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だいきぼ★ウチュウ  作者: こなるちゃん
第二部 貧乏で、無力で。
45/60

濡れただけやろ

部屋を出ると、廊下もちゃんと貧乏やった。


床板は歩くたびに小さく鳴るし、壁は薄い。どっかの部屋からいびきが聞こえて、遠くでは金属の防具を床に落としたみたいな音がした。朝から誰かの人生が床に落ちとる。


階段の横には、泥のついたブーツが何足も並んどった。片方だけ逆さになって、中から小さい羽虫みたいなんが一匹よろよろ出てきて、また戻っていった。


「戻るなや」


誰に言うたんか自分でもわからん。


湿気の濃いほうへ進むと、すぐ浴場棟(よくじょうとう)やった。


石鹸。湯気。濡れた布。革。金属。あと、知らん獣の匂い。肩にタオルかけた女冒険者が、濡れた剣帯を片手で持ったまま横を通る。別の扉からは、湯気と一緒にでかいあくびが流れてきた。


全部混ざって、鼻の奥で「ここで寝るんか……」って形になった。


「……いや、無理やろこれ」


城の生活は、変やった。怖かった。意味もわからんかった。せやけど、整えられとった。誰かが全部、こっちより先に用意してた。


ここは違う。


みんな、自分の汗を自分で流して、自分の道具を持って、自分の順番を待っとる。


冒険者って、もっとこう、酒場でドンッてして、依頼書バーンってして、剣キラーンってするもんやと思っとった。


現実は、朝から風呂待ちで足元までぬるい。


浴場棟は、中庭みたいな場所に繋がっとった。屋根はあるけど、外の空気も少し入る。床はタイル張り。安っぽいけど掃除はされとる。壁際には洗面台が並んでいて、奥に個室の洗浄室がいくつかある。


湯気が低いところで溜まって、足元だけ妙にぬるい。どっかの個室の扉を、外から誰かがコンコン叩いた。


「時間やでー」


中から、くぐもった怒声が返ってきた。


文明、催促と湿気つきなんか。


で、その前に列。


「……うわ」


長い。


めちゃくちゃ長い、とは言わん。けど、寝起きで見たら心が折れる程度には長い。


「コミケか」


「何それ」


「こっちの世界にも知らんでええ地獄があるねん」


列の先で、冒険者らしき連中がタオル持って待っとる。女の人もおるし、獣耳もおるし、背中に羽みたいなんあるやつもおる。みんな普通に疲れた顔で順番待ちしとる。


ここではこれが普通なんや。


その普通が、じわじわ服の中まで湿ってくる。


「うちは個室シャワーなんか浴びへん」


うちは洗面台のほうを指した。


「髪だけ洗う。身体は……今日は精神的に無理」


「昨日も似たようなこと言ってた」


「昨日とは種類が違う無理や」


「好きにしろ」


フルカフトは短く言って、男用区画のほうへ向かった。背中がでかい。何かもう、あいつはこういう場所でも一ミリも揺れへん。世界がどんだけ雑でも、本人の芯だけ真っ直ぐ立っとる感じがする。


マイルズは入口近くでふわっと止まった。


「私は外で待機いたします。何かあればお呼びください」


「毛玉、水ダメなん?」


「業務上、不要でございます」


「答えになってへん」


うちは空いてる大きめの洗面台へ向かった。


肘に引っかけとった茶色い補助外套(ほじょがいとう)が、湿気を吸ってもう邪魔やった。外して脇に避ける。ちゃんと着ても邪魔。ちゃんと着んでも邪魔。何なんこいつ。


冷たい水を出して、指で温度を見る。ぬるい。ぎりぎり許せる。髪をほどくと、赤い毛先が肩の前へ落ちた。思ったより絡んどる。爆発、土、汗、宿舎の湿気。全部まとめて、うちの頭で会議してたらしい。


「……ちょっと脂と絡みだけ取れたらええねん」


隣に、()むうが来た。


「何」


「一人にしたら、水場で何か起こしそう」


「水場で何を起こすと思われとんねん」


「爆発」


「せえへんわ! 水回りで爆発とか最悪やろ!」


「わかってるならいい」


「信用の置き方が雑!」


気むうは青灰の髪を、指先で少しだけ梳いた。朝の湿った光の中で、いつもより少し淡く見える。こいつはこういう場所でも、周りの音に混ざらへん。静かすぎて、逆に目立つ時がある。


その時や。


「あの」


後ろから声がした。


振り向くと、まだ服を着た若い男の子が立っとった。年はうちらより少し上か、同じくらいか。猫耳でも角でも羽でもない。普通っぽい。普通っぽいのが、この世界やと逆にちょっと珍しい。


片手に、木の札を何枚か挟んだ小さい板を持っとる。たぶん浴場の順番か何かや。こっちの濡れた髪を見る前に、ちゃんと視線を少し横へ逃がした。


表情は柔らかい。けど、変に馴れ馴れしい感じではない。


「昨日ギルドに来てた新人さん、ですよね」


「……まあ」


うちは半分だけ返事した。


「ルイです。宿舎の案内係みたいなことを、たまに手伝ってます」


「あ、そうなん」


「今夜、屋上で軽い集まりがあるんです。新人の人も何人か来るので、よかったら」


「パス」


即答した。


今うちには、屋上で誰かと仲良しこよしする体力なんかない。髪。飯。寝る。命の優先順位はそのへんや。


ルイは困ったように笑った。押してはこんかった。


「無理にとは言いません」


「……行く」


横で、気むうが言うた。


うちは首だけ、ぎぎっと気むうへ向けた。


「……行くん?」


「たぶん」


「たぶんで人の誘い受けるん?」


「断る理由もない」


あるやろ。


知らん人。知らん屋上。知らん集まり。こっちは異世界の疲れがまだ骨に挟まっとるんやぞ。


そう言いかけて、やめた。


気むうはうちを見てへんかった。ルイのほうを見て、ただ小さく頷いとる。別に楽しそうではない。けど、嫌そうでもない。


その、嫌そうではない、が変に引っかかった。


「じゃあ、あとで場所だけ伝えます」


ルイは軽く頭を下げて、列のほうへ戻っていった。途中で別の冒険者に札を渡して、小声で何か説明しとる。


うちは水を出したまま、しばらくその背中を見てしまった。


「……ほんまに行くん?」


「気が向いたら」


「ふうん」


それ以上、何も出てこんかった。


知らん。


別にええし。


髪や。今は髪。


うちは袖をまくって、頭を洗面台へ突っ込んだ。


水を含んだ瞬間、髪が一気に重くなる。赤い毛束が手の中でぬるっとまとまって、昨日までの汗と埃が指の間を流れていった。


「あー……生き返る……」


声が漏れる。


洗う。流す。絡みをほどく。毛先を指で梳く。細かい砂みたいなんが落ちて、排水口へ吸い込まれていく。


髪洗うだけで、だいぶ人間に戻るんやな。


安い身体やわ、ほんま。


最後に、両手で髪をまとめて、水気をぎゅっと絞った。


赤い髪が、肩から胸の前へ落ちる。


水が、ぽた、ぽた、とタイルに落ちた。


その瞬間。


周りの音が、半拍だけ遅れた。


「……?」


顔を上げる。


何人かが、こっちを見とった。


洗面台の横の女冒険者。列の途中の若い男。奥でタオルを肩にかけとった獣人。入口のほうで待機しとるマイルズまで、いつもの礼式顔のまま、ほんの少しだけ固まっとる。


フルカフトも、男用区画の入口から戻ってきたところで一瞬止まった。


ただ、こいつだけはすぐに目を逸らした。


「髪を下ろすと、印象が変わるな」


それだけ言って、何事もなかったみたいに横を通る。


それだけ。


それだけやのに、周りの視線が急に肌の上をすべったみたいで、ぞわっとした。


「……は?」


うちは濡れた髪を両手で掴んだ。


何や。


何で見とんねん。


いや、見るなとは言わん。言わんけど、その見方は何や。いつもの赤い頭が、ちょっと水で黙っただけやろ。何を急に、別のもん見つけたみたいな顔しとんねん。


「……(かみ)い様」


マイルズが、咳払いみたいに小さく声を整えた。


「その状態ですと、視線を集めやすいかと」


「言うな!!」


うちは髪をばさっと前へ垂らして、顔を覆った。


「見るな見るな見るな! 変な顔すんな! 濡れただけやろが!!」


「別に変な顔は」


「しとった!!」


気むうだけが、横で平常運転やった。


濡れたうちを上から下まで一回見て、何でもないみたいに言う。


「だから、いつも整えたほうがいいって言ってる」


「……そうなん?」


思わず、髪の先を触った。


濡れて重くなった赤い毛が、指にまとわりつく。いつもより暴れてへん。


「似合ってる」


気むうは短く足した。


「……っ」


顔が熱くなる。


「そ、そういうの急に言うなや」


「調子に乗らないで」


「まだ乗ってへんわ」


その時。


中庭の外から、鐘の音が鳴った。

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