祝鐘は落ちる
白碑に黒い文字が浮かんだ。
「秋の収穫祭で、王国の豊作宣言が読み上げられる」
カイ・レムナは一字ずつ作業紙へ写し、最後の句点で筆を止めた。
その下に、まだ文字がある。
「宣言後、祝鐘が落下し、三人が負傷する」
黒ではない。白い石へ溶けかけたような、薄灰色の一文だった。
カイは目を細めた。朝の光が入らない啓示の間で、白碑だけが淡く浮かんでいる。
白碑の予言は、三人の書記が別々に写し、正書官が照合する決まりだ。見える内容が違うことなど想定されていない。
隣の書記の紙を盗み見た。そこには最初の一文しかない。向かいの二人も同じところで筆を置いている。
「その下は、写さなくていいんですか」
思わず声にすると、正書官が顔を上げた。
「下?」
啓示の間に、筆の音が途切れた。
周囲の視線がカイへ向く。正書官任用の審査を控えた補助書記が、白碑にない文字を見たと言い出す。想像するだけで胃が重くなった。
「いえ……何でもありません」
視線を戻しても、灰色の文字は消えない。線の癖まで上の予言と同じだった。
寝不足だ。正書官任用の課題を三晩続けて見直したせいで、目が妙な像を拾っている。それなら説明はつく。
見えない一文を報告して、白碑へ勝手に書き足したと疑われれば、任用どころではない。正書官になれば、危険のない書庫で、決まった給金を受け取れる。安定した椅子を目前にして、自分から蹴り倒す趣味はなかった。
三人の正式な転写紙は、黒い一文で完全に一致した。カイの作業紙だけが一行多い。
彼はその紙を伏せ、新しい紙へ黒字だけを書き直した。
正書官が三枚の転写紙を照らし合わせ、神殿長の認証へ回す。カイの作業紙には誰も触れない。やがて同じ文面が王宮と祭典の担当者へ送られていった。
確かなものだけを記す。それが書記の仕事だ。
少なくとも、その朝まではそう思っていた。
*
昼を過ぎると、王都リュセルの秋の収穫祭会場は人で埋まった。
秋の収穫祭では、王国各地の収穫量と冬の備蓄が公表され、最後にその年が豊作だったかどうかを王国が正式に宣言する。朝の予言が示していたのは、その締めくくりだった。
カイは神殿から届けた公示文を祭官へ渡し、そのまま式が終わるまで確認役として残っていた。
中央の壇には収穫量をまとめた巻物が置かれ、西側には祝鐘を吊るした低い木造の鐘楼が立っている。鐘は四メートルほどの高さにあり、壇との間を祭官や作業員が行き来していた。市民は縄で区切られた外側から、それを見守っている。
鐘は群衆の真上にはない。
それを確かめた自分に、カイは小さく苛立った。見間違いだと決めたはずなのに、会場へ来てから何度も鐘楼を見ている。
中型の青銅鐘。太い綱。年季の入った木枠。
落ちるとすれば、どこが壊れる。
見上げても、縄が切れかけている様子はない。作業員は鐘の下を確認し、試しに綱を軽く引いている。木枠も傾いてはいなかった。鉄の留め具までは地上から見えないが、毎年使われている物なら、担当者が点検しているはずだ。
やはり見間違いだ。
そう結論づけると、肩の力が少し抜けた。
それでも祭官へ一言だけ伝える案は浮かんだ。
鐘をもう一度調べてほしい。
理由を聞かれたらどう答える。自分にしか見えない薄灰色の文字が、三人の負傷を告げたから。まともに聞こえる要素が一つもない。
壇上で祭官が巻物を開いた。
今年の麦と豆、果樹の収穫量。国へ納められる穀物。冬を越すための備蓄量。それらが順に読み上げられていく。
最後の数字を告げると、祭官は巻物の末尾へ目を落とした。
「以上をもって、本年を豊作と宣言する」
広場から歓声が上がった。
表の予言は、ここまで文字どおりだった。
祭官が西へ手を上げる。鐘楼の作業員が綱を握った。
青銅の音が、広場へ響いた。
一打目は澄んでいた。
二打目に、甲高い金属音が混じった。
鐘の上で何かが弾けた。
次の瞬間、青銅鐘が真下へ落ち、鐘楼の横木へ激突する。木枠が砕け、鐘の進路が壇側へずれた。
「離れろ!」
誰かが叫んだ。
作業員の一人が鐘に脚を払われて倒れた。折れた横木が衛兵の肩へ落ち、飛んだ木片が祭官の額を打つ。
歓声が悲鳴へ変わった。
カイの頭に、朝の一文がそのまま浮かんだ。
宣言後、祝鐘が落下し、三人が負傷する。
三人。
「鐘楼から離れてください! 治療役を!」
考えるより先に声が出た。
押し寄せかけた市民を縄の外へ戻し、倒れた衛兵の上から木材をどける。別の作業員と一緒に鐘へ絡んだ綱を切り、動けない者の周囲を空けた。祭官は額を押さえながら座り込み、衛兵は右腕を動かせず、鐘に倒された作業員は脚を抱えていた。
治療役が駆けつけ、三人を一人ずつ診ていく。
「負傷者は三名。命に別状はない」
その報告を聞いた時、カイの指先は冷えきっていた。
落ちた鐘のそばに、錆びた鉄片が転がっている。事故には原因があった。事前に鐘楼を調べさせれば、見つかったかもしれない。
あの一文を口にしていれば。
安全確認をやり直してくれと、せめて言えていたら。
だが理由を問われれば、誰にも見えない文字の話をするしかない。今朝の自分なら、やはり口を閉ざしただろう。
それでも、三人が運ばれていく姿を見れば、正しかったとは思えない。
答えは出なかった。
ただ、伏せて隠した作業紙の感触だけが、いつまでも指に残った。
*
祝鐘の事故から、二週間ほどが過ぎた。
あの事故を偶然と呼べる理由を、カイは探し続けていた。
鐘を支えた鉄の留め具は古く、錆も進んでいた。事故そのものは、予言がなくても起こり得る。だが、負傷者が三人になるところまで書かれていた理由は説明できなかった。
そんなある朝、白碑に再び黒い文字が浮かんだ。
「王都騎士団は北街道の灰狼を討伐する」
周囲の書記たちが筆を走らせる。
カイは黒字を写し終え、その下を見た。
薄灰色の一文が、今度も同じ書体で続いていた。
「討伐終了から一刻以内に、隊長は死亡する」
見間違いだと言い切るには、あの日の三人が重すぎた。
カイは、薄灰色の一文から目を逸らせなかった。




