白い虎やん
うちは、まだ動揺したままフルカフトのほうを振り返る。
「ぐぬぬ……おい、ふるるん!」
「うん?」
「なんとかせえや、これ――」
言いかけた瞬間、足元が消えた。
いや、消えたんやない。
踏んだ場所が、階段の角やった。
さっきまで平らやと思ってた石の端が、半段だけ落ちていて、うちの右足がずるっと滑った。
「あ」
身体が、ふわっと浮く。
胃が置いていかれる。
肘の補助外套が、ばさっと跳ね上がる。
視界の端で、石段が斜めに流れた。
下。
階段。
石。
めっちゃ石。
「神い!」
気むうの声。
マイルズのしっぽが動く。
その前に、白い影が跳ねた。
フルカフトやった。
……たぶん。
いや、違う。
目の前に来たのは、人やなかった。
巨大な白。
鋭い爪。
分厚い前脚。
真っ白な毛並みが、風を割って迫ってくる。
獣。
でかい獣。
虎。
「――っ」
背中の服ごと、補助外套の端が、がしっと掴まれた。
牙やない。
爪やない。
何かが、ちゃんと布だけを噛むみたいに掴んどる。
身体が宙で止まった。
石段に叩きつけられる寸前で、うちはぶら下げられた。
……助かった。
助かった、はずやった。
でも、その時のうちの脳は、助かったところまで処理できてへんかった。
目の前に白い虎。
背中掴まれとる。
足、空中。
仲間、誰も慌ててへん。
結論。
「いやあああああ!! 離せぇぇぇ、クソ獣ぅぅぅ!!」
白い虎は、うちを咥えたまま、階段の安全な踊り場へ軽く跳んだ。
「な、なに落ち着いとんねんみんな!? うち今、獣に回収されとるんやぞ!? しかも白い! 高そう! 絶対あとで請求くるやつや!!」
「神い、それ――」
気むうが何か言いかける。
マイルズも、しっぽを上げる。
「お嬢様、それは――」
聞こえへん。
うちの手のひらには、もう熱が集まっとった。
「MAGIC SPELL No.207――」
白い虎が、ようやく踊り場にうちを下ろそうとした。
「火成波ぁぁぁ!!」
赤い火の波が、近距離でばっと開いた。
白い毛が、一瞬、赤く照らされた。
「……あ」
虎の身体が、びくっと止まる。
焦げた匂いがした。
ものすごく、嫌な沈黙が落ちた。
白い虎は、ゆっくりうちを地面へ置いた。
それから、煙を少しだけ上げながら、白い光みたいに形をほどいて――フルカフトに戻った。
胸元の服が、見事に焼けていた。
皮膚も赤い。
フルカフトは、自分の胸元を見下ろし、それからうちを見る。
穏やかな顔やった。
穏やかすぎて、逆に怖い。
「……無事か」
「……」
うちは、口を開けたまま固まった。
気むうが、うちの横に来た。
「神い」
「……はい」
「やりすぎ」
「……はい」
マイルズが、深い深いため息を吐きながら、しっぽをフルカフトの胸元へ伸ばした。淡い光が、焦げた部分を覆っていく。
「火傷としては軽度です。毛皮形態から戻る際に大半の熱は逃げております」
「それ先言うて……」
「先に言う時間を、お嬢様が火で焼き払いました」
「……はい」
フルカフトは階段の縁に腰を下ろした。
焼けた上着を少しずらす。
下の身体が見えた。
……いや。
めっちゃ鍛えとるな。
待て。
今そこ見る場面ちゃう。
ほんまちゃう。
でも見えるもんは見えるやろ。目ぇついとるんやから。うち悪くない。いや悪い。今は全部うちが悪い。
「ふ、ふるるん」
「うん」
「その……ごめんな。えむあっち♡」
気むうの視線が、冷凍庫より冷たくなった。
マイルズのしっぽも止まった。
フルカフトだけが、一拍置いて、少しだけ笑った。
「謝罪としては、かなり独特だな」
「いや、知らんやん! ふるるんが急に白虎モードになるとか、うち聞いてへんもん!」
「私が申し上げる前に燃やされましたので」
マイルズが、治療を続けながら言った。
「フルカフト様の戦闘形態でございます。高機動、近接防護、搬送、制圧に優れた姿で――」
「搬送された側、心の準備ゼロやったんやけど」
「それは今後慣れていただくしかございません」
フルカフトは、赤くなった胸元を軽く押さえながら、まだ落ち着いた声で言った。
「大丈夫だ。神いは落ちた。俺は拾った。神いは知らずに撃った。それだけだ」
「それだけで済ますなや、聖人か」
「それに、自分を守る反応は早かった。悪いことばかりではない」
「ふるるん……」
「ただ、次は撃つ前に相手の顔を見てくれ」
「はい……」
気むうが、ぼそっと言う。
「顔、虎やったけど」
「追い打ちやめて」
うちは、盛大に息を吐いた。
胸がまだバクバクしとる。
腹も、さっきの屋台の匂いを思い出して勝手に死にかけとる。
「で」
うちは、マイルズを見る。
「結局、餓死せんためのプランは何なん」
マイルズの目が、ものすごく疲れた。
「まさにそれを説明しようとしておりました。皆様が、聞いてくださらなかっただけでございます」
「はいはい。うちが悪かった。九割くらい。しゃべれ」
「この村には、冒険者ギルドがございます」
出た。
ギルド。
異世界っぽい単語、ようやく出た。
ただ、今のうちはもう、胸を躍らせるより先に腹が鳴りそうやった。
「名前からして、働かされる匂いするな」
「実際、働きます」
「村を守る仕事がございます。住民からの依頼もございます。危険区域の確認、荷運びの護衛、壊れたものの処理なども含まれます」
「つまり、面倒ごと詰め合わせ?」
「報酬つきでございます」
「登録が通れば、日当が出ます。依頼をこなせば追加報酬も出ます」
「飯」
「飯でございます」
「最初からそう言うてくれや」
「最初から言おうとしておりました」
フルカフトが、焼け残った上着を整えながら首を傾げた。
「日当は国から出るのか」
「一部は国から出ます。外王都村が止まれば、城への道も物資の流れも止まりますので」
「住民からの依頼は?」
「別払いでございます」
「なるほど。合理的だ」
「合理的とかどうでもええ。飯が食えるかどうかや」
「登録が通れば、でございます」
うちは、眉をひそめた。
「飯まで審査制なん?」
「仕事でございますので」
「通らん場合は?」
「別の手段を考えます」
「……その別、合法?」
「状況によります」
「聞かん」
気むうが、屋台のほうを一回だけ見た。
それから、小さく言う。
「行く」
声は低いけど、早かった。
腹は正直や。
「せやな。行こ。腹が本気出す前に、金のほう先に出す」
フルカフトが立ち上がった。
焦げた服を気にする様子も、ほとんどない。
「案内を頼む、マイルズ」
「承知いたしました」
マイルズはしっぽを軽く上げ、階段の下へ進み始めた。
うちらも続く。
そこからの道は、道というより、階段やった。
いや、ほんまに。
歩く、という行為の七割くらいが、上がるか下がるかや。
「この大階段は、もともと王城へ続く道でした。そこへ店と宿と倉庫が張りついて、今の外王都村になったのです」
マイルズが説明する。
「名前、やっぱ負けとるやろ」
「何に?」
気むうが聞く。
「中身に」
それは、ほんまにそうやった。
石段の左右に、家が張りついとる。
地面に建っとるというより、山に引っかかっとるみたいな家。上の階の玄関が、別の家の屋根の横にある。窓から縄が伸びて、籠に入った荷物が上へ下へ運ばれていく。魚みたいな顔の兄ちゃんが、背中に木箱を三つ背負って階段を上がっとる。その横を、羽のある子どもがひょいっと飛び越えた。
ずるい。
こっちは膝で生きとんねん。
店先には、湯気、油、香草、金属、獣の毛、焼いた粉の匂いが混ざっていた。
めちゃくちゃや。
けど、誰かの昼飯で、誰かの仕事で、誰かの家やった。
一段広い場所には、小さい屋台が並んどる。
サングラスをかけた狼の兄ちゃんが、荷物運びの値段を店主と揉めとる。赤い甲殻のてんとう虫みたいなおばちゃんが、やたら上品な帽子で果物を一個だけつまみ、値札を見て、無言で戻した。
変や。
変やのに、誰も自分のこと変やと思ってへん顔で生活しとる。
それが一番、脳に来る。
気むうは、少し後ろで黙って歩いとった。
けど、視線だけはよく動いとる。
屋台。値札。階段の端。人の流れ。こっちをちらっと見る目。看板。空の歪み。
うちより、ずっと少ない動きで、ずっと多く見とる。
途中、見覚えのある形の袋菓子が店先に吊られていた。
ポテチっぽい。
いや、ポテチではない。
袋には、でかでかとこう書いてある。
パタタタトス。
「……パタタタトス」
声に出してもうた。
「おい、名前バグってんぞ」
値札を見る。
二百フローリン。
隣の辛そうなやつは、三百五十フローリン。
でかい袋は四百。
「つまり」
うちは、値札を睨んだ。
「二万六千フローリンあったら、パタタタトス百袋くらい買える」
「旅費を菓子換算するのはおやめください」
「価値がわかりやすいやろ」
「神い」
気むうが言う。
「百袋、持てない」
「そこ?」
フルカフトは、少しだけ笑った。
「まず一袋からだな」
「ふるるん、わかっとるやん」
歩くほど、村は広がった。
上にも、下にも、横にも。
道は階段になり、階段は広場になり、広場の端からまた別の階段が伸びる。遠くでは、水路みたいなものが山肌に沿って流れていて、小さな水車がいくつも回っていた。けど一つだけ、水車の影が半拍遅れて回っていた。
うちは見なかったことにした。
いや、見た。
見たけど、今は腹と金のほうが強い。
「こちらです」
マイルズが足を止めた。
目の前に、かなり横に広い建物があった。
石と木を混ぜた、どっしりした建物。屋根は丸く膨らんでいて、遠目には冬用のニット帽みたいにも見える。けど近くで見ると、あちこち補修されていて、古い傷や焦げ跡も残っとった。
入口は広い。
扉というより、でかい口みたいに開いとる。
中からは、声、足音、木の椅子を引く音、紙をめくる音、何かを揚げる油の匂い、金属がぶつかる音が混ざって漏れてきた。
外へ出てくる連中も、濃かった。
白いヒゲを三つ編みにした爺さんが、斧を杖みたいに持って階段を降りてくる。機嫌の悪そうな細身の兄ちゃんが、片手で書類を丸めながら誰かに文句を言っている。背中に甲羅のある女の人が、腰の短剣を確かめながら笑っていた。人間っぽい顔のやつもいる。獣っぽいやつもいる。どっちかわからんやつもいる。
みんな、こちらを一瞬見る。
見て、測る。
さっきの“変なのが叫んだ”を見る目とは違う。
こっちは、“飯の種か”“事故の種か”“金になるか”“面倒になるか”を見る目やった。
「……ここが」
うちは、喉の奥で言った。
「冒険者ギルドでございます」
マイルズが答える。




