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第1話 存在しない少女

 火曜日。午前七時四十二分。


 渋谷駅前は雨だった。


 信号は赤。傘の群れが交差点の縁で止まり、濡れたアスファルトに無数の色を落としている。


 その中に、一人だけ傘を持たない少女がいた。


 長い黒髪。白い頬。耳の上には、小さな向日葵の髪飾り。


 正親町葵だ。


 三年間、同じ学校に通っている――はずの、凛の同級生。


 葵の首に、黒い腕が巻きついていた。


 人間の腕より二倍は長い。関節が一つ多く、指先は制服の襟へ溶け込んでいる。


 誰も見ていない。


 隣の会社員は欠伸をし、前に立つ小学生は水たまりを蹴った。葵自身も、首を絞められているとは思えない穏やかな顔で信号を待っている。


 凛だけが、それを見ていた。


 見てしまった。


 左手の甲が熱くなる。


 手袋の下で、三つ巴の痣が脈打った。


 凛は傘を捨て、人の隙間を抜けた。


「正親町」


 葵が振り向く。


 黒い腕も振り向いた。


 肘の内側が裂け、濡れた歯が並んだ。


 凛は考える前に、その手首をつかんでいた。


 冷たい、と思うより先に、指の腹へ細い凹凸が触れる。


 文字だった。


 腕の内側に、爪で刻んだような文字がびっしりと並んでいる。


 久我凛。


 久我凛。


 久我凛。


 すべて、凛の名前だった。


「久我さん?」


 葵が首をかしげる。


 その動きに合わせて、腕がぎり、と締まった。


「苦しくないの」


「え?」


「首」


 葵は自分の喉に触れた。白い指が、黒い腕をすり抜ける。


「別に、何も」


 信号が青へ変わった。


 人波が動き出す。押された葵を、凛は歩道の端へ引いた。


 その瞬間、黒い腕はほどけた。傘と傘の隙間へ沈み、最初から雨の影だったように消える。


「今の、見えた?」


「何がですか」


 葵は本当に分からない顔をしていた。


 凛は濡れた手袋を握る。


「……何でもない」


「そうですか」


 葵は微笑んだ。


 その笑顔を、凛は知っている気がした。


 けれど、いつ見たのか思い出せなかった。


     ◇


「凛ちゃーん! 待って、そこ閉めないで、閉め――わっ!」


 教室の引き戸へ駆け込んできた西園寺琴葉が、何もない床でつまずいた。


 倒れながら鞄を放り、机の角を避け、最後は両手をついてきれいに着地する。


「セーフ!」


「何を基準に?」


「顔です。顔からいかなかったので」


「人類はそれをアウトと呼ぶと思う」


 凛が言うと、琴葉は床に座ったまま、えへへと笑った。


 教室の後ろから、気だるい声が飛ぶ。


「朝から床と仲良しとか、人生楽しそうで羨ましい」


 山科佑月は眼鏡の奥で目を細め、机に頬杖をついていた。黒い髪と不機嫌そうな口元は、今日も一ミリの乱れもない。


「佑月ちゃん、おはよう!」


「声でか。鼓膜に謝って」


「鼓膜さん、ごめんなさい!」


「本人に謝るな」


 いつもの会話だった。


 いつもの、はずだ。


「おはようございます」


 葵が教室へ入ってくる。


 琴葉がすぐに手を振った。


「葵ちゃん、おはよ! すごい濡れてる。傘は?」


「忘れてしまって」


「三人で入ればよかったのに。昨日も一緒に帰ったんだし」


 凛は琴葉を見る。


「昨日?」


「うん。駅前のパンケーキ屋さん。葵ちゃん、苺だけ最後まで残してたよね」


 葵が一拍置いて頷く。


「はい。おいしかったです」


「待って」


 佑月がスマホから顔を上げた。


「正親町、昨日は図書委員で残ってたでしょ。私、返却台で見たけど」


「あれ?」


 琴葉は瞬きをした。


 葵も困ったように笑う。


「そう、でしたね。図書室にも行きました」


「パンケーキ屋と図書室、同時に?」


「図書室の後だよ、たぶん」


 琴葉の語尾から自信が消える。


 凛は鞄を机に置いた。


「何を食べたの」


「だからパンケーキ」


「味は?」


「えっと……苺?」


「店の席は」


「窓際。だったよね、葵ちゃん」


「はい」


「天気は」


 二人とも黙った。


 昨日は、午後から暴風雨だった。


 駅前の店は臨時休業していたはずだ。


 凛はスマホを出した。


 写真アプリを開く。琴葉の言う店で撮ったらしい画像が、昨日の日付に保存されていた。


 窓際の席。晴れた空。笑う琴葉と、不機嫌そうな佑月。それから凛。


 葵だけがいない。


「琴葉。あなたの写真を見せて」


「え、うん」


 琴葉の画面には、四人がいた。


 同じ構図。同じ服。同じ皿。


 凛の画面で空席になっている場所に、葵が座って笑っている。


「加工した?」


「してないよ!」


「じゃあ、送って」


 琴葉が写真を送る。


 受信した瞬間、葵の姿が消えた。


 空席だけが残る。


「……何、これ」


 琴葉の声が震えた。


「通信で画質落ちたとか?」


「人間一人を圧縮する通信規格があるなら教えて」


 佑月は毒づきながら立ち上がった。


 葵へ近づき、その足元を見る。


 窓から射す薄い光の中で、葵の影が二つ伸びていた。


 一つは右へ。


 もう一つは、光源のある左へ。


 佑月の顔から、わずかに血の気が引いた。


 すぐに目を逸らす。


「朝から怪談ごっこ? 趣味悪」


「佑月」


「何」


「今、何を見たの」


「別に」


「嘘」


「あんたにだけは言われたくない」


 予鈴が鳴った。


 担任が入ってきて、全員が席へ戻る。


 点呼で、葵の名前は普通に呼ばれた。


「正親町」


「はい」


 続いて凛の名も呼ばれた。


「久我」


「はい」


 何もおかしくない。


 そのことが、一番おかしかった。


 昼休み、凛はクラスメイト三人へ別々に葵のことを尋ねた。


 一人は「去年の体育祭でリレーを走った」と言った。


 一人は「喘息だから見学していた」と言った。


 最後の一人は、葵の名を聞いた瞬間に不思議そうな顔をした。


「誰、それ」


 そう答えた直後、葵が教室へ入ってきた。


 クラスメイトは目を見開き、自分の発言を忘れたように手を振る。


「葵、購買にいたの? パン買えた?」


 葵も自然に答えた。


「はい。最後の一つでした」


 会話に継ぎ目はない。


 凛だけが、縫い合わせる前の裂け目を見ていた。


「去年の体育祭、あなたは何をしていた?」


 二人きりになってから聞くと、葵は長く黙った。


「……みんなを、応援していました」


「誰を?」


 葵は答えられなかった。


     ◇


 放課後、四人は教室に残った。


 棚から二年分の行事写真を引っ張り出す。


 文化祭、体育祭、修学旅行。


 葵は、どの写真にも写っていた。


 ただし端末へ取り込むと、結果が変わる。


 琴葉のスマホでは四人。


 佑月のスマホでは葵の顔だけがぼやける。


 凛のスマホでは、葵が消える。


 教室に飾られた集合写真では、凛が消えていた。


「……は?」


 佑月が、初めて毒のない声を出した。


 中央には葵が立っている。


 本来そこにいたはずの凛は、どこにもいない。


 クラス全員が葵の方へ少しずつ身体を傾け、まるで彼女を中心に撮った写真のようだった。


「私、この写真覚えてる」


 琴葉が言う。


「凛ちゃんが真ん中に立つの嫌がって、私が後ろから押した。葵ちゃんは、その隣で笑ってて……」


「どっちもいたの」


「いた。絶対」


「じゃあ、私はどこ?」


 誰も答えられなかった。


 葵が写真へ手を伸ばす。


「久我さん」


「触らないで」


 凛の声が強くなった。


 葵の指が止まる。


「……すみません」


 傷ついた顔をさせた。


 それを見て、凛の胸が痛む。


 この痛みまで偽物なのか。


 三年間の記憶は曖昧なのに、葵が俯けば、どんな顔で笑わせればいいかを身体が知っている。


「謝らなくていい。帰りましょう。送る」


「一人で帰れます」


「私が一人にしたくない」


 言ってから、凛は自分でも驚いた。


 佑月が鼻で笑う。


「はいはい、王子様。刺されても知らないから」


「佑月ちゃんも来る?」


「行かない。私はデータを洗う。記憶は嘘つくけど、ログは嘘つくの下手だから」


 佑月はそう言い、また一度だけ葵の足元を見た。


「ただし、その子の後ろは見ない方がいい」


     ◇


 雨は上がっていた。


 凛と葵は、濡れた歩道を並んで歩く。


「私が怖くないんですか」


 葵が聞いた。


「怖い」


「即答ですね」


「嘘をついても仕方ないから」


「では、どうして」


「あなたが私より怖がっている」


 葵は黙った。


 街灯の下を通る。


 影は一つだった。


 次の街灯では、二つになった。


「葵」


 呼んだ瞬間、葵の肩が跳ねた。


 凛は気づく。


 葵は一度も、自分を下の名前で呼んだことがない。


「あなたは、あれを知っているの」


 背後の影が、壁を這い上がる。


「知りません」


 黒い指が、葵の肩へ触れる。


「でも――」


 葵は振り向かなかった。


「ずっと、誰かに見つけてほしかった」


 黒い腕が首へ巻きつく。


 朝より強く。葵の白い喉が歪む。


 凛は手を伸ばした。


「お願い」


 葵が言った。


 声の温度が消えた。


「見ないでください」


 空気が震えた。


 命令された、と凛の身体が理解する。


 視界が勝手に閉じようとする。まぶたへ鉛が乗り、首が正面へ戻される。


 凛は左手の痣へ爪を立て、痛みで抵抗した。


「嫌」


 葵が息を呑む。


 凛は黒い腕を見た。


 腕の内側の名前が、一斉に動く。


 文字が唇の形へ並び替わった。


 葵ではなく、凛の耳元へ口を寄せる。


「見つけた」


 声は、凛自身のものだった。


「十九人目の、わたし」


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