沈黙記録「ロストティー①」
泣かなかったからって、「平気」ってわけじゃない。
痛くないとも、限らない。
大丈夫、と言う。
そうすると、だいたい終わる。
相手はそれ以上、聞かなくて済む。
私も、それ以上出さなくて済む。
便利やった。
便利すぎて、少し嫌やった。
大丈夫。
平気。
別に。
何でもない。
言ったら、終わる。
終わってない時も、終わったことになる。
「しんどい」と言ったら、形になる。
形になったら、誰かが見る。
見られたら、説明しないといけなくなる。
何が。
どこが。
いつから。
なんで。
そんなの、分かるくらいなら、最初から大丈夫なんて言わない。
私は、あの「パーティー」とかいうやつに行く準備をしていた。
今日、屋上で会った、あの変な男の子に誘われたやつ。
神いは行かないと思った。
思ったというより、分かっていた。
部屋に戻ってから、神いはベッドに倒れたまま動かなかった。
壁のほうを向いて、赤い髪を枕にぐしゃっと広げたまま、いつもの寝言も、寝相の悪さもない。
寝ている、というより。
電源を切られたみたいやった。
肩のあたりに、外の空気がまだ残っている気がした。
泥。
水。
カエルのぬめった感じ。
宿の石鹸では消えきらなかった、変な冷たさ。
ユミさんの足が、カエルの口の中に消えた瞬間が、少しだけ戻ってきた。
神いは何も言わなかった。
ユミさんのことも。
フルカフトさんが助けたことも。
自分が、間に合わなかったことも。
言わないまま、落ちた。
神いは、うるさい。
いつも、部屋の空気を勝手に動かす。
でも今は、動かしていなかった。
それが怖かった。
……うちも、そうできたら楽やったのに。
眠って、何も見ないことにできたら。
『……本当に、行くの?』
ルッチアの声がした。
白の薔薇。
もう驚かなくなった。
頭の奥に誰かがいることにも、少しずつ慣れてきた。
慣れたくは、なかったけど。
「他にやることもないし。眠くもない」
『そう』
ルッチアは、そこで一度黙った。
考えている沈黙。
迷っている沈黙。
何かを言おうとして、やめた沈黙。
今のは、たぶん三つ目。
『初めて見たわ、その髪。指で整えたにしては、綺麗ね』
「……そう?」
髪に触る。
別に、綺麗ではなかった。
手櫛で何とかしただけ。
ところどころ跳ねてるし、湿気で少し重い。
でも、褒めようとしたのは分かった。
ありがたかった。
少しだけ、刺さった。
初めて白い薔薇に触れた時、何かを思い出した気がした。
思い出した、というより。
そこへ帰った気がした。
だから、勝手に高いところへ置いていた。
白い薔薇。
私を見てくれたもの。
ただいま、が自然に出た相手。
褒める前に、ほんの少し迷う声やった。
それが、思っていたより普通で。
少し拍子抜けした。
失望ではなかった。
白い薔薇でも、答えに詰まることがある。
それを知っただけやった。
部屋は静かやった。
神いの寝息だけが、細く続いている。
私は、天井の穴を数えていた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
木の板と布で雑にふさがれた跡もあった。
ふさがってないところから、夜の黒が見えていた。
継ぎはぎの空みたいやった。
少し、落ち着いた。
『……昨日の、会議のこと?』
ルッチアが先に言った。
私が聞こうとしていたのを拾ったんやと思う。
「うん。薔薇の会議、どうやったん」
『んー……まあまあ、かしら』
少し間があった。
まあまあではなさそうやった。
『まだ、私と赤のことを“詐欺”呼ばわりする者もいるし……あ、でも、私たちはちゃんとあなたたちを信じているわ。そこは本当よ』
「……うん」
『それに、まともに取り合っている者ばかりでもないの。寝ていたり、勝手に口説いてきたり、全然関係ない話を始めたり』
「薔薇も大変やな」
『大変よ。思っていたより、ずっと』
最後が少し沈んだ。
薔薇でも、そこで困るんやと思った。
「……そっか」
それだけ言って、私は立ち上がった。
ベッドのほうを見る。
神いは動かなかった。
外套が床に片方落ちかけていた。
いつもの、ちゃんと着ない茶色いやつ。
肘に引っかけたり、肩にずらしたり、邪魔そうにして、それでも捨てないやつ。
拾おうかと思った。
やめた。
神いの近くに置いておいた。
起きた時、たぶん探すから。
『気むう』
「何」
『……無理はしないでね』
私は少し考えた。
「無理って、どこから?」
ルッチアは答えなかった。
答えられない声やった。
だから、私もそれ以上聞かなかった。
部屋を出る。
廊下は、昼より少し冷たかった。
マイルズさんとフルカフトさんは、宿にいなかった。
「ギルドの酒場で知り合いに会う」とか言っていた気がする。
正確には、マイルズさんがそう説明して、フルカフトさんが短く頷いただけやった。
今は、そこまで頭が回らなかった。
階段を上る。
宿の階段は、城の階段ほど悪意がなかった。
それでも、足は少し重い。
屋上の扉の前で、私は一度止まった。
本来なら、もう何人か集まっているはずやった。
でも、音がしなかった。
笑い声も。
コップの音も。
誰かが椅子を引く音も。
何もない。
静かなパーティー。
そういうものも、あるのかもしれない。
そうだったら、少し楽やった。
扉を開ける。




