3-30 未熟な鏝
「メリィさん、どうしよう。こっちを見てる」
隣の女性の手を、すがりつくように握りしめる。突然地面を割って現れた規格を逸する巨大な魔物は、現れるや否や空洞の瞳を真っ直ぐ津島とメリィに向けた。まるで狙いを定めるように。気のせいだと、自意識過剰だと笑ってやりたかったが、今や彼にそんな余裕はない。合ってしまった目線をすぐに下へ逸らしたが、未だ魔物の目線が離れていないことは心の底——本能と呼べる場所で、なんとなくだが感じていた。
息をすることもからがらで、体は地面に縫い付けられたよう。強い恐怖が伝わってしまったのか、津島の手を握るメリィの手にもわずかな力が入る。その瞬間、魔物は二人の目の前に体を動かした。流れるようなその動きは一瞬の出来事で、津島は自身の息が止まるのを感じる。悲鳴をあげることは許さないと言っているようだった。空気に霞むほどに離れていたはずの魔物が、一瞬でその距離を飛び越えてきたのだ。そして津島の揺れる瞳を、その小さな存在を無言で見下ろす。
魔物が巻き上げる砂が頬を叩くのを感じながら浅い呼吸を繰り返し、津島は勇気を振り絞った。思い切って魔物の姿を見上げれば再度交わる視線。ゆっくりと身体の角度が変わり降りてくる顔に、津島はメリィの手をそっと離して自身の上着を握りしめる。手の震えは止まらない。メリィが信じられないと瞳を揺らし名前を呼んだが、もはや恐怖でいっぱいいっぱいの津島の耳には届くことなく、ついに魔物の顔は津島の正面にまで降りてきた。
心臓を強く握りつぶされるような感覚。指一本動かせず。世界から音が遠のいた。隣にいる女性の声や、目や頬を遠慮なく叩く砂の音も遠く遠く離れて行く。しかし、エグバリーやチオリが駆け寄ってくる音も、シフォー・カロユの悲鳴に近い叫び声もすべての音が消え去ってしまった津島の世界で、一つの声が鼓膜を強く揺らした。
「津島!!!!!」
その声を引き金にして、どくんと身体の血が流れ始める。空洞の瞳が声の主を一瞥した。
「津島から離れろ、俺を狙え!!! 俺はここだッ、この、砂人形——————」
聞きなれたその声に目の奥が熱くなるのを感じながら、津島は冷えた体に伝わる血液の温もりと共に広がる感情へ気がついた。
それは、生まれて初めての感情だった。
傷が治る体がまるで化け物だと、軽蔑の目で見られることに耐えられずどれだけ死にたくとも、実行することを今まで自分の体は許してくれなかった。
長く長く抱いた夢がついに叶うというのに、こんな機会もうないというのに。しかし湧き上がる気持ちは正反対のものだった。
その初めてだらけの感情を誰かが——それこそ神様かなにかが、聞き入れてくれたのだろうか。
突如魔物は空洞の奥にわずかな光を灯したかとおもうと、音もなく形を崩し砂の粒へとその姿を変えた。同時に、待っていましたと言わんばかりに駆け抜けた強い風が、大量の砂たちを空中に離散させる。
強く引かれる手は誰のものか。身体がついていかず、転びそうになるが堪えて必死についてゆく。確認をしたくてまぶたを開けたが、ひどく石にいじめられた目はすでに使い物にならなくなってしまっていた。
あきらめて再びまぶたを閉じる。どうせ怪我と同じようにして気がついたら治っているのだ。そこで津島は先程まで身体を殴りつけるように吹き荒れていた石達がめっきり落ち着いていることに気がついた。一つのことに気がつくと、連鎖的に体の感覚が息を吹きかえし始める。
先ほどの魔物の気配がなくなっていること。静けさを取り戻した風の流れ。そして聴力。ざくざくという三人分の足音と、津島を挟んで行われる会話のやり取り。後方から聞こえたメリィの小さな声に無事でよかったと言いたかったが、まだ声は出すことができなかった。
「目が見えないのかい? 」
聞こえた声に、自らの手を引いているのはフォーンであることを知る。ふらふらとおぼつかない足取りで歩く津島を不思議に思った彼だったが、小さく頷いた津島に飛び上がって歩幅を広げた。
「それはまずい!! いっ、いそいでもどろう、今なら魔法構文で治るかもしれない」
それに慌てて首を横に振るも、フォーンの目には映ることはなかった。
静けさを取り戻した砂漠のどこか。それまで引かれていた腕が突然離されひとりになる。
先を歩いていたらしいメリィが小さな悲鳴を上げたのが聞こえ体がこわばった。自分を除く六人分の呼吸のなかに、ひときわ荒い呼吸音が混ざっているのが聞こえて状況を察する。
暗闇のなか立ちすくむことしかできない津島に、フォーンが声をかけた。
「おまたせカズくん、さっきの魔物はもう居なくなったから、安心してここに座って。今メリィちゃんは他の治療に当たっているから少しだけ待っていてね」
「……」
誰が怪我をしたんですか。と聞きたかったが声の出ない喉では伝わるわけがなく、そっと手にカップが渡される。
「水だよ、落ち着いて飲んでね」
お礼を言おうにも声が出ず、頭を下げたところでわずか離れた場所からメリィの声がした。魔法構文を読み上げ始めたらしく、長い詠唱に不安が浮かぶ。一体誰が、怪我をしたというのか。チオリが「頑張れ」という声が聞こえる。フォーンは無事。ではこの荒い息は誰のものか。
渡された水で一度口の中をゆすぎ、手探りで空いているところを見つけ吐き出す。もう一度水を口に含んだところで、荒い息のだれかがうなり声を上げた。痛みに耐えるようなその声に、あわててチオリが息を吸い込んだ。
「大丈夫、だいじょうぶよ、意識を持って!!わたしの服を握れる? そう、そう。強く! もう少しで血が止まるからね————ソラくん!」
聞こえた名前に、喉がひゅうと音を立てた。反射で目を見開き、フォーンの呼び止める声には耳を傾けず見える背中に駆け寄る。待ちわびた回復を果たしたその視界に映ったのは、裂けた口から血を流している同居人、宓浦空の惨状だった。口の中で何かが破裂したようで、そこからとめどなく血が溢れている。エグバリーがそんな空を横向きに支え薬を塗り、チオリがしきりに声をかけ、その隣でメリィが涙目になりながら魔法構文を唱えている。
傷口を触られる痛みに叫び声をあげながら頭を振り、引きちぎらんばかりにチオリの服を握りしめる空の手が白い。しかし傷口の深さに血が止まる様子は一切なく、空の声も、呼吸も浅くなってゆく。
ロユが、ふと思い出したようにかばんの中から三つの球を取り出した。それは出発直前、シフォー・カロユの腹部を心配したベニヒから渡されていた、ミヨ・トッペスの力の塊だ。珍しくうろたえた様子の彼女は、そのままエグバリーにピンポン球を示す。
「エグバリー、これを使える? トッペスがくれたものよ」
「トッペス……回復か!! 助かる。全部使っても?」
その問いかけに間を空けず頷くロユ。再び礼を言いながら、エグバリーはピンポン球を自らの手に打ち付け空にかざした。
「メリィ、気にやむ必要はないわ。この傷は塗り薬ではどうこうなるものじゃないくらい深いものよ。人の力には限度がある。これで血を止めてある程度まで回復させたら、もう一度あなたの薬を塗ってソラを先にエリギへ帰しましょう。カズ、付き添いお願いね」
ショックと無力感で呆然としていた津島は、突然名前を呼ばれたことで我に帰る。
自分よりはるかに背丈の小さい少女は、目に強い光を湛え、津島に肩の子狐を差し出し言葉を続けた。
「この子に乗って二人で先に帰るの。……エリギより港町ブラウの方がいいわ。ミヨ・トッペスの家へ行くの。あの街ならインピィ乗り回しても大丈夫でしょ。早急に直してもらうように。よろしくね、インピィ」
そんな子狐にどうやって乗るのか。そんな疑問が浮かぶ前に、インピィは小さく『了解』と鳴いた。
直後、手に乗るくらいのサイズだった子狐が、その姿を何十倍もの大きさに変化させる。それはちょうど、人二人が乗れるか乗れないかのものに。
「追って僕たちもブラウに戻る。さあ、乗って」
フォーンに促されるままに、津島は黄色い背中に乗り込む。手綱などない。ふわふわとした柔らかい毛並みの上に跨るとインピィはくるると喉を鳴らして目を細めた。
エグバリーに抱きかかえられて載せられる空の体。出血は止まっていたが、ぐったりと重力に従う四肢や痛々しい傷は変わらず、肌の下が露出してしまっている。
これはもしかして自分のせいで? 自分のことをかばったせいで? あの魔物から?
ものを考えようとすればするほど、ぐるぐるとしてしまう津島の背を、強い力でエグバリーが叩いた。
「しっかりしろ。ソラが死ぬか生きるかはおまえにかかってる。何のための無事かを考えろ、お前の体質が役に立つときなんじゃないのか」
でも、自分なんかより、ほかの人がここに乗る方がふさわしくないでしょうか。
どうして自分なんですか。自分じゃ空を守れない。なんていたって空のこの怪我の原因は自分なのだから。
それにしても体質って一体なんのことを———— もしかして。
喉の下で突っかかった言葉は案の定誰の耳にも入らなかった。シフォー・カロユの合図とともに立ち上がったインピィは、そのまま勢いよく地面を蹴る。遠くなる地面に体をこわばらせる間もなく強い風に煽られた津島は、今までとは比べものにならない速度で流れる景色に目を瞑った。
両腕に感じる空の体温と呼吸だけが、彼の生命を感じさせる。
「ごめんなさい」
酷い後悔とともに唇だけでそう言った津島は、気を失っていることをいいことにそのまま空の体を掻き抱いた。
「ソラくんもやってくれたね」
遠ざかる背から視線を離したフォーンは、地面に隆々と突き立つ地盤を見やる。その顔は苦虫を噛み潰したように険しく、どこか焦っているようだ。
「気候が変わるよ。じき、ここは水浸しになる。僕たちもゆっくりはしていられないな」
「フォーン、なにかあったのか? まさかさっきの魔物が……」
「ううん。さっきの魔物は多分もう心配ない。エグ兄も見たでしょう? 岩がたくさん舞い上がる中で、あの大きな魔物が弾けて空気に溶ける瞬間をさ。……ただそのぶん、今まで食べ尽くされていた魔力が溢れることになる。ここはじきに水浸しになるよ」
下ろしていた荷物を背負いなおし、広げた薬を手際よく回収するフォーン。礼とともにその薬を受け取ったメリィも口を開いた。
「フォーンの言う通り、どんどん水質系の魔力が地面から溢れ出してる気がする。今まではあの大きな魔物がこの地の水質魔力を食いつくして、排泄物として火質魔力を吐き出していたんじゃないかな? 早く戻らないと何がきっかけで魔力が水に変わってしまうか……」
「危な! なにそれ、大ピンチやないの。 はよ戻ろう」
今や遠くに見える階層谷に向けて、来る時よりも急ぎ足で四人は砂漠を引き返した。
目指していた山を、そして魔物が現れたときの痕跡をみて、フォーンは一人難しい顔をする。
「カズくんは……やっぱり」
そのつぶやきは誰の耳に入ることもなく、空気に溶けて消えた。
サブタイトルの鏝、「こて」って読みます。パソコンで打って漢字変換するまで、こてに漢字があるだなんて知りませんでした。ひらがなにするとあまりに締まりがなくなるため漢字表記にさせていただきました。やったぜ




