遅ない?
マイルズの金輪が、板の端を一回だけ叩いた。
かつん。
それだけが、やけに聞こえた。
「……なあ、マイルズ」
「はい」
「皿、あんた洗ってくれへん?」
マイルズのしっぽが止まった。
一拍。
二拍。
「お断りいたします」
「ですよね」
即死やった。
うちは片手だけひらっと上げて、降参みたいな形にした。
しょうもない。
ほんまにしょうもない。
皿を洗うか洗わへんか。
それだけの話やったはずやのに。
「……ほんま、皿くらいで」
そこまで言って、やめた。
天井を見る。
木目が一本、変なところで曲がっとる。
「……わかっとる。城行く言うてたし。帰る方法聞くとか、急に変なこと言い出しただけやし。どうせ途中で冷えて戻ってくるわ。あいつ、そういうとこあるし」
あるか?
知らん。
あることにした。
「……妹って、めんどいな」
それも、軽口のつもりやった。
マイルズは何も言わんかった。
窓の外は、まだ完全には暗くなかった。
階段みたいに重なった外王都村の屋根が、夕方の色を薄くかぶっとる。下の通りから、誰かの笑い声と、鍋を叩く音がした。
普通や。
村は普通に続いとる。
うちらが喧嘩しても、皿が腐っても、妹が出ていっても。
犬は鳴くし、誰かは飯食うし、誰かは酒飲む。
戻ってくるやろ。
たぶん。
いや、戻ってくる。
戻ってきたら、何て言う。
別に。
何も。
向こうが先にあんなこと言うたんやし。
……いや、でも。
「……あー、もう」
枕に顔を押しつけた。
臭い。
いや、枕やなくて皿や。
部屋の隅から来とる。
匂いまでしつこい。
気むうみたいに無言で残るな。
時間の感覚が、だんだん薄くなっていった。
マイルズの金輪が、ときどき板を叩く。
下の階の声が、少しずつ減る。
窓の色だけが、薄い紫から、汚れた青に変わっていく。
うちは何回か、扉のほうを見そうになった。
見いひん。
見たら負けや。
勝ち負けの話ちゃうやろ、ってどっかで思ったけど、そのどっかはすぐ黙らせた。
「……遅ない?」
口から出た。
マイルズが、板から目を上げた。
「外王都村から城門までは、歩幅にもよりますが、それなりに距離がございます」
「そういう数字いらんねん」
「では、言い換えます」
マイルズは一拍置いた。
「追うなら、早いほうがよろしいかと」
腹の奥が、むっとした。
「……別に、追うとかちゃうし」
声が小さかった。
「ま、まあ……城に行く言うてたし。あいつやったら、そのうち着くやろ。……着く、よな?」
最後だけ、変なふうに落ちた。
窓の外を見る。
空が、もう暗かった。
薄い夕方やない。
夜の色やった。
その瞬間、さっきまで何とか形を保っとった何かが、ぺしゃっと潰れた。
「……もうええわ」
うちは起き上がった。
「迎えに行く」
補助外套を掴む。
いつもなら肘に引っかけるだけやけど、今日は一回、ちゃんと肩にかけた。
マイルズは何も言わず、板を閉じた。
「戻らんかったら、城ごと起こして」
「承知いたしました」
「そこは止めるとこやろ」
「その前にお戻りくださいませ」
うちは窓へ向かう。
取っ手を掴んで、がっと開けた。
マイルズが、板の途中で顔を上げた。
夜の空気が部屋に入ってきた。
冷たい。
油とタレの匂いを、一瞬だけ押し返す。
出る前に、一回だけ部屋を見た。
気むうの本。
気むうのベッド。
斜めになった皿。
それから、閉まったままの扉。
「……すぐ戻るわ」
声に出したんか、口の中だけやったんか、自分でもようわからんかった。
窓枠を蹴って、外へ出る。
落ちる前に、エネルジアを足元へ集めた。
身体がふわっと持ち上がる。前よりは、もうだいぶ慣れた。
肩の補助外套が夜風でばさばさ揺れる。
ちゃんと着ると、やっぱり邪魔やった。
「気むう……どこ行ったんや」
外王都村は、夜になると昼よりずっと別の顔になる。
階段みたいな街並み。
上下にずれる屋根。
細い道に並んだ黄色い灯り。
閉まりかけた店。
まだ飲んどる冒険者の声。
どっかの窓から漏れる煮込みの匂い。
その全部の上を、うちは滑るみたいに飛んだ。
高く上がれば、城のほうは見える。
山の上。でかい影。明かりの筋。あそこまで道は続いとる。
昼なら、一本道に見えたかもしれん。
でも夜の街は、上から見ても素直やなかった。
階段は途中で曲がるし、屋根は重なるし、明かりのない路地が、黒い縫い目みたいに何本も走っとる。
城は見える。
せやのに、気むうは見えへん。
人影は見える。
獣人も、毛玉も、角のあるやつも、しっぽ二本のやつも、背ぇ曲がったばあちゃんも。
青灰の髪はない。
白っぽい服もない。
あいつの歩き方もない。
「……くそ」
高度を少し下げる。
街灯の一つが、ちかちか変な間隔で瞬いとった。
二回、止まって、三回。
その隣の灯りは、影だけが遅れて揺れとる。
世界、まだパッチ当たってへん。
そんなこと、もう知っとる。
いちいちツッコんどる場合ちゃう。
せやのに、胸の奥だけがざわっとした。
バグった灯りの下を、気むうが一人で歩いてる絵が勝手に浮かんだ。
「……やめろや」
誰に言うたんか、またわからん。
空から見ても埒が明かへん。
うちは近くの屋根に足をつけて、そこから通りへ降りた。
石畳に靴が鳴る。
「すんません!」
通りを歩いとった角つきのおっちゃんが振り向いた。
「灰色っぽい髪で、ちょっと青入ってて、目ぇ青い女の子、見ませんでした?」
おっちゃんは眉を寄せた。
「灰色……? いや、見てないな」
「そう……ですか。すんません」
違う。
次。
「すみません、長い髪で、灰色と青の間みたいな色で、目が青い子。白っぽい服で、あんまり喋らへん感じの――」
「さあねえ。今日は人が多かったから」
違う。
次。
「青い目で、顔あんまり動かんくて、でも怖いわけちゃうくて、えっと……」
自分で言いながら、言葉が詰まった。
何言うとんねん、うち。
気むうを探しとるのに。
口から出てくるんは、髪の色とか、目の色とか、喋らへんとか、そんなんばっかりや。
それで足りるわけないやろ。
妹です、だけで見つかる世界ならよかった。
この街では、妹にも特徴欄が要るらしい。
「……ほんま、どこ行ったんや」
奥歯を噛んだ。
道の端に、小さい影が動いた。
最初、子どもかと思った。
違った。
緑っぽい肌の、ちっさいカエルみたいなやつやった。服は着とる。腰に小さい袋を下げて、両手で何かの包みを抱えとる。
そいつが、うちのほうをちらっと見た。
「なあ!」
思わず駆け寄る。
「灰色っぽい髪で、青い目の女の子見いひんかった? 背ぇはこれくらいで、白っぽい服で、静かで、たぶん……ちょっと怖そうに見えるかもしれんけど、怖いんちゃうくて」
自分でも、最後のほうは何を言うとるかわからんかった。
カエルの子は、ぱちぱち瞬きした。
それから、うちやなくて、通りの奥を見た。
「……青い目の子なら、見たケロ」
息が止まった。
「どこ!?」
「こっちの角ケロ。でも、変だったケロ」
「変?」
「あんまり周り見てなかったケロ。呼び込みの声にも、鍋の匂いにも、ぜんぜん振り向かなかったケロ」
小さい手が、細い路地のほうを指した。
昼なら、ただの裏道に見えたかもしれん。
でも夜のそこは、灯りが途中で切れていた。
奥の影だけが、やけに濃い。
「……おおきに」
うちは走り出した。
曲がり角の奥で、影がひとつ、先に道を譲るみたいに細くなった。
見間違いでも、もう止まれへんかった。




