正書官
「あの嘘つき書記か?」
掲示板の前で聞こえた声に、カイは足を止めた。
勝利の鐘から二日。王都の広場には祝旗が揺れている。
その下には、南区の退避と封鎖についての報告が張り出されていた。
計画立案、カイ・レムナ。
自分の名を指さした男の隣で、別の男が頷いた。
「うちの親父も、あいつらの案内で逃げたんだ」
「予言が見えるって話は本当なのか?」
「知らん。けど、逃げ道を用意してくれたのは本当だ」
カイは声をかけず、掲示板から離れた。
名前は読まれた。
警告が外れたという噂ではなく、実際にした仕事と一緒に。
広場の端では、南区から避難した人々へ食事が配られていた。
焼けた家へはまだ戻れない。通れるようになった道もあれば、騎士が立ち入りを止めている道もある。
勝ったからといって、明日から元どおりにはならない。
「顔、見せてくればよかったのに」
紙束を抱えたミナが追いついてきた。
「お礼を言ってもらいに?」
「文句かもしれないよ。帰れないんだから」
「それは、ちゃんと聞きます」
ミナは一枚、街報を差し出した。
大きな見出しは王国軍の勝利。その下には、避難先と、家の被害を届け出る場所が載っている。
カイの名前もあった。騎士や技師、避難を手伝った住民たちの働きと一緒に。
「今度は、見出しを変えられなかったんですね」
「全部あたしが確認したからね」
ミナは紙束を持ち直した。
「自分の店、やっぱり持つ。こういう知らせも出せる店」
「売れますか」
「売るの。そこはあたしの仕事」
その時、配給の列にいた女が街報を一枚求めた。
ミナは代金を受け取り、地図の印を指して避難先を説明する。
話が終わるのを待ち、カイも読んでいた一枚の代金を払った。
ミナは笑って、硬貨を鞄へしまった。
*
昼、神殿長室には四人とも呼ばれていた。
カイたちが入ると、イネスは二冊の記録を机へ並べた。
「こちらは、公的な実施記録です」
避難命令。油庫の捜索。地下通路の封鎖。
誰が何を決め、いつ動いたかが、報告と照合されている。
被害の欄には、焼けた建物の記載も残っていた。
「南区の住民と対応者の名簿は、照合を終えました。今回の火災による死者は、ゼロです」
あの夕方から繰り返していた確認が、記録になった。
カイはゆっくり頷いた。
「もう一冊は?」
「あなたの申告と、調査の経過です。封印記録として保存します」
カイだけが読んだ一文。その直後に何を調べ、どんな対策を選んだのか。
イネスは二つを混ぜなかった。
「予言があったと認められるわけでは、ないんですね」
「私には見えませんから」
いつもの短い返事だった。
「ですが、あなたが何をしたかは残せます」
リゼ・ハルンの名を思い出した。
起きなかった惨事と、処分だけが残った書記。
カイの隣には、起きなかった理由まで調べる人がいる。
セドリックが任命書を広げた。
「カイ・レムナ。本日付で、君を正書官に任じる」
カイは任命書の肩書きを、もう一度目で追った。
正書官。
ずっと欲しかったものだった。
「返事は?」
ガレスに小声で言われ、カイは慌てて顔を上げた。
「お受けします」
セドリックは任命書を差し出した。
「南区での判断と、記録の正確さを評価した」
紙を受け取る。
危険のない書庫で、静かに働く。
そのために欲しかった肩書きが、いくつもの現場を走った末に手の中にあった。
「給金も変わりますか」
「規定どおりに」
横でミナが笑いをこらえた。
大事なことだ。そこは譲れない。
セドリックは、小さな鍵も机へ置いた。
「通常書庫の鍵だ。机も正書室に用意してある」
カイは鍵を手に取った。
資料を借りるたび、誰かを呼ばなくていい。
まず、その使い道を思いついた。
「俺も、近衛への任用が決まった」
部屋を出る時、ガレスが王宮の封書を見せた。
「神殿との連絡も担当する」
「要塞の戦功を逃したのに?」
「村と南区で働いただろ」
ガレスが笑う。
「お前と一緒にいたら、仕事がなくなる心配はなさそうだ」
「静かに暮らしたいんですけど」
「それは難しいな」
言い返しかけて、カイはやめた。
任命書を折らないよう、丁寧に鞄へ収めた。
*
夕刻、正書室へ戻ったカイは、新しく割り当てられた机に腰を下ろした。
窓がある。書庫も近い。
外を走らずに済むなら、申し分ない場所だった。
廊下から、ミナとガレスの声が聞こえた。
避難先の案内をいつまで街報に載せるか、まだ話し合っている。
イネスは記録庫へ、二冊の記録を運んでいった。
カイは引き出しを開けた。
これまでの作業紙を収める。
どの紙にも、他の書記の転写にはない一行があった。
神殿の鐘が鳴った。
祝勝の鐘ではない。
カイは白紙を取り、啓示の間へ向かった。
白碑には、新しい黒い文字が浮かんでいた。
その下に、薄灰色の一行。
三人の書記が、それぞれ黒い文を写している。
カイは灰色の一行を、自分の紙に控えた。
三枚の正式な転写を照合し、認証に回す。
自分の紙だけを畳んで、懐へ入れた。
部屋を出ると、鐘を聞いたガレスが待っていた。
「また、見えたのか」
「はい」
「どうする?」
原因は、まだ分からない。
調べた末に、見当違いだと言われるかもしれない。
それでも、最初に向かう場所を考える自分がいた。
「まず、確かめに行きます」
ガレスが隣に並ぶ。
記録庫へ寄り、ミナにも声をかけよう。
書庫の鍵は、鞄の中にある。
帰る場所はできた。
正書官カイ・レムナは、自分から外へ歩き出した。




