四十七人
「ありました」
イネスが机の上へ古い図面を広げた。
現在の水路図より、二十年以上古い。
紙の端は傷んでいたが、下町を横切る一本の線ははっきり残っている。
「下町排水路」
カイが文字を読む。
「今の図面にはありません」
「ええ。ですが、昔は確実に存在しています」
排水路は下町を通り、さらに低い川下へ抜けていた。
西水門が開いた時、流れ込んだ水を逃がすための道だ。
「これが使えれば?」
「少なくとも、下町に水が溜まり続けることは防げます」
イネスはそこで言葉を切った。
「使えれば、ですが」
*
ガレスと水利技師を連れ、古い図面に記された場所を調べた。
入口らしき場所は見つかった。
だが、水は流れていない。
石と土砂の向こうで、古い水路が完全に塞がっている。
「掘れば通せるか?」
ガレスが聞く。
技師は首を横に振った。
「中の状態が分かりません。入口だけ開けても、途中が崩れていれば意味がない」
「調べるのにどれくらい?」
「半日は欲しい。その後、復旧にどれだけかかるかです」
カイは下町を見た。
裏予言では三百人が溺死する。
水門から流れ込む水。
消えた排水路。
低い場所に広がる下町。
原因は、かなり絞れた。
そこへミナが戻ってきた。
「下町、今いる住民はだいたい三百人」
数字を聞いた瞬間、全員が黙った。
「……ほぼ同じですね」
カイが言う。
「裏の数字と?」
「はい」
つまり、三百人の一部が巻き込まれるのではない。
下町そのものが危険になる。
「避難は?」
ガレスが聞いた。
「できる。でも、いきなり全員に『水門が開いたら死ぬ』なんて言ったら大騒ぎになるよ」
建国祭の時と同じだった。
正しい情報でも、伝え方を間違えれば別の危険を作る。
「排水路を直すだけでも足りない。避難だけに賭けるのも危ない」
カイは旧図面と下町を交互に見た。
「両方、準備する必要があります」
その時だった。
「カイ・レムナ」
後ろからセドリックの声がした。
「少し歩こう」
*
川沿いに、小さな慰霊碑が立っていた。
セドリックはその前まで行かなかった。
少し離れた場所で足を止める。
「二十七年前、私はこの街にいた」
カイは黙って続きを待った。
「当時、私は三十一歳。神殿から派遣されたばかりの神殿官だった」
その年も、大雨が降った。
白碑には予言が出た。
「第三夜鐘に、西水門は開放される」
水門を開けば都市中心部は守られる。
だが、放水先の集落に十二人が残っていた。
「私は水門を開けるべきではないと考えた」
セドリックの視線が慰霊碑へ向く。
「十二人を救う時間が欲しかった。だから水門を鎖で固定し、開放を半刻遅らせた」
カイは、セドリックの右脚を見た。
「結果は?」
「水圧が限界を超えた」
鎖が壊れた。
水門も損傷した。
制御できなくなった水が、本来流れるはずのなかった三つの地区へ流れ込んだ。
「四十七人が死んだ」
セドリックは静かに言った。
「私は救助中に脚を潰した。それだけで済んだ」
第8話の建国祭。
第11話で見せた右脚の遅れ。
証拠のない危険だけで公的計画を止めない姿勢。
全部がつながった。
「私は十二人を選び、四十七人を死なせた」
「十二人を助けようとしたことを、後悔しているんですか」
「違う」
セドリックは即答した。
「十二人を救うべきだった」
カイは顔を上げた。
「だが、確実に都市を守る仕組みを止める以外の方法を、私は探し切らなかった」
水門を開くか。
十二人を救うか。
当時のセドリックは二つから一つを選んだ。
「一人の判断で、公共の仕組みを止めた。そして失敗した」
だから今のセドリックは可能性だけでは動かない。
人命を軽く見ているからではない。
人を救おうとして、より多くを失ったからだ。
「君が水門を止めろと言わなかった時、少し驚いた」
セドリックが言った。
「止めれば、中心部が危ない」
「三百人も見捨てない」
「はい」
セドリックは短く息を吐いた。
「二十七年前の私には、その答えがなかった」
*
庁舎へ戻ると、水利技師が駆け込んできた。
「神殿長!」
濡れた観測紙を差し出す。
「上流の雨量が予測を超えています」
セドリックが紙を読む。
「どれほど早まる」
「水門開放を、予定より半日早めます」
「半日?」
カイは旧図面を見た。
排水路の調査。
閉塞箇所の復旧。
三百人の避難。
そのために見込んでいた時間が、一気に消えた。
外では、すでに雨が降り始めている。
ガレスがカイを見る。
「どうする?」
水門は止めない。
三百人も見捨てない。
その条件は変わらない。
変わったのは、残された時間だけだ。
カイは旧図面を掴んだ。
「両方、間に合わせます」
次に水門を止めれば、四十七人では済まないかもしれない。
だから今度は、水門を開けたまま救うしかない。




