今ちゃうやろ
路地へ入った瞬間、背中側の音が一段遠くなった。
鍋を叩く音も、酔っぱらいの笑い声も、誰かが階段を駆け下りる音も、まとめて奥へ押し戻される。
石。
湿った木。
腐りかけの野菜。
あと、何か知らんけど、鼻の奥に残ったら負けみたいな匂い。
「……うわ、急に治安の顔変わるやん」
口ではそう言うたけど、足は止めへん。
細い路地は、奥へ行くほど灯りが減っていく。壁に掛かったランプが、二つに一つくらい死んどる。生きとるやつも、光り方が弱い。黄色いはずの火が、時々だけ青っぽく薄まって、すぐ戻る。
……バグか。
いや、今それ拾ってる場合ちゃう。
「気むう……」
名前を呼んだつもりやった。
でも、声は壁に吸われて、すぐ消えた。
返事はない。
そらそうや。
返ってきたら苦労せえへん。
角を曲がる。
また細い道。
その先で、階段が斜めに落ちとる。
城の方角とは少しズレてる。
……あのカエルの子、ほんまにこっち言うたよな。
胸の奥が、嫌な鳴り方をした。
その時やった。
背中のほうで、灯りが一つ消えた。
ふっ。
風もないのに。
振り向く。
何もない。
……いや。
路地の角。
壁と屋根のあいだ。
そこだけ、影が濃い。
人の形には見えた。
頭。
肩。
腕みたいなもの。
せやのに、顔だけが抜け落ちとる。
黒い布を、人の形に立てたみたいな影やった。
一つ。
その上、屋根の端にもう一つ。
「……いやいやいや」
足が勝手に半歩下がった。
二つとも、動く。
「今ちゃうやろ……!」
考えるより早く、うちは地面を蹴った。
エネルジアを足裏に集める。
身体が浮く。
低い屋根の間を、縫うみたいに滑り抜ける。
背中で、空気が裂けた。
バチッ、と青白い線が壁に走る。
当たりに来た、というより、うちが抜けようとした出口を横から潰しに来た。
細い火花が散って、道が一瞬ふさがる。
「っ、はあ!? 撃ってきた!? 今、普通に撃ってきたやんな!?」
叫んでも返事はない。
影は音もなく追ってくる。
速い。
飛んでるわけやない。
走ってるわけでもない。
壁の上、屋根の裏、階段の影、そういう場所を勝手に繋いで、こっちの進む先に滑り込んでくる。
「くっそ、夜の街、急に高難度ステージにすなや!」
右へ切る。
低い物干し竿をくぐる。
左の壁を蹴って、上へ跳ねる。
屋根のふちをかすめて、また路地へ落ちる。
補助外套が肩でばさっと暴れた。
ちゃんと着てくるんやなかった。
邪魔。
でも、今さら脱ぐ暇ない。
後ろから、もう一発。
青白い線が、今度は足元の石畳を叩いた。
石が弾ける。
小さい欠片が頬をかすめる。
「痛っ……! おいコラ! 顔はあかんやろ顔は!!」
ほんまは、顔どころの話やない。
心臓が喉のすぐ下まで来とる。
でも、口を止めたら、そのまま怖さに追いつかれそうやった。
もう一回、上へ。
路地の壁を蹴り、屋根と屋根のあいだへ抜ける。
夜空が一瞬だけ広がった。
城が見える。
遠い。
でかい。
光っとる。
気むうは見えへん。
「……っ」
視線を戻した、その瞬間。
前の屋根の影から、黒い腕みたいなものが伸びた。
「うわっ!」
身体をひねる。
ぎりぎりで避ける。
その先の路地へ入るつもりやった足が、勝手に別の屋根を蹴っていた。
「だったら……!」
アニメで見たやつを思い出した。
たぶん、だいぶアホなやつ。
でも、こういう時に出てくる知識なんか、大体アホや。
まず上。
全力で上。
影がついてくる。
屋根の線を伝って、二つとも上がってくる。
よし。
見とけや。
「――今ッ!」
身体を一気に反転させる。
頭が下。
足が上。
夜空がひっくり返って、屋根が落ちてくるみたいに迫る。
胃が変な場所に上がった。
「うおおおおお死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!」
そのまま背面で落ちる。
落ちながら、壁際ぎりぎりでエネルジアを噛ませる。
速度を殺しきらず、路地の細い隙間へ身体をねじ込む。
靴底が石に触れた。
ずんっ。
膝が笑う。
肩が壁にぶつかる。
でも、止まった。
ゴミ箱みたいな木箱の陰に身体を押し込む。
息を止める。
補助外套の裾を手でつかんで、揺れを殺す。
頭上を、影が二つ通り過ぎた。
黒い布でも投げたみたいに、すうっと。
「……よっしゃ」
声には出さん。
出したら負けや。
胸の中だけで、ちっちゃく勝つ。
そのまま待つ。
一拍。
二拍。
三拍。
遠くで、どっかの扉が閉まる音がした。
誰かの笑い声が、もうずいぶん遠い。
影の気配はない。
……撒いた?
ほんまに?
そろっと木箱の陰から出る。
足の裏が、さっきの着地でじんじんしとる。頬も少しひりつく。
「……あーもう。気むう探すだけで何でこんなアクション要るん……」
そう言いながら角を出た。
目の前に、影が二つおった。
「っっ――はあああ!?」
身体が勝手に構える。
右手にエネルジアを集めかける。
火成波でも何でも、次に動いたら叩き込む。
でも。
影は動かへんかった。
攻撃もせん。
近づきもせん。
ただ、そこに立っとる。
待ってた、みたいに。
「……何やねん」
声が変に細くなった。
「追いかけたいんか、待ち伏せたいんか、どっちかにせえや……」
影は答えへん。
次の瞬間、すっと薄くなった。
輪郭が、濡れた紙みたいにへにゃっと崩れて、壁のしみみたいに潰れていく。
あとには、ほんの少しだけ、赤黒い粒が残った。
火の粉みたいな。
でも、熱はない。
指先を近づける前に、その粒も夜風で散った。
「……何これ」
燃えた跡、やない。
きれいな魔法の残り、みたいな顔もしてへん。
火のゴミ。
「イスシア、助けろや……なあ、ちょっとくらい何か言えや……」
返事はない。
「……くそ」
気むう。
気むうを探す。
通りへ戻ろうとして、足が止まった。
少し先に、小さいばあちゃんが立っとった。
背中が曲がって、杖をついて、さっきからずっと路地の奥だけを見とる。顔はしわだらけで、耳は長い。エルフっぽい。だいぶ古漬けのエルフっぽい。肩に古い布を巻いて、こっちの騒ぎなんか最初から数に入れてへん顔やった。
こんな時間に。
こんな路地で。
普通なら怖い。
でも、もう普通の怖さに構ってる余裕がなかった。
「すんません!」
ばあちゃんが、ゆっくりこっちを見る。
「灰色っぽい髪で、ちょっと青入ってて、目ぇ青い女の子見ませんでした? 白っぽい服で、あんまり喋らへんくて……えっと、顔はそんな動かんけど、怖い子ちゃうくて」
またや。
また、説明が足りへん。
妹って言葉だけで足りてほしかった。
でも、この世界では足りへん。
うちは奥歯を噛んだ。
「……うちの妹なんです。気むうって言います」
ばあちゃんは、しばらく瞬きもせんかった。
それから、細い指で、さっきから見ていた路地の奥を指した。
「ああ……青い目の娘やろ」
息が止まった。
「どこ!?」
「そこの奥へ入っていったよ」
ばあちゃんはそこで一度、口を閉じた。
何かを思い出すみたいに、目だけが細くなる。
「ひとりではなかった」
「……誰と」
「背中の曲がった、緑のフードの爺さんと一緒に」
喉の奥が、変な音を出しかけた。
「爺さん?」
「顔はよう見えんかった。古い緑の外套を着ておった。あれは……この辺りの者ではないね」
「何か聞いてません? あいつ、何か言うてませんでした?」
ばあちゃんは首を横に振った。
「いいや。呼んでも、こちらを見なんだ。足音にも、匂いにも、まるで反応せん。歩いとるのに、歩かされとるみたいでな」
喉が、そこで詰まった。
気むう。
あいつが。
そんなふうに。
緑のフード。
背中の曲がった爺。
夜の路地。
反応せえへん妹。
一瞬だけ、頭の中に見えた。
見えた瞬間、吐きそうになった。
「やめろ」
声に出てた。
「やめろや」
でも、もう遅い。
「……ありがとうございます」
頭を下げたつもりやった。
ちゃんと下がったかは知らん。
足が先に出る。
「おい……」
声が、自分でも聞いたことないくらい低かった。
「どこの誰か知らんけどな……」
路地の奥は、もう道というより、建物と建物のあいだに残った黒い隙間やった。
そこだけ、灯りがない。
石壁の間から、甘いような、腐ったような、変な匂いが流れてくる。
うちは補助外套を肩で押さえ直した。
「うちの妹に、変な手ぇ出してたら――」
足元にエネルジアを集める。
「二度とまっすぐ立てる体やと思うなよ」
聞こえたかどうかなんか知らん。
聞こえてへんなら、あとで直接言う。
うちは黒い隙間の奥へ、低く飛び込んだ。




