3-29 メリィ
彼女は魔法構文を唱えることが好きだった。自分にも魔物を退ける力があるということを実感できるから。戦う人に手助けができるから。
彼女の名前はメリィ・ターナ。
ターナ家の長女である。性格は母親から、見た目と魔力を扱う力は父から引き継ぎ、髪と瞳も両親と同じ色で生まれてきた。しかし彼女には両親やその上の親からも引き継げなかったものがある。
それは、魔物と対峙するための勇気だ。
「メリィ、どうかした?」
背後から投げかけられた声で我に帰ったメリィは、あわてて眼鏡を押し上げる。
「ごめん。すこしぼーっとしてた」
「……気を引き締めてちょうだい。あんたも攻撃の大事な柱なのよ」
ただっぴろい砂漠のなか、まるで置き去りにされたように佇んでいた大岩の影にて、メリィは戦う術を持たないシフォー・カロユの言葉に唇を噛む。本当にそう思っている? と聞き返したい気持ちを押しとどめ頷いた。
「そうだね。これはシフォー・カロユの護衛の旅、そーゆう依頼だもんね」
「その通りよ。ただ護衛をする人の中に依頼主であるあたしと同じ目的を持つ人が居るというだけ。この旅が終わったらちゃんとあんたにも報酬を渡すつもりよ。だからちゃんと守ってちょうだい。痛い思いはもうこりごりなの」
芯を持った声と共に自嘲的に笑う世界学者へ、メリィは先ほどとは正反対に力強い頷きを返した。些細な力であっても役に立てるのであれば、それは彼女にとって嬉しいことだったはずだ。砂漠に出てから突然に頼られるようになったことへ焦ったために忘れかけてしまっていたが。
彼女は魔法構文を唱えることが好きだった。その間だけいらない事を考えないで済むから。苦手なことから逃げ続ける気持ちが抜けないこと、そして自分の心が一切成長していない事への焦りを少しの間だけ忘れていられるから。
そうだ。今はごちゃごちゃと悩んでいる場合ではない。と、熱を持った空気を吸い込み魔法構文を練り上げ始める。
「こっちや! こっちおいでって! も〜、なんで見てくれへんのや、タコ!!」
よく通る声がその耳に聞入った。もはや彼女にその姿を確認する余裕はなかったが、その声の主であるチオリを始め前衛の人たちは、手のひらに乗せられる大きさに見える程に離れた距離で、魔物の気を引くために武器を振り回している。
空中をゆく魔物に地上の民はあまりに分が悪い。そのため、まず初めに魔法構文で撃ち落とす算段だ。休憩を終えた直後に襲いかかってきたその魔物へ、メリィは構文を押し放つ。宙でバランスを保っていた体が傾き、鳴き声に焦りが混ざりこんだ。
「メリィさん、ナイス!! 俺も負けてらんないな!」
互いの構文につられないようある程度距離をおいて隣に立っていた空はやかましく笑ってそう言うなり、自身の魔法構文へ戻ってゆく。
「負けてられないなんて、どの口が言うの」
嬉しくて口が緩むのを自覚しながらも小さなつぶやきが漏れる。彼の構文は独学のためかアレンジのためか非常に癖の強いものだが、同じ種類のものでも威力が倍以上大きく出ることにメリィは気がついていた。
あまりそんなことを言ってると嫌味に聞こえちゃうぞ。という喉元から出かかった言葉を飲み込み、杖を構える。もう三発ほどあてればあの翼は折れるだろう。汗のせいで顔に張り付いた邪魔くさい髪を後ろに流し、第一節目を高らかに読み上げる。
彼女は一つの疑問を抱いていた。
きゃあきゃあとはしゃぐような声を上げ、魔物の意識を集める弟 チオリ・ターナ。彼はかつては不慣れな武器に怯み、魔物の迫力に泣き、それを切り裂く感覚に吐き、溢れ出る血に気を失うようなか弱い少年だった。
突然集落にやってきた常識が曖昧な少年 津島和音だって、狩りの途中に意識を失うほど魔物へ苦手意識があったはずだ。
それなのにふたりとも現在戦えているのはなぜか。一体なにをして、戦えるように、魔物と対峙することができるようになったのだろうか。
今度こそしっかりと狙いを定め、片翼の付け根を吹き飛ばす。ついに飛ぶ手段を奪い取られた魔物は地面へと堕ち、悲鳴にも似た鳴き声を上げた。こうなれば人間の勝利はほぼ確定したと言ってもいいだろう。
彼女は魔法構文を唱えることが好きだった。それでも、いつまで経ったって魔物と対峙することへの恐怖感は拭えずにいた。
夜、火を焚かないままの夕飯を終え、明日のことを少し話して眠りにつく。
普段夜更かしなシフォー・カロユも疲れ故にあっという間に眠りにつき、そんな彼女と常に共にいる魔物 インピィもムニムニと寝言を漏らしながら尻尾を揺らしている。影でしか認知できないことがもったいないくらい、可愛らしい様子だ。
そんな空間に後ろ髪を引かれながら、メリィは枕元のメガネに手を伸ばした。起こさぬよう息を止めて、わずかに明るい外を覗く。
眠れない夜だった。疲れているのにもかかわらず目は冴えるばかり。無理に閉じた瞼の裏に映るのは誰の背中か、どうにも落ち着かず歩きたい気分だった。
ご飯が少しだけ足りない。帰って風呂をさっとくぐって、村長が作った美味しい干し肉でぐいっと一杯やりたい気分だ。
(この旅でもし、私が命を落としたらどうなるんだろう)
部屋に散乱した私の遺物を片付けるチオリたちはどういう気持ちになるだろうか? ……少し片付けてから家を出てくるべきだった。
「いや、でもエグバリーも汚いはずだもんね。もし同時に二人が死んだらチオリ大変だな。ふふ」
「……死ぬって、どうかしたんですか」
突然の声へ、全身がバネになったかのように跳ね上がった。悲鳴をすんでのところで飲み込んで、声の主を振り返る。
そこには黒い髪を夜の闇に溶け込ませた津島がぼんやりと立っていた。前髪に付けられた髪飾りだけが、やたらと浮いて見える。
「な、ななな。なんで起きてんの!? 寝なさいよ! 明日もあんだよ!?」
自分のことを棚に上げ、限りなく小さな声量で怒鳴るメリィにも、津島は申し訳なさそうに視線を落とす。
「ご……ごめんなさい。なんとなく外でぼんやりしていたら、メリィさんがテントから出てきたので……気になってしまって」
もじもじと、どこか女性らしさを感じさせる仕草と瞳の動きに罪悪感で喉が詰まった。
集落の男がそんな仕草をすれば気色悪いとけなされるだけだが、彼にそういった嫌悪感は全く感じられない。そのことにわずかな好奇心が湧いた。彼が今までどういう生活を送っていたのか、考えてみれば知らないことだらけだ。
しかし語られることを待たずに人の生い立ちへ探りを入れることは、相手を傷つけるだけだ。メリィは過去にそれを経験したことがある。ずっと昔、まだ酒の美味しさもわからない頃のことだ。
「へへ、私、人のこと言える立場じゃないね。心配かけてごめん。そんな深い意味はないんだ。ただ、部屋が汚いことを思い出して」
「自分も少し、掛け布団をくちゃくちゃにしたまま家を出てきちゃいました」
気を使ってか小さく笑う津島に目が遠くなる。そんなものの比じゃないんだよ。
「無事に戻って、恥ずかしくないよう片付けなくちゃいけませんね」
まつ毛が長い。身長も、意外と小さい。
一度気になり始めると、次々に違和感が膨れ上がる。笑う時に口に手を当てる仕草。恥ずかしくなると目をそらし、前髪を引っ張る癖がある。頭を下げる時、体の前で両手を握る。皆でご飯を食べる時も非常に綺麗にものを食べると前々から感じていた。
比較対象がガサツな野蛮人ばかりだから、と考えを打ち消そうとする。この特徴からすればベニヒだって男と分類できてしまうからだ。でも……。
「大丈夫ですよ。絶対生きて戻りましょう」
遊んでいた思考が、力を持った声に引き戻された。
「頑張ります。自分ならいざという時に傷の肩代わりだってできる。……この旅路、皆さんどこまでも軽い調子ですけど本当は危険しかないんですよね。
最初はあんなに緊張してたロユだって、チオリさんたちのおかげで今じゃすっかり肩から力が抜けてます。それを狙ってのことなんでしょうか。……だとしたらすごいです」
自分には絶対無理ですもん。と笑う津島に、メリィは我慢することができなかった。
「どうしてカズはそんなに強くなれたの」
思わず大きくなった声に、慌てて口をふさぐ。しんと静まり返った空間には、声を反射するものもなく、どれくらい周囲に響いたかすらわからない。
でも、気になってしまった。
彼は怖いものがたくさんある。それを一つ一つ克服しながら、ここに立っている。なにが怖いかまではわからないが、一つ一つの所作でそれはなんとなく感じられた。一度吐き出すと、もう言葉は止まらない。同じ質問がなんどもなんども口から零れては落ちてゆく。
「どうして、どうしてカズは」
「め、メリィさん? どうしたんですか。自分は強くなんて……」
「じゃあ、教えて欲しいんだ。強くなくても、苦手なものを克服する方法が」
メリィの震える手に気がついたらしい。津島は一瞬目を見張り、伏せた。逡巡の間をおいてその唇はゆっくりと開かれる。
しかしそこから出た言葉は、メリィの期待に反するものだった。
「克服なんてできませんよ」
もう一度念を押すようにもう一度「できないです」
「しようと思えば、できるかもしれない。でも自分にする気はありません。多分メリィさん、質問する相手間違えてますよ」
「じゃあどうして、魔物と戦えるようになったの? 私はこんなに狩りを重ねても未だに怖い。エリギの血を引いていながら魔物が怖いなんて、これ以上恥ずかしい話ないでしょ」
情けなさで声すらも震えはじめる。津島はその様子に慌てて息を吸った。
「周りに迷惑をかけてはいけない状況だから、こうして大丈夫なふりをしているだけです。空には簡単に見破られちゃいましたけどね。……メリィさんはすごいと思います。怖いものに諦めず立ち向かおうとしているところ、すごく尊敬したいです」
「そういう気遣いはいいよ。カズの考えを教えて」
「これ、本心なんですよ。だってメリィさんは戦う必要なんてない。周りの人が代わりになってくれる環境に甘えず、真正面から向かい合ってます。
自分自身が怖くて、見ないふりをしている自分は、メリィさんとそもそもの立ち位置が違うんです。一緒にするなんてとんでもない。恥ずかしい限りです」
うつむいた津島は一度汗を拭う。メリィが言葉の意味を理解する前に、彼は再び口を開いた。
「頑張ろうとしているメリィさんや、空が眩しいです。眩しいけど、でも自分はそうなれない。そんな勇気ありません。ただ逃げたいだけなんです。普通の、なにも無い、理由のない毎日に。
そう思っている時点で、まだ戦う恐怖は克服できていません。自分はメリィさんが思ってるほど、強くないですよ」
長話をしてしまいすみません。と頭を下げて、津島はテントへと踵を返す。
「ちょっと、カズ……話はまだ」
「あっ、すみません。そうですよね。でも大丈夫ですか? メリィさん、眠らなくても」
歩を止めた彼にわずかに安堵しつつ、ずいぶんと他人事な様子が気になった。
確かにその言葉の通り、少しだけ眠い。けれど、じりじりと焦りがメリィの心を蝕んでいる。今横になったって眠ることはできないだろう。
どうにかして克服しなければならない。苦手なことと向き合うと、その度飽きることなくこの焦りが押し寄せてくるのだ。
白くなったメリィの両拳に、津島はためらいつつ手を伸ばす。冷たい手に、その拳からふと力が抜けた。
「この旅でメリィさんにとっていい逃げ道が見つけられたらいいなって思います。自分にとってもこれは逃げ道を探す旅なので、お揃いですね。
えへへ……そうですね、不安なら約束しましょう。自分がメリィさんを守ることを。自分が使い物にならなくなっても、エグバリーさんとチオリさんがいます」
気の抜けた笑顔になんだか悲しくなって、メリィは離れようとした津島の手を握りかえす。
「ありがとう、すごく心強い。使いものにならなくなっても……なんて、言わないで、私も後ろで頑張るから。一緒に逃げ道みつけて帰ろう。そのために私たちにはいくらだって迷惑かけていいから、みんなあんた達のこと好きだから」
一瞬呆気にとられた彼は、慌てて表情を取り繕う。
目を伏せつつ呟かれた礼の言葉へメリィは初めて、彼の心の壁に気がついた。
×××
翌朝メリィは寝坊した。
いつまでも起きてこないことに耐えきれず入り口をまくりあげたチオリの目に飛び込んだのは、困ったように鳴き声を上げ続けるインピィと、もともと寝坊常習犯であるシフォー・カロユ、そしてメリィの、幸せそうによだれを垂らすだらしのない寝顔だった。
「確かに寝坊したことは謝るけど、フォーンの槍で突くことはなかったんじゃない? 未婚の女性の顔よ?」
「誰が女性や。夜遅うまでごそごそしよって。自業自得やないの。エグ兄の武器やなかっただけでも感謝せえ」
頬を膨らませるチオリとメリィの一歩後ろを歩く軍人 フォーンが、眉を下げて笑う。
「ごめんね、メリィちゃん。なにに使うか分からないまま貸したら、そのまま二人のテントに突っ込むんだもの。驚いちゃった」
「まあちょうどいい目覚ましだったわ」
けろりとした様子のシフォー・カロユに、チオリは呆れたようにため息をつく。
やがてその怒りも自然消滅するころ——つまり十数分後に、事は起きた。
「走れ!!」
地響きにかき消されそうなエグバリーの怒鳴り声を合図に六人は地面を蹴り飛ばす。尋常でない揺れに平衡感覚は麻痺してしまった。うっかりすれば転んでしまいそうだが、すぐに立ち上がって進まなくてはならない。とにかくこの場所から、逃げなければならない。そんな生理的恐怖を感じるほどの揺れが起きた。
しかし努力も虚しくみるみる雲行きは怪しくなり、間も無くして吹き荒れはじめた砂塵は七人の視界を奪う。砂が目に入る痛みをまぶたでなんとか緩和させながらも、息をすれば喉を砂が直撃した。
爆発音が、小さな人間を笑うような響きが津島達の耳を貫く。その音を合図にするかのように激しさを増した揺れに地面は亀裂を生み、岩や砂もろとも強制的に天へと放り上げられる。
——どうしてこんなことになったのだろうか
砂埃の合間を一心に駆けながらメリィは思った。
なにに吸い寄せられているのか、砂をはじめ亀裂が走ったことで粒となった大地の欠片たちが一点へ、地面の亀裂の開始地点へ集まりはじめている。とにかく平時でないことだけは確かだ。心臓と、胃と、あと体の真ん中にあるさまざまな器官が締め付けられているような感覚だけがある。
直後、再び世界が揺れた。その場から離れるべく全力で走る一行に対しまるで死の予言を与えるかのような地響きに、それまで我慢していた悲鳴がでてしまう。もう走れない、怖い。膝から力が抜けて、地面に手をついた。
ここで死ぬのか、魔物の餌になって。やっぱり部屋は片付けておくんだった。溢れた涙が地面にぶつかる。
その時、後方で走っていた誰かがメリィの手をすくい上げた。
「ここで立ち止まっちゃダメです!!!」
幼さの残るその低い声は津島だ。手に感じる温かみにすがるようにして、引かれるがままに立ち上がる。普段のおどおどとした彼からは想像のつかないほどに頼もしい手のひらは、そのままメリィの体を強く引いた。
「はやく逃げましょう!! 声の主が姿を表す前に!!!」
再び地面を蹴り始める脚。力任せに引かれる体がぎしと鳴る。それでも、手から伝わってくる暖かさに、メリィは自分でも驚くほど落ち着きを取り戻していた。そして顔を上げ横を見て、彼女ははじめて現状を確認する。
石や砂塵が高くに登ってゆく その中心で、地下から押し上げられた地盤の影が天へ伸びている。人の身長などとは比べ物にならないそれは非常に遠い場所にあるのに見上げれば首が痛くなり、遠近感を狂わせる。腰を抜かしてしまいそうになったところを、再び引き上げられた。耐え切れなかった大地には数え切れないほどのヒビが走り、その隙間からは乾燥した地域に似合わぬ、水質魔力が漏れはじめている。そのヒビを躓かぬように飛び越えて、だいぶ離れてしまったエグバリー達を視界に入れた。
直後。広い空洞に響かせたような音がドンと大地を揺さぶり体の芯を駆け抜けた。これには津島も思わず立ち止まり、音の発生源——大地に突き立つ地盤の影の先を見る。ジンジンと残る振動感に止めてしまった息が吐き出せない。
それは大地を割って現れた者の咆哮であった。
恐竜の頭蓋をそのまま浮かべたような頭部。そしてわずか下に浮く岩の体はゴツゴツとした雫形。細長い骨のようなものがその身体の周りに浮き、それぞれが一定の距離を保ちながらも自由に揺れ動いている。砂や岩が集団になってできた二つの輪がそれらを囲むように交差し、ゆっくりと回転していた。
今まで対峙してきた魔物などとは比べ物にならない、途方も無い大きさをした魔物だった。人を十人重ねたって足りない、小さな島程度と言っても過言ではない大きさ。あまりの圧力に、あれが神なのでは、という予感すら湧き上がる。津島の全身がぎゅっとこわばり、メリィの手にも力が込められた。
「メリィさん。どうしよう」
津島の声が震えている。彼は突如現れた魔物から目を離せないまま、身体を震わせた。
「こっちを、見てる」
その言葉に改めて魔物の顔を見ても、空洞の瞳がこちらを見ているかどうかなんてよくわからなかった。それよりもただメリィは、この場所から逃げ出したくて逃げ出したくて、たまらなかった。それなのに体は恐怖でいうことを聞かず、脚は震えて使い物にならなかった。




