訓練記録「戦」
何日目かは、もう怪しかった。
起きる。顔を洗う。茶色い補助外套と目が合って負ける。第四図書室へ行く。
その流れだけは、だいぶ身体に入ってきていた。
異世界生活、思ったより通勤感がある。
通勤先で毎日、床と壁に負けるところまで含めて。
ここ数日、うちは小規模瞬間移動にずっと負けていた。
半歩にもならん距離。
歩けば終わる距離。
せやのに魔法で越えようとした瞬間、そこだけ急に崖になる。
肩は棚を覚えた。
肘は床を覚えた。
膝は壁を覚えた。
首元は、茶色い外套に裏切られた感触を覚えた。
身体中に、図書室の地図ができそうやった。
痛覚で。
成功したんは、一回だけ。
半メートル。
しかも着地は、勝ちというより転倒の親戚やった。
それでも、動いた。
その事実だけが、身体中の痛いところに引っかかって、寝ても抜けへんかった。
新しい朝が来ても、痛みだけは昨日のままやった。
気むうは何も言わずに、肘まで落ちていた補助外套を少し直した。怒ってる、という感じでもなかった。ただ、そうした。それだけやった。
「……壊れないで」
「壊れへんわ」
言うたけど、たぶん声はだいぶ弱かった。
そしてその日も、うちらは第四図書室へ向かった。
その日の城は、いつもより読み込みが雑やった。
廊下の柱が、一拍遅れて震える。
燭台の火だけが、揺れたあとにもう一回同じ揺れを繰り返す。
床の模様が、踏む前と踏んだ後で少しだけ位置を変える。
一番腹立ったんは、右の扉やった。
ほんの一瞬だけ、鏡のふりして二枚になりよった。重なって、ずれて、また一枚へ戻る。
「……今日、現実の機嫌悪ない?」
うちは足を止めかけた。
マイルズは前を進みながら、振り向きもしない。
「現在、レンダリングエラーの波が強まっております。足元にご注意ください」
「その説明で済ますなや。廊下が二重に見えたんやけど」
「二重に踏まなければ問題ございません」
「問題の置き場所おかしいやろ」
気むうは隣で、黙って床を見ていた。怖がっている顔ではない。でも、いつもより少しだけ、歩幅が狭い。
うちは、直されたばかりの外套の端を指で押さえた。
……ちっ。
図書室に着くと、いつもの長机がなかった。
代わりに、奥の空間が広く空けられていた。棚の前に白い円が描かれていて、壁際には模擬体が何体か、眠るみたいに並べられている。
「……何これ」
嫌な予感がした。
マイルズは、黒板の前ではなく、円の外側へ浮いた。
「本日は、模擬戦を行います」
「模擬戦?」
「はい。対戦相手は、お二人です」
「……は?」
意味が入るまで、一秒かかった。
入った瞬間、声が出た。
「妹に手ぇ出せるか、アホ」
「訓練でございます」
「訓練でも嫌やわ。何でうちが気むう殴らなあかんねん」
「殴る以外の選択肢もございます」
「屁理屈の毛玉」
その時、気むうが小さく言った。
「いいよ」
「……え、ええの?」
気むうは、いつも通りの顔でこっちを見ていた。
「どうせ、神いは当てられないと思う」
図書室の空気が、そこで一回止まった。
「……」
「……」
「……」
うちは、深く眉を寄せた。
肘まで落ちていた外套を、肩へ一気に戻す。
戻した瞬間、見た目のやる気が三段くらい死んだ。
でも今はええ。
「ああ、そう。ほな今から泣かす」
「神い様」
マイルズが入る。
「模擬戦です。過剰な出力は禁止します。爆裂魔法は禁止。対象の生命維持に関わる術式は禁止。終了の合図には即座に従ってください」
「わかったっちゅうねん!」
「では、開始位置へ」
うちらは円の中へ入った。
距離は、十歩くらい。近いようで遠い。遠いようで近い。
気むうは構えない。
腕も組まへん。
足も広げへん。
ただ、そこに立っている。
それが逆に腹立つ。
こっちはちゃんと戦闘っぽい姿勢を取ってるのに、あいつだけ日直みたいな顔しとる。
「三、二、一でええ?」
「合図はこちらで行います」
「ええ!?」
「開始」
でも、身体はもう動いていた。
飛行。
速度補助。
足裏に火の芯を通す。
拳には、薄い炎。
火纏拳。
こういうのは信用できる。
手に火が乗る。
それだけで、だいぶ話が早い。
うちは正面から突っ込んだ。
「いっけぇぇぇ!!」
正面突破。
気むうは動かない。
ほんまに動かない。
「うそやろ!?」
拳が届く寸前、気むうの前腕がすっと上がった。
白い膜。
バシィッ!!
炎の拳が弾かれる。熱が散って、衝撃が浅く逃がされる。
「っ、固……!」
「バリア」
名前だけ置いて、気むうはほんの少しだけ足を引いた。
それだけ。
うちは地面を蹴り直す。
下から行く。
脚を狙う。
火をまとわせた拳ではなく、速度補助で詰めた下段。
入る、と思った。
でも、気むうの身体が、ふわっと上へ逃げた。
高い。
必要最低限なのに、妙に高い。
「はあ!?」
空中の気むうが、指を二本、こちらへ向けた。
きいん。
「ぐぇ……っ」
足が、一瞬だけ言うことを聞かんかった。
痛い、ではない。
でも次の動きが半拍遅れる。
着地が乱れる。
床が近い。
慌てて外套を引く。
茶色い布が肘に絡んで、さらに邪魔をする。
「ほんまお前は戦闘中まで――!」
「神い、前」
「へ?」
気むうがもう目の前にいた。
手刀みたいな軽い一撃が、肩へ入る。
痛いというより、体勢が抜けた。
身体の中心だけ、ふっと横へずらされる。
「っ、あぶな!」
転びかけて、飛行で無理やり戻る。
「今のはずるいやろ!」
「模擬戦中でございます」
マイルズの声が飛んできた。
「神い様。勢いで形が崩れております」
「今それどころちゃう!」
「それどころです」
うちは奥歯を噛んで、距離を取った。
息を整える。
手のひらを見る。
火。
速度。
飛行。
それだけじゃ、届く前に読まれる。
なら、読まれる前に位置を変える。
「……ここ数日、うちが何に負けてたか知ってる?」
気むうが、わずかに首を傾けた。
「壁」
「そこだけ覚えんなや!!」
でも、今の怒りで逆に腹が決まった。
うちは真正面から飛んだ。
速く。
まっすぐ。
わざとわかりやすく。
気むうの目が、うちの肩を見る。
読まれた。
たぶん。
なら、それごと使う。
拳を前に出す。
炎をまとわせる。
気むうが防御を上げる、その直前――
守る。
引く。
小規模瞬間移動。
視界が半拍だけずれた。
真正面から、斜め後ろへ。
身体がまだ追いついてへんのがわかる。
背中の奥が、びりっと引っ張られる。
茶色い外套が一瞬遅れてついてくる。
それでも、抜けた。
「カセイハァアアア!!」
両手の間で、火が開いた。
投げるんやない。
前へ逃がす。
火の波が、気むうの横から走る。
ドンッ!!
熱が図書室の空気を揺らした。
気むうの身体が、床を滑る。
白いバリアが一瞬、遅れて光った。
完全には防げてへん。
そのまま、気むうは膝をついた。
手のひらが熱い。
小規模瞬間移動から火成波へつないだ瞬間、身体の中の何かが一拍だけ空になった。
でも、入った。
うちは拳を握った。
「よっしゃ……!」
声が出る。
勝った空気が、喉の奥まで上がってくる。
その瞬間やった。
気むうは、立った。
それだけで、うちの勝った空気が死んだ。
無言。
表情も変わらん。
でも、膝についた手を離して、まっすぐ立つ。
何なん。
こいつ、倒れ方まで静かか。
「……今の、効いたやろ」
「うん」
「じゃあもっと倒れとけや」
「まだ」
短い。
その短さが、いちばん嫌やった。
気むうの指が、また二本上がる。
今度は、さっきと違う。
空気の中の音が、全部そっちへ寄っていく。
図書室の紙の擦れる音。
遠くの本棚のきしみ。
うちの息。
床の微かな震え。
全部が細い線になって、気むうの指先へ集まる。
「神い」
気むうが言った。
「……止まって」
背中がぞわっとした。
「█▓▒░ FINAL SPELL No.345 ░▒▓█
ハイ・ヘルツ」
次の瞬間、世界が白くなった。
視界が消える。
音が消える。
いや、違う。
音だけが残る。
キィィィィィィィィィィン。
耳鳴りやない。
耳鳴りというより、頭の内側へ直接、細い針金を張られた感じ。
痛い。
響く。
気持ち悪い。
上がどこか、床がどこか、一瞬わからなくなる。
気むうが前にいるのか横にいるのかも、白の中でほどける。
「っ、あ……!」
身体が遅れる。
手を上げたい。上がらん。
足を引きたい。遅い。
防御を張る場所すら、一瞬わからん。
その白の中で、何かが入ってくる。
一発目。肋骨の下。
二発目。肩。
三発目。脚の外側。
当たるたび、薄い訓練膜が遅れて光る。
痛い。
でも、壊す痛さやない。
動きを奪う痛さやった。
強すぎる打撃ではない。
でも、全部、嫌なところへ来る。
こっちの動きが戻る前に、次が来る。
「っ、く……!」
白が少しずつ薄くなる。
音が遠くなる。
視界が戻った時、うちは床へ片膝をついていた。
呼吸が荒い。
手のひらが震える。
足に力が入らん。
気むうは、数歩先に立っていた。
息は少し乱れている。
でも、顔は変わらん。
「……くっそ」
言うた瞬間、マイルズのしっぽが床を打った。
ぴし。
「そこまででございます」
うちはその場に座り込んだ。
いや、座り込んだというより、身体が勝手に床と契約した。
「……今の、反則ちゃう?」
「反則かと問われれば、いいえでございます」
「そこは否定してくれや」
マイルズは、二人の間へ浮いた。
いつもの綺麗な声。
でも、少しだけ息が入っている。
たぶん、ずっと細かく見ていたんやろう。
「初戦としては、悪くありません」
うちは顔を上げた。
気むうも、そっちを見る。
「神い様は、勢いで形を崩しすぎです。攻撃へ移る判断は早い。小規模瞬間移動と火成波の接続も成功しております。ただし、防御が遅れれば、今のように止められます」
「……はいはい」
「気むう様は、止め方が少々えげつない」
気むうの目が、少しだけ動いた。
「……えげつない?」
「はい。実戦では有効です。ただし、相手の復帰を見誤れば、過剰になります」
「……わかった」
マイルズは一拍置いた。
それから、しっぽの先を床から離す。
「ですが――お二人とも、戦闘にはなっておりました」
うちは床に座ったまま、手のひらを見た。
まだ火の熱が少し残っている。
耳の奥には、ハイ・ヘルツの白い音が薄く残っている。
気むうを見る。
あいつは、こっちを見ていた。
勝った顔はしていない。
謝る顔でもない。
ただ、確認するみたいに見ていた。
「……次は当てるからな」
うちが言うと、気むうは少しだけ息を整えてから言った。
「当たった」
「最後に勝ってから言えや」
「……勝った」
「言うな!!」
気むうの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
腹立つ。
でも、悪くなかった。




