瓶が言わせた
…
……
「……あかん」
うちは瓶を両手で持ったまま、深刻な顔で言うた。
「これ、あかんやつや」
「おいしいって意味だよね?」
ゆみが、ぱっと嬉しそうに笑う。
「おいしいで済ませたら、これに失礼やろ。何これ。舌の上で祭り始まっとる。屋台出とる。知らん果物が法被着て踊っとる」
「よかった〜」
「よくない。うますぎる飲み物は、だいたい人生を狂わせるんや」
「もう少し飲む?」
「飲む」
即答してから、うちは一回だけ瓶を見た。
「……いや、違う。今のはうちやない。瓶が言わせた」
「責任転嫁が早い」
気むうが、ロストティーの瓶を両手で持ったまま言うた。
「うるさい。うちとこの瓶は今、信頼関係を築いとる途中や」
もう一口。
冷たい甘さが喉を落ちた瞬間、胸の奥の変な重さが、少しだけふわっと浮いた。
……浮いた、気がした。
軽い。
身体が軽いんやなくて、口の鍵が軽い。頭の中で普段ならギリギリ引っかかる柵みたいなんが、一本ずつ、ぽこん、ぽこん、と外れていく感じがする。
やばい。
せやけど、うまい。
やばいとうまいが同じ方向向いて走ってくる飲み物、法律でどうにかしたほうがええ。
「飲みすぎないでね、神いさん」
ゆみが少し心配そうに言う。
「大丈夫や。うち、自制心あるし」
気むうがこっちを見た。
「どこに」
「心の奥の、ほら、あのへん」
「ない」
「探せや!」
マイルズが、ビアーズのジョッキを置いた。
「吸収が少々早いように見受けられます。神い様、ひとまず瓶を置かれては」
「出た。毛玉の“楽しいもの取り上げる係”」
「職務ではございません。危険管理でございます」
「同じ顔しとる」
「同じではございません」
フルカフトが低く笑った。
「顔はないに等しいがな」
「フルカフト様」
「冗談だ」
「冗談の精度が粗いのでございます」
何やこの大人二匹。
ビアーズ入った途端、ちょっとだけ会話が柔らかくなっとるやん。
大人ってずるいわ。
その時、カウンターの方から誰かがゆみを呼んだ。ゆみは「あ、はーい」と返事して、トレーを胸元へ抱え直す。
「ちょっと片づけてくるね。それと、私もうすぐ上がりだから、あとで戻ってきてもいい?」
「上がり?」
「ウェイトレスのシフト終わり〜」
「異世界にもシフトあるんや……」
「あるよ。働かないとごはん食べられないもん」
ゆみは尻尾をぴんと揺らして、にこっと笑った。
「すぐ戻るね」
白いフリルが人のあいだへ消えていく。
うちはその背中を見送って、また瓶を一口やった。
「……神い」
「何」
「速度」
「飲み物に速度制限つけんなや」
「顔、赤い」
「うちの顔は昔から情熱的や」
「今は危険物っぽい」
「妹の表現が冷たい!」
せやけど、気むうはロストティーを飲んだあと、瓶の縁から視線だけうちに残しとった。
見とる。
心配、というより、確認。
こいつは今どこまで壊れとるんか、みたいな目。
腹立つ。
でも、その目ぇがあると、ちょっとだけ安心するのも腹立つ。
「お待たせ〜」
声が戻ってきた。
顔を上げた瞬間、うちの頭の中で何かが派手に転んだ。
ゆみやった。
さっきまでのメイド服やない。
黒い硬そうな胸当て。白い縁取り。肩と腹は思いきり出とるのに、急所だけはちゃんと守っとる。腰まわりも軽い。布やなくて、動くために削った装備。太ももも腕も出とる。せやのに、恥ずかしいより先に、速そうやった。
ブーツは高い。爪先が少しだけ獣みたいに尖っとる。膝から下だけで「跳ぶで」と言うとる。
腰には短い爪みたいな武器。
指先にも、隠し爪。
メイドやない。
猫や。
いや、猫耳メイドやったのが、急に猫耳戦闘職になっとる。
意味がわからん。
意味がわからんのに、似合いすぎとる。
腹立つ。
「……は?」
うちは瓶を持ったまま固まった。
「どうしたの?」
ゆみが首をかしげる。
そのせいで、黒い耳がちょこんと揺れた。
脳みそが終わった。
「……ナイスおっぱい、ゆみ」
空気が止まった。
ゆみの笑顔も止まった。
「えっ」
「あと脚もずるい」
「えっ!?」
「ちゃうねん」
出た瞬間、自分でも思った。ちゃうねん。いや、ちゃうことはないけど、ちゃうねん。
「これは違うねん。装備の話や。戦闘職としての重心と防御面積と、あと、その、全体の……殴ってくる感じがすごい。胸も脚も武器みたいな顔しとる。ずるい。うちもそれ欲しい」
「神い」
気むうの声が横から落ちた。
「最低」
「待て待て待て! 今のは総合評価や! 総合的にナイスという意味で!」
「胸って言った」
「胸部装甲!」
「脚も言った」
「脚部機動力!」
「言い直しても遅い」
ゆみは両腕で胸元を押さえたまま、顔を真っ赤にしてた。
けど、怒ってるというより、びっくりしてる顔やった。あと、ちょっと笑いそうな顔。
「……神いさん、ヒミツの実、効くの早いね?」
「効いてへん。うちは今、装備研究の鬼や」
「鬼は胸部装甲とか言わない」
「じゃあ何て言うねん」
「言わない」
マイルズが、ゆみとうちの瓶を交互に見た。
「やはり通常より反応が早いですね」
フルカフトはジョッキを置いて、こっちを見た。
「神い。水を飲め」
「水ぅ? 今うちの舌は祭り会場やぞ。水かけたら暴動起きるやろ」
「起きているのはお前だ」
ゆみはまだ少し赤い顔のまま、手に持っていた小さな袋をテーブルに置いた。
「えっと……これ、持ってきたの」
「何」
「ヒミツの実。小瓶じゃ足りないかなって。中瓶、何本か。みんなで飲めるし」
袋の中から、虹色の瓶が数本のぞいた。
さっきのより少し大きい。
光り方も、なんか調子乗っとる。
「いやいやいやいや」
うちは両手を前に出した。
「それはあかん。これは、うちの人生を狂わせる味しとる。追加は普通に危ない」
「でも」
ゆみは、袋を持ったまま、少しだけ目を伏せた。
「あの戦いのこと、ちゃんとお礼したかったから」
その一言で、胃の奥が変な形になった。
「神いさん、助けに来てくれたでしょ。怖かったけど、来てくれたの、嬉しかった」
「……いや」
喉が詰まった。
うちはテーブルの木目を見た。
またや。
この木目、今日めちゃくちゃ忙しいな。
「うちは、別に。勝手に突っ込んだだけで」
「それでも」
ゆみの手が、うちの手に重なった。
猫の手やのに、ちゃんと戦った手やった。
爪の付け根に小さい傷が残っとる。
「ありがとう」
「……っ」
うちは顔を上げられへんかった。
助けた。
助けに行った。
でも、助けきれてへん。
あの胃袋の中のことを思い出した瞬間、さっきまで舌の上で踊っとった祭りが、遠くで急に太鼓だけ鳴らし始めた。
「……ほな」
うちは、ゆみの袋から中瓶を一本引っ張り出した。
「もらうわ」
「うん!」
「お礼やからな。お礼を断ったら、なんか……こっちが負けたみたいになるからな」
「勝ち負け?」
「あるんや。うちの中には」
「ややこしいね、神いさん」
「生き方がな」
マイルズが小さく息を吐いた。
「神い様、一口ずつでお願いいたします」
「はいはい」
ぐびっ。
「……神い様。一口とは何を指しておいでですか」
「うまいからしゃーない」
「しゃーなくありません」
二口目。
ゆみの耳が、ほんの少し下がった。
「……やっぱり、多かったかな」
「多くない!」
うちは即答した。
「一回くらいなら誤差や!」
「一分以内に三回目でございます」
マイルズが言う。
喉を落ちた瞬間、床が少し遠なった。
椅子はちゃんとある。足もある。たぶん。せやけど、頭の中だけ一段高いところへ上がったみたいになる。
声が近い。
光も近い。
ゆみの耳も、気むうの睫毛も、マイルズのしっぽの輪っかも、フルカフトの腕の毛並みも、全部いちいち情報量多い。
「……世界、音でか」
「神い?」
気むうが、ほんの少しだけ身を寄せた。
「大丈夫」
うちは言うた。
「大丈夫や。うちは、めっちゃ大丈夫や。大丈夫の親玉や。大丈夫界のラスボスや」
「だめそう」
「判断早すぎん?」
ゆみが口元に手を当てて、くすっと笑う。
「神いさん、かわいい」
「かわいい!?」
うちは思わず立ちかけて、椅子に引っかかって、また座った。
「ちゃうやろ! うちはかわいい枠やなくて、爆裂枠や! もっとこう、危険で、赤くて、近づいたら髪焦げる感じの……!」
「髪はもう赤い」
気むうが言う。
「せやから説得力あるやろ!」
フルカフトが、ゆっくりジョッキを置いた。
「本当に水を飲ませろ」
「同感でございます」




