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第2話 死んだのは、私

 翌朝、凛の学生証から顔が消えていた。


 名前も学籍番号も残っている。


 写真欄だけが、白い。


「証明写真の撮影日に魂置いてきたんじゃない?」


 佑月は学生証を蛍光灯へ透かした。


「返して」


「嫌。面白いから」


「人の存在が消えかけているのに?」


「怖いから面白がってんの。察して」


 旧校舎の資料室には、雨の匂いと埃が溜まっていた。


 始業前。四人は一台しかない古い端末を囲んでいる。


 琴葉が葵の学生証を読み取り機へ置いた。


「こっちは顔、あるよ」


「発行日を見て」


 佑月が画面を拡大する。


 三年前、四月一日。


 午前三時三十三分。


「夜中に学生証を作る学校って、だいぶ働き方改革に逆行してるね」


「発行元は?」と凛。


「国立神話情報保全庁」


「そんな役所、聞いたことないよ」


「ないからね」


 佑月は検索結果を見せる。


 該当なし。


 過去の官報にも、組織再編記録にも存在しない。


 葵は自分の学生証を見つめている。


「私、偽物なんでしょうか」


「学生証が偽物なだけ」


 凛は言った。


「あなたまで偽物とは決まっていない」


「……信じてくださるんですか」


「まだ、判断しない」


「相変わらず愛想ゼロ」


 佑月がキーボードを叩く。


「でもまあ、“信じる”よりまし。その言葉、昨日から聞くたび寒気するし」


 葵の口が閉じた。


「佑月」


「何。思ったこと言っただけ」


「その言い方は必要ない」


「じゃあ優しく聞く。正親町さんは、ご自分が存在すると証明できますか?」


「佑月ちゃん!」


「できないでしょ。私もできない。だから調べるんだよ」


 佑月は有線ケーブルを端末へつないだ。


「校内サーバーの旧バックアップ。消した奴が雑なら、残骸くらいある」


「それ、不正アクセスじゃない?」


「学校のセキュリティ教育へ協力してるだけ」


「ものは言いようだねえ」


 琴葉が感心している横で、佑月はケーブルをつなぎ直す。


「存在証明なら、私に任せて!」


「何する気」


「ほっぺたをつねる。痛かったら、いる」


「それ、あんた自身の話でしょ」


「あ」


 琴葉は葵の頬を、ちょん、と指で突いた。


「いる! やわらかい!」


「……あの、証明になっているのでしょうか」


「少なくとも、私の指は葵ちゃんをすり抜けなかったよ」


「幼稚。でも反証できない」と佑月。


「採用ですか」


「仮採用」


 黒い画面に、古いファイル一覧が流れ始めた。


 転入記録。


 保護者記録。


 写真台帳。


 葵のファイルは三年前より古いものがない。


 それだけではなかった。


 同じ日付の学級名簿が三種類ある。


 一つ目には、凛、琴葉、佑月、葵の四人。


 二つ目には、葵がおらず三人。


 三つ目には、凛がおらず、葵の学籍番号が凛の番号を使っていた。


「ファイルが壊れたんじゃないの?」


 琴葉が画面を覗く。


「壊れたファイルは、同じ場所へ違う答えを三つも保存しない」


 佑月は更新時刻を指で追った。


「これは競合してる。三つの“正しい記録”が、自分こそ最新版だって主張してる」


「じゃあ、どれが本当?」


「それを決めた瞬間、残り二つが嘘になる」


 凛の左手が熱を持った。


 三つから一つを選ぶ。


 まだ名前も知らない自分の力と、同じ構造だった。


「本当に、三年前からしかいない」


 凛が呟く。


「私たち、中学も一緒だったよね?」


 琴葉が葵を見る。


「はい」


「どのクラス?」


「二年三組です」


「私も二年三組。でも、担任は?」


 葵の唇が動かない。


 琴葉も答えられなかった。


 記憶には廊下も制服も昼休みもある。


 教師の顔だけがない。


「見つけた」


 佑月が別の窓を開いた。


 十年前のニュース記事だった。


 湾岸にある国立情報研究棟で火災。公式発表では電源設備の事故。死者二名、行方不明者四千三百人――。


「四千三百?」


 琴葉が眉を寄せる。


「火災一件の数字じゃない」


「記事が書き換わってる。見て」


 佑月が更新するたび、人数が変わる。


 二名。


 零名。


 四千三百名。


 最後に《該当する事故はありません》と表示された。


 同時に、資料室の奥で何かが落ちた。


 四人が振り向く。


 壁に立てかけた姿見が、ひとりでに揺れていた。


 鏡の中に、琴葉がいる。


 凛たちの隣にも琴葉はいる。


「え」


 鏡の琴葉が笑った。


 口角が耳まで裂ける。


「琴葉、下がって!」


 凛が叫ぶ。


 鏡面から白い腕が伸びた。琴葉の頬をつかみ、顔を剥がすように引っ張る。


「痛っ――!」


 凛は琴葉を突き飛ばした。


 代わりに鏡の指が凛の顔をつかむ。


 皮膚が冷える。


 何かが頭の中へ入ってきた。


 誕生日。教室。母の声。


 記憶を舐められている。


「久我!」


 佑月が椅子を鏡へ投げた。


 鏡は割れない。


 白いものが這い出してくる。


 顔のない、人の形。


 その首に琴葉の顔が浮かび、次に佑月、葵と切り替わった。


「誰の顔が本物か、分からせてあげる」


 四人の声が重なった。


 顔喰らいが凛を引き寄せる。


「私だけ見て」


「凛ちゃん!」


「琴葉は廊下へ。佑月、葵を連れて」


「はぁ? 勝手に決めんな!」


 凛は聞かなかった。


 左手が焼ける。


 三つ巴の痣が回った。


 世界が、三つに裂けた。


 一つ。


 右へ避ける。顔喰らいは凛を通り過ぎ、葵をつかむ。


 二つ。


 鏡を倒す。下敷きになった琴葉の首が折れる。


 三つ。


 正面から腕を受け、自分だけが鏡の中へ引き込まれる。


 三つの未来が同時に見えた。


 時間は止まっている。


 凛の頭の奥で、知らない女たちの声がした。


『選べ』


『選ぶな』


『どちらでもいいのよ』


「うるさい」


 凛は三つ目を選んだ。


 自分の身体が動く。


 顔喰らいの両腕をつかみ、そのまま鏡へ踏み込む――直前。


「凛ちゃん!」


 琴葉が背中から抱きついた。


「放して!」


「やだ!」


「引き込まれる!」


「凛ちゃんだけならいいみたいに言わないで!」


 琴葉の叫びと同時に、資料室の扉が勢いよく開いた。


 風もないのに。


 鏡から凛を引く力が緩む。


「その顔、琴葉じゃない」


 佑月が顔喰らいを睨んだ。


「凛でも、私でもない。ありえない。認めない」


 喉の奥で、弦を弾くような音がした。


 顔喰らいの輪郭がぶれる。


 凛は左手を突き出した。


 痣から三本の光が走り、そのうち一本だけが怪物の胸を貫く。


 残る二本の向こうで、子供が泣いた。


 二人分。


 選ばれなかった未来の中で。


 顔喰らいが絶叫する。


 琴葉の顔が崩れ、佑月になり、葵になり、最後に凛の顔へ変わった。


 十七歳の凛。


 十歳の凛。


 七歳の凛。


 幼い凛は、怪物の顔なのに母を探す子供の目をしていた。


「母さん」


 小さく呼ぶ。


 その声だけは、凛の記憶にあった。


 十年前、煙の中で何度も同じように呼んだ。誰の返事もなかった。


 幼い顔が、涙を流す。


「お願い」


 四人全員の声で言った。


「次は、捨てないで」


 怪物の身体が黒い水になり、鏡の中へ吸い込まれた。


 鏡は、何も映さない白い板へ変わった。


     ◇


 しばらく、誰も話さなかった。


 凛は床へ膝をついていた。


 左手の痣が、まだ熱い。


「助かった」


 凛は琴葉を見る。


「怪我は?」


「ない」


「ならよかった」


「よくない」


 琴葉は笑っていなかった。


「凛ちゃん、私を突き飛ばした」


「守るために」


「それ、私に選ばせてくれてないよね?」


「助かった。それで十分でしょう」


「凛ちゃんにはね」


 琴葉の目に涙が溜まる。


「私は、十分じゃない。怖がるのも、助けるのも、一緒に逃げるのも、何にも選ばせてもらえなかった」


 凛は言葉を失った。


 自分が引き込まれれば、全員が助かる。


 正しい選択だと思った。


 けれど正しいことと、琴葉を傷つけなかったことは、同じではない。


 葵が凛の右手を取った。


 指先は温かい。黒い腕に触れたときとは違う、人の温度だった。


「私は、久我さんを信じます」


 昨日なら安心したかもしれない。


 今は、その言葉が葵自身を閉じ込めているように聞こえた。


「信じなくていい」


 葵が目を見開く。


「疑って。それでも一緒にいるか、あなたが決めて」


「……その決め方を、私は知りません」


 凛にも教えられなかった。


 自分も今、初めて間違いを指摘されたばかりだからだ。


「……ごめん」


「遅い」


 琴葉は袖で目を拭った。


「でも、聞いたから。次はちゃんと怒る」


「今も怒ってるでしょ」


「もっと怒る!」


 佑月が小さく息を吐く。


「青春ごっこ終わった? もっと最悪なの見つけたんだけど」


 端末には、さきほど消えた事故記事のキャッシュが残っていた。


 死者名簿。


 二名。


 一人目は、久我紫苑。三十五歳。


 母の名だった。


 二人目。


 久我凛。七歳。


 凛の呼吸が止まる。


「同姓同名……」と琴葉。


「写真もある」


 佑月が記事を開く。


 七歳の少女が写っていた。


 銀色の髪。碧い目。左手には、三つ巴の痣。


 凛と同じ顔だった。


「死んだ人が生きてるんじゃない」


 佑月の声がかすれる。


「生きてる方が、死んだ人の席を使ってるのかも」


 画面の中の少女が、瞬きをした。


 凛を見上げる。


 写真のはずの唇が動いた。


「次は、どの私を捨てるの?」


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