3-31 ありがとう僕のだいじな人
ここで動かなければまた、同じ失敗をすることになる。
巨大な魔物を前に立ちすくむ津島の横顔が、幼いころの短い期間を共に過ごした初恋の少女に重なった。あのとき窓から飛び出して行く小さな命を救えたならば、この心に穴が開くことはなかっただろう。そこからじわりじわりと溢れ出した血は、今もずっと垂れ流しのまま、足元からどこかに捨てられている。
しかし、その穴は彼のしらぬうちに強い戒めへと変化していた。宓浦 空は、今この瞬間にはじめて気づく。
あの子が空に遺したものは「人は信用するものでない」「味方など一人しかいない」という教訓だけではなかったことを、何年も経ってようやく。
目を覚まして一番に視界に映ったのは、木製の天井。痛む頭を押さえつつ上半身を起こすとベッドがギシリと音を立てた。
ここはどこだろうか。
頭を働かせかけたとたんに、脳裏に記憶が蘇る。岩の舞う砂漠で見た自然を体現するかのような魔物を、それを目の前にして立ちすくむ津島の姿を。彼はいったいどうなったのか。途中から電源を落としたように記憶が途切れてしまっている。おそらく気を失ってしまったのだ。一体、なぜ。
布団が体から落ちたことで外気が肌に触れ、確認できた自分の服装に慌てる。今、彼は見覚えのない首回りの緩いシャツを着ていた。誰がこれを俺に着せたのか。つかぬ疑問にひやりとしたが、それをかき消すように部屋に一つの声が鳴る。
「おはよう。まだ少し安静にしていた方がいいと思うよ」
声がした方を見ると、椅子に座り本を広げる津島がそこにいた。
前髪の間から控えめに覗くうつむき気味の黒目にどきりとすると同時に、安堵が全身を支配する。
「津島、無事だったんだ」
「空のおかげで。……助けてくれてありがとう」
「いや、これでおあいこだろ。やっとフティヴ平原での借りが返せた。それで、あの魔物は? ここはどこ? 俺は……あの砂漠で気を失っちゃったのか?」
喜びを押し出すのが照れくさいので、質問で誤魔化した。
部屋には数冊の本が乗った机に、それと揃いのデザインの椅子。高さの低いタンスの上には二リットルペットボトル程度の大きさのビンと、空っぽのコップが置かれている。
小さな窓から見えるのは、青。どこか仄暗い天と、煌めく海の色が見えた。
「あの魔物は、空の魔法構文に弾けて消えたんだって。その魔法構文の暴発のせいで空は倒れてしまって……。えっと、ここはミヨさんのお家。ブラウの、船のお家だよ」
「暴発のせいで……か。あれ? ちょ、っと待って。それじゃあ始まりの樹へは」
「行けてない」
「どうして……」
その震えた問いかけに答えたのは、それまで部屋はいない存在だった。
「口の内部破裂。原因は見たところ魔法構文の発射距離を見誤ったんじゃないかな。初心者には少なくないけど、ここまでひどい怪我になるのはそれだけ威力の大きい構文を使おうとしたせいだ。なんかしゃべりにくいなって、気が付かなかった?」
扉が開かれる音と共にベッドへ投げられた小型の鏡。飛びつくようにそれを覗き込んだ空は、自身の顔にある傷へ愕然とした。
鏡を投げた張本人 ミヨ・トッペスが飴玉を噛み砕く。
「シフォー・カロユに感謝することだね。あの子にもたせたトッペスの力を使ってなければ、砂漠の真ん中で死んでいたでしょ」
「ありがとう、ございます。でも俺 魔法構文使ってないのにどうして。ただただ魔物に叫んだだけで……」
そこまで呟いて、ハッと気がつく。
「じゃあ、つまり、俺がそれでひどい怪我をしたから、せっかくの計画が台無しになったのか」
「ちがうよ」
珍しく大きな津島の声が部屋に響いた。
溢れる気持ちを全身で押しとどめるようなその声に、空は冷静を取り戻す。
「自分が物怖じをしてしまったんだ。大きな魔物と真正面に対峙して、怖くて……でも同時に生きたいって思った。初めての気持ちを、空が汲み取って、助けてくれたんだって思ってる。
何が帰るためならなんだってやる、だ。何が大丈夫だって話だよ。ひるんで、動けなくなって、メリィさんまで危険な目にあわせて……こうして空にも大怪我をさせた。覚悟なんて、これっぽっちもできてやしなかったんだ。今回はじまりの樹にたどり着けなかったのは、そのせい」
小さく抑えられた声に反し、強張った肩がその心境を強く表していた。
一度大きく息を吐き出した津島は顔を上げる。今日はじめて正面からみたその目は、今までみたどの津島の顔とも違くて、腹の下の奥がこわばるのを感じた。
「もう逃げないよ。自分はちゃんと強くなる。帰るためにも、大切なものを手放さないようにするためにも、もう怖がらない。普通を捨てる。だから空、いつか自分がちゃんと強くなれた時、今回の償いをさせてほしい。させてください。今の自分じゃ、謝ることしかできないけど……」
津島の頭頂がこちらへ向く。上げた顔にいままでのおどおどした様子は欠片もなく、強い意志を持った、強い男の顔になっていた。
ああ。と思う。また一つ、津島が遠い場所へ行ってしまった。
こんなにも短い期間で、人は変われるものなのか。
「帰るためなら普通を捨てる、か。格好いいな。……でも俺はいらないよ、償いとか謝罪なんて。あんなでかい魔物を前にして怯まないほうがおかしいんだ。
津島が死なないでいてくれてよかったと思ってる。できることなら、そういう覚悟もしないでいられたらよかったのにな」
自嘲的な笑みが漏れる。元の生活に戻るという些細な願いのために、なぜ変化を強いられなくてはならないんだろうか。
「だからこれからもよろしくしてよ。そんな申し訳なさそうな顔も遠慮もしないでくれ、頼むからさ」
右手を差し出す。すると津島は間の抜けた顔をしたのち、おずおずとそれを握り返してくれた。
「ありがとう、空」
「こちらこそ。よかった、これで手とってくれなかったらどうしようかと思ったよ。こういうときの津島は面倒臭いから」
そう言って笑えば、ぱっと顔を赤くした津島の右手に力が入る。
ぎゅっと締め付けられた右手の骨が変にねじれるのを感じて、空は呻いた。
「なんだよ痛え!! 本当のことじゃん、人って本当に面倒臭……」
「そ、そうじゃなくて……なんか。今までと名前の呼び方が違ったから……驚いて、ごめん」
離された手は赤く変色していた。とんだ馬鹿力だと、半ば呆れる。
人の心境に聡い津島のことだ。自信がどういう意志をもってその名を呼んだか気がついてしまったらしい。
自分から手を握りたいと思ったのは初めてのことだった。人と、心の底から友人でいたいと思ったことも。
無事でよかったと抱きついてやりたい気持ちなんていうのも、それが少し恥ずかしいという理由で我慢をするのも。
様々な初めてを奪って行かれることへの怖さは不思議と欠片もなく、思わずスキップしてしまうような暖かさだけが心を満たしていた。
「さてと」
ミヨ・トッペスの嘆息混じりの一言で、握り合っていた手を互いに離す。
「まだシフォー・カロユや、ターナ家のみなさまは戻ってきていないようなので、この狐といっしょにさっさと帰ってくれない? ここ一応トッペスの家だから」
その腕に抱えられた子狐へ、空は目を丸める。
「なんでインピィが」
「鉱資源の街 テンティノまで空と自分をのせて走ってきてくれたんだよ。最大にまで姿を大きくすると、人が二人まで乗せられるようになるんだ」
普段は世界学者シフォー・カロユの肩の上 もしくは足元にいるその魔物を受け取り、津島はその頭をゆっくりと撫でる。
インピィは今の今まで眠っていたようで、津島の手を寝ぼけ眼で受け入れた。
「ありがとう」と内心で礼をいう、今まで他人への憎悪と悲しみしか生まなかった初恋の少女へ。
あのときの失敗のおかげで命をかけて友達を救うことができたよ、と。
もしかしたらあの少女が魔物をかき消し、津島の命を助けてくれたのかもしれない。そんなおめでたい想像すら湧き上がってきた。




