第3話 未選択駅
画面の中の少女は、それきり動かなかった。
死亡記事は佑月が保存した直後、サーバーから消えた。
母と自分の名だけを、凛の頭に残して。
◇
その日の帰り、四人は同じ電車に乗った。
話し合って決めたわけではない。
琴葉が「今日は一人で帰るの禁止ね」と宣言し、佑月が「小学生か」と呆れ、葵が頷いた。凛には断る理由が見つからなかった。
十八時十七分発。渋谷方面行き。
車内は混んでいた。
凛はドア脇に立ち、窓へ映る自分を見る。
銀色の髪。碧い目。
記事の中の七歳の少女と同じ顔。
母と一緒に、十年前に死んだ自分。
「そんなに見ても美人度は上がらないよ」
佑月が向かいから言った。
「見てない」
「窓の自分を五駅分ガン見して、それは無理ある」
「考えてただけ」
「便利な言葉だね、考えてた。黙ってれば全部それで済む」
琴葉が二人の間へ顔を出した。
「喧嘩は降りてからにしよう。電車で喧嘩すると、知らない人に見られて恥ずかしいから」
「床と親友の人が世間体気にするんだ」
「床は私を見捨てないもん」
小さな笑いが起きた。
葵だけが、ドアの上の表示を見つめている。
「次、どこでしたっけ」
「神泉」と琴葉。
「違う」
凛も表示を見た。
次駅の文字が消えている。
路線図から駅名が一つずつ黒く塗り潰され、現在地を示す赤い光だけが移動を続けていた。
車内アナウンスが鳴る。
『次は――』
ノイズ。
『お降りの際は、選ばなかった人生をお忘れなく』
乗客は誰も反応しない。
スマホを見ている。眠っている。吊り革につかまっている。
列車が減速した。
窓の外に、白い駅名標が現れる。
《未選択》
「こんな駅、ないよね」
琴葉が凛の袖をつかむ。
「ない」
「じゃあ降りない。これ、ホラー映画なら降りた瞬間に死ぬやつ」
扉が開いた。
誰も動かない。
そのはずだった。
凛の身体は、ホームへ一歩踏み出していた。
「凛ちゃん!」
琴葉が袖をつかんだまま引かれ、葵が琴葉を、佑月が葵をつかむ。
四人まとめてホームへ転がり出た。
扉が閉まる。
「ちょ、待っ――!」
琴葉の叫びを置き去りに、列車は闇へ消えた。
ホームに時計はない。
広告も、自動販売機も、人影もない。
向かい側に、一両だけの古い列車が停まっている。
窓の中には、十八人の少女が座っていた。
全員、凛だった。
七歳の凛。
制服ではなく白衣を着た凛。
片目を失った凛。
老女になった凛。
母と手をつなぐ凛。
一度も泣いたことがない顔で笑う凛。
十八人全員が、同時にこちらを向いた。
「うわ」
佑月の毒舌が、一秒だけ消えた。
「……それ、笑えない」
ホームのスピーカーが告げる。
『当駅では、お客様が選ばなかった未来をご案内しております』
『お好きな人生を一つお選びください』
『現在の人生は、代金として回収いたします』
四人の前に、それぞれ別の扉が現れた。
琴葉の扉の向こうでは、知らない家族が食卓を囲んで笑っている。中央にいる琴葉は、一度も転ばず、誰にも心配をかけない少女だった。
佑月の扉からは、黒髪の女性が手を振った。
「佑月、おかえり」
佑月の顔が固まる。
「……姉さん」
「遅かったね。シチュー、温め直そうか」
女性――美帆は、失踪した日の服を着ていた。
佑月が今も捨てられず、クローゼットの奥にしまっている紺色のカーディガン。
「あの日、どこに行ったの」
佑月の声は、凛が聞いたことのない幼さを帯びた。
「どこにも行ってないよ。あなたが疑っただけ」
「じゃあ、帰ってきて」
「そっちが偽物なの。こっちへ来れば、最初から帰っている」
美帆が差し出す手へ、佑月の指が伸びた。
喉の痣が淡く光る。
「……違う」
佑月は自分の手首をつかみ、引き戻した。
「姉さんは、私が泣いてるときにそんな優しい言い方しない。“鼻水つけんな”って言う。解像度が低い。出直せ」
扉の美帆は笑顔のまま、目だけを怒らせた。
一方、琴葉の扉の中では、完璧な琴葉が上品に笑っていた。
一度も転ばず、誰にも迷惑をかけず、凛とも佑月とも葵とも出会わない琴葉。
「あの私、笑うの上手だね」
琴葉は寂しそうに言った。
「でも、何が面白いのか分からない顔してる」
いつもの棘が消えていた。
葵の扉の向こうには、小さな家がある。
母親らしき人が味噌汁をよそい、父親らしき人が新聞を畳む。壁には幼い葵の写真。運動会、七五三、誕生日。
葵が、息をするのを忘れたように見つめている。
「私にも……あったんですね」
「待って」
凛は言った。
「それが本物とは限らない」
「分かっています」
葵は笑った。
「でも、本物だったらいいなと思うことは、いけませんか」
扉の中から、母親が葵を呼んだ。
「葵。手を洗っておいで」
あまりにありふれた言葉だった。
怪物よりも、神の声よりも、その平凡さが葵を強く引いた。
片足が扉の敷居へ近づく。
琴葉は止めなかった。ただ、葵の手を握った。
「行きたいなら、引っ張らない。でも、残るなら手は離さないよ」
葵は閉じた食卓と、握られた手を何度も見比べた。
答えられなかった。
凛の扉が開く。
懐かしい匂いがした。
消毒液と、薄いコーヒー。それから雨の日の古い本。
「凛」
母が立っていた。
久我紫苑。
黒い髪を後ろで束ね、白衣のポケットに三つ巴の髪留めを差している。
記憶の中より若い。
写真より、生きている。
「遅かったね。ご飯、冷めちゃうよ」
たったそれだけの言葉で、十年間閉じていたものが崩れた。
凛は扉へ歩く。
「凛ちゃん」
琴葉の声が遠い。
母が手を差し出す。
あと一歩。
その手を取れば、母が死ななかった人生へ行ける。
『選べ』
頭の中で、冷たい女の声がした。
『損失の少ない道を選べ。死者一名の回復。現在の関係三名の廃棄。計算は容易でしょう』
別の声が怒鳴る。
『ふざけるな! 全部奪え! 母も仲間も捨てるな!』
三つ目は、耳元で笑った。
『選べなくても、あなたを嫌わないわ』
「誰」
凛は立ち止まった。
『田心姫』
『湍津姫だ!』
『市杵島姫。あなたの中にいる、三つの海よ』
「勝手に人の頭で喧嘩しないで」
『なら早く選べ』
『選ぶな!』
『どちらでもいいのよ』
「三人とも黙って」
凛は目を閉じた。
母に会いたい。
その気持ちを、正義で隠すのはやめた。
「私は、母さんに会いたい」
声にすると、胸が裂けそうだった。
「十年間、ずっと。どうして私を置いていったのか聞きたい。抱きしめてほしい。もう一度、名前を呼んでほしい」
扉の向こうで、母が微笑む。
「おいで、凛」
琴葉が泣きそうな顔をした。
佑月は姉の扉から目を逸らさず、拳を握っている。
葵は家族の食卓を見つめていた。
三人とも、欲しいものがある。
凛が母を選べば、三人の今も「代金」として消える。
「でも、そのために今の三人を幻にしない」
左手を開く。
三つ巴が光った。
「これは、私が欲しがって、私が諦める」
凛は扉を閉めた。
母の顔が細くなっていく。
「凛」
「ごめん、母さん」
「謝らなくていい」
閉じる直前、母の口が動いた。
「あなたは前にも――」
扉が消えた。
同時に、他の三つの扉も揺らぐ。
「待って!」
葵が初めて大きな声を出した。
食卓の母親へ手を伸ばす。
それでも、一歩は踏み出さなかった。
「……私も、こちらにいます」
佑月は姉の扉へ背を向けた。
「偽物のくせに、本人より優しい声出すな。反吐が出る」
喉から、一音だけ旋律が漏れる。
どこかで、凛の中の市杵島姫が同じ音を口ずさんだ。
琴葉は自分の扉を見ていなかった。
「私、今の私も結構好きだから。よく転ぶけど」
「そこは直して」と佑月。
「努力します!」
「で」
佑月は凛へ視線を向けた。
「あんたのお母さん。顔、見たでしょ。偽物だった?」
「分からない。……でも、手を伸ばしたとき、温かそうだった」
「温かい偽物ほど、面倒なものはない」
「うん」
「だから閉めて正解。次に会うときは、本物の顔で呼ばせろ」
「誰に言ってるの」
「世界に」
凛は小さく息を吐いた。笑ったのか、堪えたのか、自分でも分からなかった。
四人が手をつなぐ。
凛はもう一度、三岐路を開いた。
一つ目は、扉の人生へ行く道。
二つ目は、この駅に残る道。
三つ目は、四人で現在へ帰る道。
凛は三つ目を選ぶ。
向かいの列車から、子供の泣き声が二つ聞こえた。
選ばれなかった二つの道。
ホームへ電車が滑り込んでくる。
「乗って!」
四人は駆けた。
琴葉が最後尾になり、閉まりかけた扉へ手を伸ばす。
触れる前に、扉がひとりでに開いた。
「え?」
「早く!」
凛が琴葉を引き込む。
扉が閉じた。
列車が動き出す。
未選択駅のホームに、一人だけ残っている。
七歳の凛だった。
小さな手を窓へ当てている。
凛も、反射的に手を重ねた。
ガラス一枚の向こうで、幼い唇が動く。
声は聞こえない。
それでも、何を言ったか分かった。
「前も、私を置いていった」




