訓練記録「影②」
うちはグリモワールの別の頁をめくった。指先が、そこで止まる。
SPELL――小規模瞬間移動。
「……」
半径一・五メートル以内。
指定した位置へ、ほぼ瞬間的に移動する術式。
見た瞬間、さっきまで胸に引っかかっていたものが、別の方向へ跳ねた。
「何これ」
声が出た。
「めっちゃええやん」
『あら』
イスシアが、すぐに食いついた。
『それ、失敗したら壁と仲良うなるやつやねぇ』
「やめろや」
『床とも仲良くなれるわよ。運が悪ければ、机とも』
「どれも友達にしたないわ」
マイルズが頁を覗き込む。
「……それを見つけましたか」
「その反応、絶対おもろいやつやん」
「危険な術式です」
「ほら、おもろいやつやん」
「神い様」
その時だけ、マイルズの声から薄い苛立ちが消えた。
「これは、ただ速く動く術式ではございません。まず身体を衝撃耐性の薄い膜で包みます。その上で、エネルジアによって肉体そのものを目的点へ引く。防御と移動を同時に行わなければ、着地時に身体が負けます」
「つまり?」
「先に守らなければ、移動先で壊れます」
「急にわかりやすいな」
わかりやすいけど、怖い。
自分を引っ張る。
身体を丸ごと、見えへん手でぐいっと目的地へ持っていく。
かっこいい。
めちゃくちゃかっこいい。
でも、失敗したら壁にベチャッといく未来も、かなり見える。
うちは茶色い補助外套を見下ろした。肘に引っかかったまま、今日も見た目だけ殺している。
ダサい。
重い。
でも、今から壁に会うかもしれんと思うと、急に頼もしい顔し始めるから腹立つ。
「……これ、やる」
「推奨はいたしません」
「じゃあ何で本に載せとんねん」
「載っているものすべてを初日に試すためではございません」
「でも載っとる」
「神い様」
マイルズの声が、また硬くなる。
「一度だけです。条件はこちらで制限します。距離は半歩。速度も落とします。失敗した場合は、即座に中止します」
「半歩て。夢ないな」
「夢より骨を優先してください」
正論や。
正論って、だいたい腹立つ。
気むうが、少し離れた場所からこっちを見ていた。
「……神い」
「何」
「外套」
「わかっとるわ。着るわ」
「ちゃんと」
「うるさいなあ」
うちは渋々、茶色い補助外套を肩へ戻した。
戻した瞬間、見た目のやる気が三段くらい死んだ。
でも、捨てる勇気はない。
ほんま、最悪の信頼関係やな、これ。
マイルズが床に小さな印を二つ置いた。
今いる場所。
半歩先。
たったそれだけ。
たったそれだけやのに、胸の奥がざわつく。
『やるなら、綺麗にやりなさいな』
イスシアが言う。
『半端な移動ほど、見苦しいものはないわ』
「怖い応援やめろ」
うちは息を吸った。
皮膚の外に、薄い膜を探す。
肩。腕。脚。
外套の下。
身体の輪郭ぜんぶ。
守る。
それから、半歩先へ。
引く。
「……行くで」
引いた。
半歩。
たった半歩のはずやった。
せやのに次の瞬間、世界が横から殴ってきた。
ゴンッ!!
壁やった。
……なるほど。
この魔法、めちゃくちゃかっこいい。
めちゃくちゃかっこいいけど、初対面の挨拶が、暴力やった。
「……っだぁ……」
肩から壁に入った。
いや、入ってへん。
入ってへんけど、気持ちとしては一回めり込んだ。
ゴンッ、て鳴った。
図書室の壁、思ったよりちゃんと壁やった。
「っ……う、わ……」
肩の奥がじんじんする。
痛い。
腹立つ。
しかも痛み方が「お前、今の下手やったで」って言うてくるタイプの痛みや。
茶色い補助外套が、少しだけ衝撃を殺していた。
守られたことまで腹立つ。
「神い様」
マイルズが、うちの横へすっと降りてくる。
「防御膜が遅れています。牽引だけが先に走れば、移動ではなく衝突になります」
「……つまり、今のはだいぶ失敗やな」
「はい」
「そこは少し濁せや」
肩を押さえて起き上がる。
痛い。
動くけど、ちゃんと痛い。
肘に引っかけていた外套が変な位置までずれていたから、うちはそれを雑に戻した。雑に戻したせいで、また少しずれた。
もうええわ。
今はお前に構っとる余裕ないねん。
マイルズは、少し考えるようにしっぽを揺らした。
「続ける前に、ご自身の身体をエネルジアで支える感覚を確認しましょう」
「身体を支える?」
「はい。飛行系の初歩です。小規模瞬間移動より、失敗時の危険は小さい」
「飛行」
痛みが、ちょっとだけ奥へ引っ込んだ。
「……それ、普通にええやつやん」
「最初は浮くところからです」
「ええやん。浮いたら勝ちや」
「勝利条件が低く設定されておりますね」
「うるさい。浮いたら勝ちや。人類、昔からそこ目指してきたやろ」
うちは首を少し回した。
肩はまだ痛い。
でも、飛行って言われたら、そらやるやろ。
異世界まで来て、壁と仲良くなるだけで終わる女にはなりたない。
足の裏から、床を離す。
……というより、身体の下に、薄い流れを集める。
最初は、尻だけ上がった。
「ちょ、待っ……」
上半身が追いつかへん。
身体が「ほな下半身だけ先行っとくわ」みたいな裏切り方をしてくる。
肘に引っかけていた外套が、ずるっと前へ滑る。茶色い布だけが、うちより先に飛ぶ気で視界の端で揺れた。
「お前だけやる気出すな!」
「神い様。落ち着いてください。力の置き方が荒い」
「落ち着ける状況ちゃうやろ!」
「背中と腰で支えてください」
「背中と腰で支えるって何!? 急に身体の説明下手になるな!」
「では、まず呼吸を」
「呼吸はしとる!」
してる。
してるけど、だいぶ雑やった。
呼吸というより、怒りを空気で薄めてるだけやった。
身体の下に集めたエネルジアを、足じゃなくて、背中の奥へ回す。
腰のあたりに薄い板を入れる感じ。
その板を、床からちょっとだけ離す。
ふわ、と身体が浮いた。
「……お」
両足の裏が、床から少しだけ離れている。
「おお」
「落ち着いてください」
「落ち着けるか。浮いとるんやぞ」
「半手幅でございます」
「知るか。浮いとるんやぞ」
歩くより遅い。
方向転換も怪しい。
油断したら、身体が斜めに沈む。
せやのに、浮いとる。
「へ……へへ……」
変な笑いが出た。
あかん。
今、絶対きしょい顔しとる。
でも、無理や。
浮いとる。
うち、浮いとる。
「へへ……見てるか重力。今だけお前、ちょっと負けとるで」
「重力への挑発は不要です」
「必要や。こっちは毎日負けとんねん」
うちは、歩くよりずっと遅い速度で、図書室の端へ流れていった。
身体は少し前のめり。
外套は斜め。
姿勢は終わってる。
でも、浮いとる。
そのまま、棚の近くまでふわふわ流れていた時やった。
天井に、犬がおった。
四本足で、天井に普通に立っていた。
「……」
犬は動かない。
鳴かない。
落ちない。
その影だけが、床に普通の向きで落ちていた。
「……こわっ」
集中が切れた。
どすん。
尻から落ちた。
「っつ……!」
痛い。
肩の次は尻か。
今日のうち、だいぶ地形に負けとる。
尻を押さえながら起き上がると、図書室の空気が少し変わっていた。
気むうのほうで、次の訓練が始まっとる。
模擬体が二体。
さっきより大きい。木と布だけやなく、胸のあたりに薄い金属板が入っている。立ち方も、前のやつより少しだけ人っぽい。
人っぽいいうても、ちゃんと怖いほうの人っぽさや。
夜中に廊下で会いたくない種類のやつ。
マイルズは気むうの前に、魔法大百科の頁を開いていた。
「続いて、先ほどの干渉を実戦に近い形で確認します」
「……うん」
「対象の行動起点を落とします。破壊ではなく、停止です」
気むうは小さく頷いた。
模擬体が動く。
一体が棒を上げる。
もう一体が横から詰める。
気むうは逃げへん。
ただ、指を二本、前へ出した。
きいん、と細い音がした気がした。
耳やない。
頭の奥に、細い線を一本引かれたみたいな感じ。
模擬体二体の動きが、同時に崩れた。
棒を持ったほうは、振り下ろす前に膝をつく。
横から来たほうは、腕を伸ばしたまま、足だけが止まる。
その隙に、気むうが踏み込んだ。
一発。
腹の奥。
二発。
膝の内側。
三発目で、模擬体は床へ落ちた。
静かに。
普通に。
えげつなく殴った。
「……今、何で倒したん」
気むうはこっちを見た。
「音」
「音で人止まるん?」
「止まる」
「音の評価、今日でだいぶ下がったわ」
マイルズのしっぽが、床を二度打った。
ぴし、ぴし。
「干渉成功。追撃への移行も正常です」
気むうは倒れた模擬体を見て、少しだけ目を伏せた。
「……戻る?」
「戻ります。損傷はありません」
気むうは、小さく頷いた。
うちなら、当たった、勝った、終わりや。
気むうは、そのあとを見る。
そういうとこが、優しいのか怖いのか、たまにわからん。
どっちかにしてくれたら楽やのに。
『白が放っておけへん類の、面倒な優しさやねぇ』
イスシアが、頭の奥で笑った。
「……どういう意味」
『さあ。倒したあとを気にする子は、だいたい面倒なのよ』
「褒めてんの?」
『半分くらい』
残り半分は、聞かんことにした。
マイルズがこちらを見る。
「神い様。飛行の確認はここまでです。小規模瞬間移動は、後ほど再開します」
「逃げへんからな」
「術式が、ですか」
「うちがや」
マイルズは一拍だけ黙った。
「……承知いたしました」
気むうが、倒れた模擬体を見たまま言うた。
「壁には逃げられてない」
「今それ言うな」




