訓練記録「影①」
何度目かの第四図書室やった。
お姫さまみたいな部屋で起きて、顔洗って、変な城の廊下を通って、図書室へ直行。言葉にすると、完全に異世界の朝やのに、身体はもう少しずつ慣れ始めとる。最悪や。人間、適応力高すぎる。もっと拒否していけ。
茶色い補助外套は、今日も肘のあたりにだらっと引っかけといた。
ちゃんと着る気はない。
せやけど、完全に置いてくる勇気もない。
見た目は終わる。防御はちょっと上がる。何やこの嫌な取引。異世界まで来て、最初に学ぶ人生の真理が「ダサいもんほど命を守る」なん、納得いかへん。
今日は、気むうの訓練日やった。
マイルズは最初から、魔法大百科を気むうの前に開いとった。昨日うちが使った攻性の頁とは違う、もう少し薄い青灰色の栞が挟まったところ。
気むうは椅子に座って、それを静かに見とる。
静かすぎる。
うちは隣で、もう三分くらい黙っとる。
三分。
えらい。
うちにしては、かなりえらい。
……でも、そろそろ無理や。
人が黙って何か選んどるのを横で見てるだけって、どうしたらええん。呼吸の置き場がない。変に咳したら邪魔やし、黙りすぎてもこっちが置物になるし、気むうの空気だけどんどん深くなっていくし。
こういう時、うちは何か音を出したくなる。
たぶん、それがあかんのやろな。
目を閉じる。
頭ん中でイスシアを呼んでみる。
「イスシア」
反応なし。
「おい、赤い高級造花」
反応なし。
「聞こえとるなら返事せえ。こっちは今、妹の訓練を無言で見守るという高等修行中やぞ」
『朝から品のない呼び鈴やねぇ』
頭の奥に、ぬるっと声が入ってきた。
出た。
『高級造花って何やの。せめて薔薇と呼びなさいな、小娘』
「呼んだら来るんかい」
『あんたの頭ん中がうるさすぎて、近づく前からわかるわ』
「便利やな」
『迷惑の間違いやねぇ』
イスシアの声は、いつも通り腹立つくらい艶っぽい。けど、今日は少しだけ薄い。朝やからとか、距離があるからとか、そういうんやない。気むうの近くにいるせいで、赤い声まで少し慎重になっとる気がした。
「今日、気むうの訓練やで」
『見ればわかるわ』
「興味ないん?」
『それ、うちの仕事ちゃうわ。白の領分やもの、ねぇ?』
「白?」
うちは気むうの横顔を見た。
「……気むうにも、頭ん中に薔薇おるん?」
『何を今さら』
イスシアが、少しだけ笑う。
「お前みたいに性格悪いん?」
『そこまで悪趣味やないわ。逆よ。腹立つくらい優しい。考えすぎる。黙りすぎる。……だから面倒なの』
「ほな、ええやつやん」
『ええやつは食われるのよ』
そこで、イスシアの声が少しだけ擦れた。
『あっちで食われ、こっちで食われ。
最後には、猫に舌でも持っていかれたみたいに黙る』
「……嫌な言い方」
『事実はだいたい嫌な顔してるものよ』
うちは何も返せんかった。
気むうは、ただ本を見とる。
細い指が、頁の端に触れている。力は入ってへん。せやのに、その周りだけ空気が妙に整っとる。うちが火を寄せる時みたいに追いかけてへん。向こうが、勝手にそこへ来るのを待っとるみたいやった。
「気むう様」
マイルズが呼んだ。
「本日は、干渉系を中心に確認いたします。攻撃ではなく、行動の起点を落とす術式です」
「……うん」
気むうは小さく頷いた。
うちは思わず口を挟む。
「何でそれなん?」
気むうがこっちを見る。
まっすぐ。
責めるでもなく、説明したがるでもなく、ただ一回こっちを見て、それから本へ視線を戻した。
「敵に勝てないなら」
声は小さい。
「敵を、攻撃させなければいい」
図書室の音が、一瞬だけ薄くなった。
うちは眉を動かした。
「……それ、防御の顔しとるくせに、攻撃より物騒ちゃう?」
「そう?」
「そうやろ」
気むうは答えへん。
マイルズも、そこは否定しなかった。
「精神干渉は、壊す術式ではございません。意識、反射、緊張、眠り――そういった起点に触れ、行動を鈍らせます」
「ほな安全なん?」
「扱いを誤れば、相手を余計に危険な状態へ押し込む可能性もございます」
「うわ」
「ですので、慎重に」
「急に怖いな」
マイルズは図書室の奥から、小さな訓練人形を浮かせてきた。木と布でできた、兵士の形をしたやつや。背丈は気むうの腰くらい。手には短い棒。目はない。せやのに、立たされると何となくこっちを見る感じがした。
「これは簡易模擬体です。痛覚はございませんが、命令に従って攻撃動作を取ります」
「えぇ……かわいそ」
「かわいそうではございません。備品です」
「うわ。浪漫ないな」
「備品に浪漫は不要です」
「最悪の答えや」
マイルズがしっぽを一度、床へ落とす。
模擬体が動いた。
短い棒を持ち上げる。ぎこちない。けど、攻撃の形にはなってる。こっちへ一歩、二歩。
気むうは立ち上がった。
構えない。
息をひとつ吸って、吐く。
それだけ。
ほんで、指先を少しだけ前へ出した。
白っぽい流れが、見えた気がした。いや、見えたんかどうかはわからん。光やない。火でもない。空気の中の雑音が、一ヶ所だけ静かになる感じ。
模擬体の腕が止まった。
棒を振り下ろす直前の形で、ぴたりと。
次の瞬間、腕から力が抜けた。
棒が床へ落ちる。
からん、と音がした。
模擬体は一歩だけ進みかけて、膝から崩れた。倒れる音まで小さい。まるで誰かに叩き潰されたんやなくて、起きている理由だけをそっと抜かれたみたいやった。
「……」
うちは、口を閉じた。
なんや今の。
派手やない。
全然、派手やない。
せやのに、海水浴場のクラゲくらい嫌な怖さがある。
「良好です」
マイルズが言う。
「侵入、保持、解除。いずれも乱れが少ない。初回としては非常に安定しております」
しっぽの先が、床を二回だけ叩いた。
ぴし、ぴし。
拍手、なんやろうな。たぶん。
気むうは褒められても、ほとんど顔を変えへん。ただ倒れた模擬体を見て、少しだけ目を伏せた。
「……もう一回、できる?」
「可能でございます」
「なら……お願い」
「承知いたしました」
二人とも丁寧すぎるねん。
見てるこっちの口が悪いみたいになるやろ。
気むうは、倒れた模擬体から目ぇを逸らさへんかった。
勝った相手を見る目やない。
落としたものを、ちゃんと拾う前の目やった。
うちなら、たぶん倒れた瞬間に「よっしゃー!」で終わっとる。気むうは、倒したあとのことまで見とる。
……何やねん。
『ほらね』
イスシアが、頭の奥で笑った。
『優しいだけの子なら、あんな止め方せえへんのよ』
「……性格悪」
『どっちが?』
それ以上は、聞かんかった。
その時、図書室の奥で、ぱら、と音がした。
見ると、本棚の一角で、本が三冊、空中に浮いとった。
誰かが読んでいた途中みたいな角度で、ぴたりと止まっている。次に、すうっと落ちる。床に届く寸前で、時間が巻き戻ったみたいに元の高さへ戻る。
また落ちる。
戻る。
落ちる。
戻る。
同じ動き。
寸分違わん動き。
記録された失敗を、ずっと再生しとるみたいやった。
「……日に日に芸が細かくなっとるな」
うちは、その変なループをじっと見た。
落ちる。
戻る。
落ちる。
戻る。
ありえへんことが、普通みたいな顔して続いとる。
「……これ、ほんまにええん?」
『青があのままなら、綻びは増えるわよ』
イスシアの声が、さっきより少し低い。
『今は、机と本で済んでるだけ』
「……え?」
『ただの迷子に、部屋と飯と教師までつける王なんて、そうおらんわよ』
乾いた声やった。
いつもの甘ったるい嫌味と、少し違う。
「……そんなやばいん?」
『みんなが怯えるくらいには。
でも、あんたがまだ爆裂で遊べるくらいには、崩れきってへん』
何も返せんかった。
せやから、うちはもう一回、落ちて戻る本を見た。
マイルズは浮いている本のループを一度だけ見た。眉もないくせに、ほんの少しだけ空気が硬くなる。それから、気むうへ向き直った。
「次は、より強い干渉を試します」
「……うん」
「神い様」
「何」
「その間、こちらで近接補助の基礎を確認してください」
「え、うち今、気むうのすごいやつ見てるとこなんやけど」
「口を挟まれる前に、手を動かしていただいたほうが双方に有益です」
「おい」
図星やから余計腹立つ。
マイルズは別の頁を開いた。
SPELL No.031――身体強化。
SPELL No.044――速度補助。
SPELL No.052――出力補助。
SPELL No.088――火纏拳。
いきなり多い。
「待て待て待て。多ない?」
「数日はかけます。今は、動きながら補助術式を切らさない感覚だけ掴んでください」
「……つまり、戦いながらズルする練習やな」
「表現は不適切ですが、近いです」
「よし」
せやけど、動くのは嫌いやない。
速度補助は、足の中に火の芯を通すみたいな感じやった。筋肉で走るんやなくて、身体そのものをエネルジアで前へ押す。最初の一歩で行きすぎて、肘に引っかけた茶色い外套が、ずるっと前へ滑った。
「っ、ほんまお前は――!?」
ほんま、守る前にまず邪魔してくるな、お前。
出力補助は、腕の内側に見えへん棒を入れられたみたいな感覚。力を入れすぎると、関節が嫌な方向へ文句言う。火纏拳はまだマシやった。手の甲に薄く火を纏わせるだけ。見た目がいい。大事。かなり大事。
「神い様、見た目だけで術式を評価しないでください」
「見た目が死んだ術式に人生預けたくないねん」
「命を預ける基準を見直してください」
「こっちのセリフや」
そうやって何回か壁際を往復している間に、気むうのほうでは次の準備が整っていた。
模擬体が二体。
さっきより大きい。人間より少し低いくらい。木と布と金具でできてるくせに、立ち方だけ妙に生々しい。片方は棒。もう片方は腕を広げて、掴みに来る形。
「実戦想定です」
マイルズが言う。
「無理に破壊する必要はございません。行動を止めてください」
「……わかった」
気むうは前へ出た。
うちは、途中で足を止めた。
見てしまった。
今度は、ちゃんと。
模擬体が動く。片方が棒を振る。もう片方が横から詰める。
気むうは逃げへん。
一歩だけ下がる。ほんの一歩。そこに、白い流れが薄く広がる。
音がした。
耳やない。頭の奥で、きいん、と細い何かが鳴った気がした。
模擬体二体の動きが、同時に崩れた。
棒を持ったほうは、振り下ろす前に膝をつく。掴みに来たほうは、腕を伸ばしたまま、身体だけが後から止まる。糸を切られたみたいに、どちらも床へ落ちた。
気むうは、手を下ろす。
叫ばへん。
踏み込まへん。
勝った顔もせえへん。
ただ、終わったものを見ている。
たまに思う。
こいつ、静かな顔で全部持っていく時あるな。
「……今の、何」
自分でも、声が少し低くなったのがわかった。
気むうはこっちを見た。
「音」
「音て」
「中に、入れる音」
説明になってるようで、なってへん。
でも、それ以上聞けんかった。
聞いたら、何か余計なとこまで触ってしまいそうやった。
マイルズは、しっぽの先で床を一度だけ打った。
「非常に良好です。対象二体への干渉、時間差なし。保持時間も十分。解除時の戻しも可能でしょう」
「……壊れてない?」
「問題ございません」
気むうはまた、少しだけ目を伏せた。
その時、うちは思った。
どこまでが、うちの知ってる気むうなんやろ。
同じ家で、同じ朝に起きて、同じ道を歩いて、しょうもないことで言い合ってきた妹。
それは、ちゃんとここにおる。
おるのに。
青い目ぇで、どこか寂しそうな顔をして、ほとんど動かんまま二体の模擬体を黙らせたやつも、同じ気むうや。
うちが見てへんかっただけで、前からそこにあったんか。
それとも、こっちの世界が引っ張り出したんか。
わからん。
わからんのが、ちょっとだけ怖い。
「神い様」
マイルズの声で、うちは顔を上げた。
「補助術式へ戻ってください」
「……はいはい」
戻る。
戻るしかない。
いつまでも気むうのほうを見ていたら、たぶん変な顔になる。




