濡れただけやろ
部屋を出ると、廊下もちゃんと貧乏やった。
床板は歩くたびに小さく鳴るし、壁は薄い。どっかの部屋からいびきが聞こえて、遠くでは金属の防具を床に落としたみたいな音がした。朝から誰かの人生が床に落ちとる。
階段の横には、泥のついたブーツが何足も並んどった。片方だけ逆さになって、中から小さい羽虫みたいなんが一匹よろよろ出てきて、また戻っていった。
「戻るなや」
誰に言うたんか自分でもわからん。
湿気の濃いほうへ進むと、すぐ浴場棟やった。
石鹸。湯気。濡れた布。革。金属。あと、知らん獣の匂い。肩にタオルかけた女冒険者が、濡れた剣帯を片手で持ったまま横を通る。別の扉からは、湯気と一緒にでかいあくびが流れてきた。
全部混ざって、鼻の奥で「ここで寝るんか……」って形になった。
「……いや、無理やろこれ」
城の生活は、変やった。怖かった。意味もわからんかった。せやけど、整えられとった。誰かが全部、こっちより先に用意してた。
ここは違う。
みんな、自分の汗を自分で流して、自分の道具を持って、自分の順番を待っとる。
冒険者って、もっとこう、酒場でドンッてして、依頼書バーンってして、剣キラーンってするもんやと思っとった。
現実は、朝から風呂待ちで足元までぬるい。
浴場棟は、中庭みたいな場所に繋がっとった。屋根はあるけど、外の空気も少し入る。床はタイル張り。安っぽいけど掃除はされとる。壁際には洗面台が並んでいて、奥に個室の洗浄室がいくつかある。
湯気が低いところで溜まって、足元だけ妙にぬるい。どっかの個室の扉を、外から誰かがコンコン叩いた。
「時間やでー」
中から、くぐもった怒声が返ってきた。
文明、催促と湿気つきなんか。
で、その前に列。
「……うわ」
長い。
めちゃくちゃ長い、とは言わん。けど、寝起きで見たら心が折れる程度には長い。
「コミケか」
「何それ」
「こっちの世界にも知らんでええ地獄があるねん」
列の先で、冒険者らしき連中がタオル持って待っとる。女の人もおるし、獣耳もおるし、背中に羽みたいなんあるやつもおる。みんな普通に疲れた顔で順番待ちしとる。
ここではこれが普通なんや。
その普通が、じわじわ服の中まで湿ってくる。
「うちは個室シャワーなんか浴びへん」
うちは洗面台のほうを指した。
「髪だけ洗う。身体は……今日は精神的に無理」
「昨日も似たようなこと言ってた」
「昨日とは種類が違う無理や」
「好きにしろ」
フルカフトは短く言って、男用区画のほうへ向かった。背中がでかい。何かもう、あいつはこういう場所でも一ミリも揺れへん。世界がどんだけ雑でも、本人の芯だけ真っ直ぐ立っとる感じがする。
マイルズは入口近くでふわっと止まった。
「私は外で待機いたします。何かあればお呼びください」
「毛玉、水ダメなん?」
「業務上、不要でございます」
「答えになってへん」
うちは空いてる大きめの洗面台へ向かった。
肘に引っかけとった茶色い補助外套が、湿気を吸ってもう邪魔やった。外して脇に避ける。ちゃんと着ても邪魔。ちゃんと着んでも邪魔。何なんこいつ。
冷たい水を出して、指で温度を見る。ぬるい。ぎりぎり許せる。髪をほどくと、赤い毛先が肩の前へ落ちた。思ったより絡んどる。爆発、土、汗、宿舎の湿気。全部まとめて、うちの頭で会議してたらしい。
「……ちょっと脂と絡みだけ取れたらええねん」
隣に、気むうが来た。
「何」
「一人にしたら、水場で何か起こしそう」
「水場で何を起こすと思われとんねん」
「爆発」
「せえへんわ! 水回りで爆発とか最悪やろ!」
「わかってるならいい」
「信用の置き方が雑!」
気むうは青灰の髪を、指先で少しだけ梳いた。朝の湿った光の中で、いつもより少し淡く見える。こいつはこういう場所でも、周りの音に混ざらへん。静かすぎて、逆に目立つ時がある。
その時や。
「あの」
後ろから声がした。
振り向くと、まだ服を着た若い男の子が立っとった。年はうちらより少し上か、同じくらいか。猫耳でも角でも羽でもない。普通っぽい。普通っぽいのが、この世界やと逆にちょっと珍しい。
片手に、木の札を何枚か挟んだ小さい板を持っとる。たぶん浴場の順番か何かや。こっちの濡れた髪を見る前に、ちゃんと視線を少し横へ逃がした。
表情は柔らかい。けど、変に馴れ馴れしい感じではない。
「昨日ギルドに来てた新人さん、ですよね」
「……まあ」
うちは半分だけ返事した。
「ルイです。宿舎の案内係みたいなことを、たまに手伝ってます」
「あ、そうなん」
「今夜、屋上で軽い集まりがあるんです。新人の人も何人か来るので、よかったら」
「パス」
即答した。
今うちには、屋上で誰かと仲良しこよしする体力なんかない。髪。飯。寝る。命の優先順位はそのへんや。
ルイは困ったように笑った。押してはこんかった。
「無理にとは言いません」
「……行く」
横で、気むうが言うた。
うちは首だけ、ぎぎっと気むうへ向けた。
「……行くん?」
「たぶん」
「たぶんで人の誘い受けるん?」
「断る理由もない」
あるやろ。
知らん人。知らん屋上。知らん集まり。こっちは異世界の疲れがまだ骨に挟まっとるんやぞ。
そう言いかけて、やめた。
気むうはうちを見てへんかった。ルイのほうを見て、ただ小さく頷いとる。別に楽しそうではない。けど、嫌そうでもない。
その、嫌そうではない、が変に引っかかった。
「じゃあ、あとで場所だけ伝えます」
ルイは軽く頭を下げて、列のほうへ戻っていった。途中で別の冒険者に札を渡して、小声で何か説明しとる。
うちは水を出したまま、しばらくその背中を見てしまった。
「……ほんまに行くん?」
「気が向いたら」
「ふうん」
それ以上、何も出てこんかった。
知らん。
別にええし。
髪や。今は髪。
うちは袖をまくって、頭を洗面台へ突っ込んだ。
水を含んだ瞬間、髪が一気に重くなる。赤い毛束が手の中でぬるっとまとまって、昨日までの汗と埃が指の間を流れていった。
「あー……生き返る……」
声が漏れる。
洗う。流す。絡みをほどく。毛先を指で梳く。細かい砂みたいなんが落ちて、排水口へ吸い込まれていく。
髪洗うだけで、だいぶ人間に戻るんやな。
安い身体やわ、ほんま。
最後に、両手で髪をまとめて、水気をぎゅっと絞った。
赤い髪が、肩から胸の前へ落ちる。
水が、ぽた、ぽた、とタイルに落ちた。
その瞬間。
周りの音が、半拍だけ遅れた。
「……?」
顔を上げる。
何人かが、こっちを見とった。
洗面台の横の女冒険者。列の途中の若い男。奥でタオルを肩にかけとった獣人。入口のほうで待機しとるマイルズまで、いつもの礼式顔のまま、ほんの少しだけ固まっとる。
フルカフトも、男用区画の入口から戻ってきたところで一瞬止まった。
ただ、こいつだけはすぐに目を逸らした。
「髪を下ろすと、印象が変わるな」
それだけ言って、何事もなかったみたいに横を通る。
それだけ。
それだけやのに、周りの視線が急に肌の上をすべったみたいで、ぞわっとした。
「……は?」
うちは濡れた髪を両手で掴んだ。
何や。
何で見とんねん。
いや、見るなとは言わん。言わんけど、その見方は何や。いつもの赤い頭が、ちょっと水で黙っただけやろ。何を急に、別のもん見つけたみたいな顔しとんねん。
「……神い様」
マイルズが、咳払いみたいに小さく声を整えた。
「その状態ですと、視線を集めやすいかと」
「言うな!!」
うちは髪をばさっと前へ垂らして、顔を覆った。
「見るな見るな見るな! 変な顔すんな! 濡れただけやろが!!」
「別に変な顔は」
「しとった!!」
気むうだけが、横で平常運転やった。
濡れたうちを上から下まで一回見て、何でもないみたいに言う。
「だから、いつも整えたほうがいいって言ってる」
「……そうなん?」
思わず、髪の先を触った。
濡れて重くなった赤い毛が、指にまとわりつく。いつもより暴れてへん。
「似合ってる」
気むうは短く足した。
「……っ」
顔が熱くなる。
「そ、そういうの急に言うなや」
「調子に乗らないで」
「まだ乗ってへんわ」
その時。
中庭の外から、鐘の音が鳴った。




