島の小指に触れる。
「————は」
その瞬間、弾かれるように意識が覚醒した。頬にぴりぴりとした寒さを感じさせる森から一転して、視界全てが石に覆い尽くされることへ、ここまで焦燥を覚えたことは初めてのことだ。鼻をこすっても水が出た様子は微塵も残っていない。
寝心地の悪いベッドから逃げるように転げ落ち、水を口に含む。コップをささえる小指から目線が離せない。借りて鼻水まみれにしたハンカチはどうしたっけ。空は、今無事なのだろうか。
隣人がなにか言っている。耳鳴りですべてをかき消されてなにもわからない。申し訳なさを感じる余裕すら。
日を経るにつれて弱くなっている照明が津島の心を表すように一瞬だけ瞬いた。最初は闇に覆われていた牢の角からはここのところ影がなくなってきている。それは、暗さを司る魔力が本格的に機能を停止しはじめていることを意味していた。
年末がすぐそこまで近づいている。




