4-02 記憶:エッシェー
「失礼します、ソラリスさま」
四重に閉ざされた襖を順番にくぐりぬけ、最後の間で声をかける。
「どうぞ。……今日は どのベニヒ?」
「わたしです」
舌ったらずな幼い声に応える。百何十日前から続けられている、ベニヒの————ベニヒたちの、習慣だ。
キクジン村。それは、神が姿を現わす地。終わりの時代が開けて以来、初めて姿を見せた神はこの村で守られるようにして育てられていた。十日を一節とする等間隔の暦で数えること百節だけが、ここキクジン村に与えられた使命の期間。その間に村は、神に世界のこと、人間のこと、そして言葉を教えなければならない。なにせ姿を現した神は成熟した大人ではなく、姿も中身も子供であるからだ。
「やっときてくれた! わたしのしってる ベニヒ! ねえ、わたし おそとに出たいの」
「それは」
「きょうもダメなのね? つまらないわ、とても」
決まった言葉を最後まで聞くことなく諦めた神は、ぽてんと畳の部屋へ寝転がる。子供一人の体躯にはあまりに広すぎるこの神殿だけが、いまの神にとっての全世界。教育の百節を終えてシフォルア街へ受け渡すまで、彼女を外に出すわけにはいかなかった。怪我ならまだしも、魔物と遭遇などされてはたまったものではないからだ。
頭を覆う薄いベールで器用に顔を隠したまま部屋をごろごろと転がる神へ、ベニヒは声をかける。
「ソラリスさま。絵本はいかがですか、いっしょに読みましょう」
「きのうのベニヒとも よんだもん」
「聞きました。なので、別のものを持ってきたんです」
ふろしき包みから紙の束を持ち上げれば、神の顔がわずかに輝く。かつては考えられない光景だと、どこか遠い場所にある心で思った。それは神が初めて姿を現したときのこと。正しく言えば、出現してから最初の二節のことだ。二節とはつまり二十日の間、神は誰一人として近づくことを許さなかった。土地神を祀る祠の脇で、厚い結界と詠唱のない魔法構文を民に振りかざす神は、まるで自分の身が守れることを証明しているかのように周囲をひどく警戒していたのだ。あるべき役割を果たせない非常事態へ民はやがて平静を失っていった。
ベニヒが結界に近寄ったのはそんな中のことだった。一目見てみたいという幼子ゆえの好奇心で、思春期すら迎えていない小さな体躯を見張りの合間へ差し込んだ。キクジン村で魔法構文を使える人間はほとんどいない。神様の魔法構文にも興味があった。しかしそんな余裕は、結界に近寄るにつれて吸い取られていくようだった。非常に細かく練り上げられた結界に立ちすくむ。それは魔法構文に明るくないベニヒですら一目でわかるほど高度なものだった。結界は高頻度で張り直しを行っているようで、周囲の魔力鮮度が格段に低くなっている。なぜそこまでして人を寄せ付けたくないのだろうか。浮かんだ疑問と共に、ベニヒは半透明に揺らめくドームの中心へ目を向けた。幼い少女が小さく体を震わせている。
喉からとっさに、大きな声が出た。
「泣いてる! かみさま大丈夫? どこか痛いの!?」
悲鳴に似た小さな声が届いたのだろうか、神のシルエットが緩やかに顔をあげた。そして緩やかに立ち上がり、ベニヒへ一歩足を踏み出した。結界が解かれる。緊張感が消え、それまで張り詰めていた意識が滑って膝が折れる。壁の奥から姿を現した神は、倒れこむようにしてその腹へ顔を埋めた。
そこからの記憶は残っていない。心臓が暴れ上昇する体温、鼻から漏れ出す赤い液体、ぎょっと目を見開く神の顔を脳の奥に刻み込んで、ベニヒは意識を失ったのだ。
ベニヒは神様の目付け係になった。やっとのこと神殿に足を踏み入れた神はそれでも、ベニヒ以外の人間を近寄らせなかったからだ。食事も、身の回りのお世話も、教育も。キクジンの役割はすべてベニヒ一人に任せられたのだ。
意識を取り戻したベニヒに告げられたその事実へ、一番に感じたのは焦りだった。大変なことになってしまった、と。しかし最初は不慣れだった世話も日に日に慣れ、神がすきな食べ物を教えてくれるたび、難しい言葉を訪ねてくるたび、朗読をねだられるたび、ベニヒは神のことが大好きになっていった。小さな村では限られる人間関係に、新しいピースが加わったのだ。一人っ子だったベニヒにはまるで妹ができたようで嬉しかった。神殿の脇に設けられた世話役のための小屋で眠る時間がうっとおしく、神との時間が楽しみで仕方がなかった。
しかし世話係の仕事は赤子を育てるものと変わりない。いくら楽しくとも、年端もいかない少女一人の薄い肩には重すぎた。十節……つまり百日を超えたあたりから目に見えて疲弊しはじめたベニヒ。村の民は、それでも神に近寄ることは許されなかったがために、彼女にある二月の精錬の力を使用する決断を下す。間もなくしてベニヒは過労で倒れ、次に目覚めた時にはもう十五の日が過ぎていた。
「存在複製……って? わたしが四人って? どういうこと? そんな、そんなのって失礼よ! ソラリスさまを騙すってことでしょう!?」
自室で目が覚めるや否や聞かされた話に、ぞっとした。存在複製とはそのままの意味だ。自分と同じ存在が作られる。運動能力や容姿、記憶、性格すべてが同じ存在が。終わりの時代以前の技術でさえ不可能とされていた命の生成を、二月の精錬にて得られる方法でならできてしまう。簡単にとはいえないけれど。
動揺を隠せないベニヒを見つめる父と母の目は、それはそれは冷たかった。
「責務を背負っておきながら倒れた者に、口出しの権利があると思うのか」
「そんな、お父さん……い、今はわたしの偽物がソラリスさまの元にいるっていうこと?」
「あれもお前と同じ、責務を果たすための命だ。偽物などとは言わないことだな」
言葉を残し部屋を出てゆく父に、ベニヒはその言葉の冷酷さを理解する。
「わたしは……神に仕えるという責務以外に、存在価値はないってことなの」
「……これを食べたら神殿に戻りなさい」
母も、質問に答えることなく部屋を後にした。
狭い部屋でぽつりと取り残されたベニヒは泣いて、泣いて泣いて、枕元の食事には手をつける気分になれず、そのまま家を飛び出した。
なにも特別なものはない、ただの子供のはずだったのに、なぜ、親はあんな目でわたしを見るのか。なぜ自分は神様に嫌われなかったのか。当時は少し嬉しかったこと全てが、呪いたくなるほど嫌になった。
「ベニヒ。もう体調は」
偶然にも数少ない同年代の友人、レヨン・セルパータに道端でかちあった。懐かしい顔に悲しくなって、言葉を最後まで聞くこともなく飛びつく。考えてみれば彼と最後に顔を合わせたのは神を見に行く日の前日。もう百日以上も会えずにいたという事実にさえ、悲しくなった。事情を話す余裕もなく泣くベニヒに、優しいレヨンは自分の服がべたべたになることを気にすることなく、人通りの少ない木陰にてずっとベニヒのそばから離れずにいてくれた。天が暗くなり、ベニヒが落ち着いたのを見計らったレヨンは、まるで妹を扱うように頭を撫でながら口を開く。
「ここの住民は皆そんな感じだ。たかが嫉妬で子供を突き離すなんて……腐ってる」
「レヨン、わたしは」
「……僕はいつかこの腐った村を出たい。ベニヒとルパの三人で」
「わたしも入れてくれるの、優しいね。レヨン少し見ない間になんだかおおきくなった気がする」
「ん、身長のことかな? ルパがどんどんやんちゃになってきてね。僕もまけられないなーって。そういえば最近越してきた子がいるんだけど、珍しく同じくらいの歳でさ、またその子の————っと、いけない。お母さんの声がする、帰らなくちゃ」
遠くから聞こえるレヨンの名を呼ぶ声に、ベニヒは頷く。
「こんな時間までありがとう。ちょっとすっきりした。服……ごめんね」
「気にしないで。また今度聞かせて、神殿での生活はどんな感じかを」
手を振り、慌てた様子で遠ざかるレヨンの背を見送ったベニヒは、彼の言葉を頭の中で反芻する。村を出ようと彼は言っていたけれど、ベニヒの命が責務を果たすためのものならば、それが果たされたあと————神がシフォルアへ送られたら、どうなるのだろうか。その時にはまた、笑って親と暮らせるようになるのではないか。神がこの地から居なくなればきっとまた愛してくれるはずだと、幼いベニヒは信じた。そのためにも頑張って生きようと立ち上がり、どこかへ逃げたがる足を無理やり神殿へ向ける。
神殿の傍に設置された世話役用の小屋。その窓から漏れる灯を前に、ベニヒは唾を飲み込んだ。この中に自分の偽物がいるのだと息苦しくなる。しかし、震える手で扉を開けたベニヒを迎え入れたのは、同じ顔でありながらも随分しおらしい様子の少女たちだった。
「あっ、あの、お……おかえりなさい。その」
どうやら彼らには複製されたものとしての意識があまりに強く根付いているらしい。どうしようかともじもじしている自身の複製たちへ、ベニヒは緊張を解くことにした。浮かべるのは笑顔だ。
「話は聞いてる。ええと……ごめんなさい」
かわいそうだと、ベニヒはおもった。彼らだって被害者であり、自身と使命を共にする仲間なのだ。姉妹ができたものと、考えることにした。
ベニヒが居ない間の神の様子を引き継がれ、明日からは五人で当番を回す話がまとまる。複製されたベニヒをはじめて見た神が「あなただれ? ベニヒじゃないでしょ」と断言した話にベニヒは飛び上がった。神を抱きしめたい気持ちが湧き上がる。そんな無礼は当然、ゆるされないわけだが。
翌朝、数日ぶりに廊下で膝を降り、扉越しに神へ声をかける。
「どうぞ。きょうは どのベニヒ?」
「わたしです」
ぶっきらぼうに投げかけられた質問で、ここ数日他の四人のベニヒとの付き合いかたを察する。妹のように抱っこをねだった声色が、すっかり落ち込んでしまっているではないか。やはりわたしがやらなくては。と、嬉しくなって扉を開けたとたん、ベールの下に薄く伺えた神の嬉しそうな顔は、ベニヒにとって一生忘れられないものとなった。
「ベニヒ! ひさしぶり。今日は わたしのしってる ベニヒだ」
わざわざ立ち上がって出迎えてくれる神の可愛いこと。
「ソラリスさま。今日は本を持ってきたのです。いっしょによみませんか」
「きのうのベニヒとも よんだもん」
「話は聞いています。なので、別のものを持ってきたんですよ。少し文字が多いやつです」
カバンの中から引っ張りだしたのは、幼い頃自分が母に読んでもらっていた絵本の数々。神の笑顔が見られるなら、母親の冷たい目線も忘れられそうな気がした。
「これなんてどうですか?」
一冊の本を示すもその顔は浮かない。
「どうしました? どこか体調が……」
「ベニヒは、わたしがいるから びょうきになったの?」
その質問へ、ベニヒの動きが止まる。
「同じかおの べつの人が くるようになったのも わたしがいるから」
「ち、違います。それは違いますよソラリスさま。わたしが、ちゃんと自己管理をできていなかったから……」
「じこかんり……そう。ならいいのだけど。それよんで」
「わかりました、ソラリスさまって……あの」
神は腕を乗り越え、ベニヒの膝の上に座り込んだ。体と腕と絵本ですっかり神を囲ったかたちになる。
「これくらいいいでしょ。ひさしぶりの ベニヒだもの。さ、早く早く」
膝の上で急かすようにぺちと腕をたたく仕草が可愛くて、ベニヒは顔を緩ませながらページをめくった。
「わたしね、ベニヒのこと。すごくやさしい人だとおもうの」
読み終わった絵本の感想を言うかと思えば、突然そんなことを言い始める。どう反応すればいいかわからず、膝の上の温もりに体をこわばらせた。
「なのに こんなばしょから はなれられなくて かわいそう。ベニヒみたいな人は もっと たくさんの人から あいされてほしい。……わたしが ベニヒから もらっている ように」
舌ったらずな割、すらすらと言葉を吐き出す神に、ベニヒはなにも言えなくなった。
「さいしょ、みんなの わたしをみる目が へんだった。こわかった。でも、ベニヒの目はちがったの。しんぱい してくれた。どこかいたいの? って……」
それが嫌われなかった理由かと、ベニヒは腑に落ちた思いで相槌を打つ。
「本当に心配だったんです。こんな強い結界が張れるのなら神殿なんて不必要では、とも思いましたが、それじゃあ気が休まりませんものね」
「わたし、ベニヒのことがすき。もう びょうきなんて しないで」
「当然です。ソラリスさまがわたしを必要としてくれるのなら、いつまでも元気でいますとも!」
顔を見合わせて互いに笑いあう。こんな幸せな日が続けばいいと思った。この宮殿はわたしとソラリスさま、二人だけの城だ。
しかし、いずれ神はシフォルア街へ行き離れ離れになってしまう。その現実を思い出すたび胸が締め付けられるほど苦しくなった。そんな日が二度と来なければいいと思ってしまった罰が、降りたのかもしれなかった。
澄んだ空気が心地よかったその夜に、神は姿を消した。
神が消えた理由を、キクジンの村の民はベニヒと決めつけた。最も神に接触しやすい人物であり、最後に神と接した人物でもあるからだ。弾劾され、しまいには刃を向けられ、五人のベニヒは逃げ出した。彼女だって、その理由が知りたかった。神が姿を消したことを証明するかのように季節が表情を変えている。早まった雨期を知らせるべくぬかるんだ地面を逃げながら、涙をぬぐって神の名を絶えずつぶやく。
「あなたまでわたしを捨てるのですか」
あんなに愛していたのに。好きと、言ってくれたのに。……後ろからついてくる仲間も次第に減り、しまいには残り一人になってしまった。
逃げ切れなかった一人は首を切られ、一人は胴を切られ、もう一人は酷いことに、体を縦に割られて死んだ。割ったのが父親であることに対して、なにかを感じていられるほどの余裕はすでにない。それでもここで諦めて殺されるわけにはいかなかった。なぜなら、神と約束したから。ずっと、元気でいなければならないと。
後ろから聞こえる大人たちの声に涙が溢れる。子供の心が砕けるのに、それは十分すぎるほどの敵意だった。




